殺し文句

 はて、どうしてこうなってしまったのだろう。中古の軽自動車を見にきたはずが、いつしか僕がマスタングを買うのか買わないのかの雲行きになっている。どうもグンさん、端から僕にマスタングを売るつもりでいた、そんな臭いがぷんぷんしている。勘の鋭い人ならもっと早く気付いていただろう。僕が鈍感なだけだ。

 恐らく、約束していた軽自動車は用意されていないだろうし、いまさら軽自動車を見せて云々言うと不穏な空気になりそうだった。このような雰囲気がとても苦手だ。ひと言、気まずい。

 こうなってしまったのには僕にも非がある。グンさんが色々と目をかけてくれるのをいい事に、何かと言ったらグンさんグンさんと頼りにしてきたのが悪いのだ。

 グンさんのことを子供のような人だと言っておきながら、僕のほうがよっぽど子供だ。それも質の悪い、自覚がありながら甘ったれ根性の抜けないガキ。その付けが回ってきたのだ。

 とは言っても後の祭り。ここからどうグンさんと向き合えばいいのか妙案が浮かばない。ただ黙っているだけの時間が、締め忘れた蛇口から流れる水道水のように縷々としていた。


 この雰囲気を一変させたのが、グンさんの「納豆巻き、食べる?」だった。なぜこのタイミングで“納豆巻き”なのだろうか? 敢えて聞かなかったけど、グンさん流の高尚なテクニックなのか。気まずい空気の流れを変え、僕を脱力させるのに十分だった。

 僕は膝を曲げて足を浮かせると、回転椅子に座っているようにお尻を中心に九〇度回転してグンさんに向き直し、再戦の口火を切った。といっても言い争いをするつもりは微塵もない。波風立たないように、なるべく穏便に済ませたい。

 さて、ほかに買ってくれそうな当てはないのだろうか? そう訊くと、僕が気を許したとでも思ったのだろうか、途端にグンさんは息を吹き返したように目の輝きを取り戻した。

「日下部君しか、いないんだよねえ」

 どうだ、これが殺し文句だと言いたげに、僕を下から見上げていたずらっぽく笑った。立ち直りの早い人だ。

 そう言われると悪い気はしないのが人間の性。そこを突かれては弱い。僕だって、大きな男っぽい車に乗ってみたい気はある俗な人間だ。やはり僕はどこまで行ってもグンさんの手のひらの上からは逃げられない、そんな気がするのだ。


 僕は気持ちを新たにしてグンさんに向き直し、肝心なところを訊いた。いったいグンさんは幾らで売るつもりなのだろうか?

 グンさんは「これだけ」と言って人差し指を立てた。一千万ではない、百万だと。

 初代マスタングの相場は知らなかったけど、とても百万で買える代物ではないことくらいは分かっていた。僕の懐具合を慮っての百万だろう。どこの馬の骨か云々は、あながち嘘ではなさそうだ。本当に百万でいいのか念押しすると、グンさんは本気だと言い切った。

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