乗ってみないか?


「ちょっと乗ってみないか?」


 グンさんが親指を立て、マスタングに向けた。これから試乗に出ようと言う。パイプ椅子にかけていたパーカーを取り上げ、僕の胸に「ほい」と言って押し付ける。試乗に連れ出す気満々だ。有難いことではあるけれど、かなり強引。

 そそくさとパイプ椅子を片付けると運転席側のドアを開け、意気揚々と僕をエスコートした。

 同伴するグンさんに、現場をはなれて大丈夫なのか訊ねると、「これも仕事だからね」とあっけらかん。余計な心配をするなと言わんばかりに僕の背中をぐいぐい押しては早く乗り込むように急かし、自分も助手席に乗り込んだ。

 運転席側と助手席側のドアがほぼ同時に、一九六五年の音で閉じられた。


 運転席に身を沈めると、レザー特有の冷たさに包まれた。内装は黒で統一されている。シートや内張の光沢は妖しく、艶美だった。

 センターコンソールから、先端に可愛らしい球体をつけたシフトレバーが立ち上っていた。珍しいことに4速マニュアルだ。マニュアル車に苦手意識はなかったけれど、初めての左ハンドルであることには不安がある。

「なあに、二時間も乗れば慣れるよ」

 そうは言われても、左ハンドル越しに見る景色の違和感は相当なものがある。目の前に見える二本の桜の木でさえ僕を心配そうに見ているようだ。間違っても両者をなぎ倒し、その向こうの廃車ヤードに突っ込むというB級映画に有りがちな真似だけは避けなければ。


 さて、最近の車しか知らない僕には信じられないことがあった。シートが一定の角度で固定されており、リクライニングできないのだ。厳密にはリクライニングできないというのは間違いで、今の車のシートのように容易く、そして頻繁に角度調整ができないそうだ。そういう仕様のシートが初代マスタングに採用されたらしい。

 そのようなシートだと色々と不便な面も出てくるだろう懸念があった。なんとか運転席だけでも今風のシートに交換できないかと訊ねると、グンさんは「ひゃ・く・ま・ん」と一音一音強調して言った。たった百万でマスタングを手に入れたのだから辛抱せいということだろう。確かに虫がよすぎた。

 梃子でも動きそうもないシートにもたれて座りのいい位置を探す。僕とあまり変わらない体型のグンさんが普段乗られているのだ、うん、大丈夫そうだ。

「いいかな?」

 グンさんがそう言ってライダースジャケットのポケットからキーを取り出し、振り子のように揺らす。マスタングのキーは馬のレリーフが刻まれており、蹄鉄を象った鉛色のキーホルダーがぶら下がっていた。

 差し出した僕の手のひらに、小さな音を奏でて落下された。

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