高柳さんの予感

 グンさんはドスンと尻もちをつくようにパイプ椅子に座った。当てが外れたのが尾を引いているのか、意気消沈しているように見える。僕はと言えば、グンさんとのやり取りで少し体温が上がったのか、やや汗ばんでいた。見上げるとお天道様が高いところにあり、陽光が眩しいくらいだった。僕は羽織っていたパーカーを脱いでパイプ椅子の背もたれに掛けた。

 工場の喧騒が止み、スタッフたちが交わす声が聞こえてきた。お昼休みに入ったのだろう。こちらも休戦だ。


 肩を落としたグンさんを残して僕は席を立ち、眠ったように静かになった工場の前を通ってプレハブ前の自販機に行った。そこで顔なじみの整備スタッフ、高柳たかやなぎさんと鉢合わせした。

 高柳さんは僕と同年代で背格好も近い。切れ長の目をスクエアの黒縁セルフレーム眼鏡からのぞかせ、理知的な面持ちの方だった。繋ぎよりも白衣が似合いそう。すでに結婚もされ一児のパパさんでもある。僕の車の面倒もよく見てくれ、この整備工場では気兼ねなく話せる数少ないスタッフの一人だった。

 キャップを前後ろに被り、首からタオルをかけていた。そしてタオルの両端を左右の手で握りながら、ちらりとガレージの方に目配せし、落ち着いたトーンで訊ねてきた。

「日下部さん、マスタング買うんですか?」

 とんでもない。僕は手を素早く振って否定した。それより、高柳さんたちスタッフ皆もグンさんからマスタングの押し売りにあったのでは?

「いやあ、そんなのなかったですね」

 落ち着き払った言い方に虚や隠し事といったものは感じられなかった。高柳さんがそんなことをする人ではないのは分かっているけどね。では、あの話はグンさんの出任せだったのだろうか。それとも何か意図があってのことだろうか。とにかく、グンさんに長々と捕まっているけど、なんとかやり過ごしてみせるつもりだ。だけど高柳さんは、僕がマスタングを買う羽目になる、そんな予感がすると言った。どうして?

「なんとなくですよ、なんとなく」

 そう言って高柳さんは、どこか含みを持った笑みを浮かべた。僕としては気になって仕方がない。

 その笑みはなに? 心配しれくれているの? それともなにか期待しているの? 

 高柳さんは「さあ、どっちでしょうねえ」とあやふやにして、また謎めいた笑みを浮かべて踵を返した。

 僕が周りからどう見られているかなんて僕自身も気付いてはいる。押しに弱くていつも貧乏くじを引かされる奴、そんなところだろう。ちょっと癪だけど。


 僕が自販機で冷たい缶コーヒーを二本買ってガレージに戻ると、グンさんは依然として悲愴感を漂わせていた。まるで哀愁溢れる“考える人”だ。なにもそこまで沈むことはないと思うのだけど。

 僕は缶コーヒーを“考える人”の顔の近くまで伸ばしてあげると、その人はバッテリー切れ寸前のロボットのような動きをした。ハエが停まりそうなスローモーションで受け取ると、そのまま物悲しそうな目でマスタングのエンブレムを見つめた。それはガラス越しにトランペットを見つめる少年の姿とは似て非なるもので、折れる気配のない僕への当てつけか、口をへの字に曲げて単にすねてるようにも見える。子供がそのまま大人になったようなグンさんに、なぜ僕が手を焼かねばいけないのだろう。


 僕はグンさんを横にしてパイプ椅子に腰を下ろし、ガレージの外に視線を向けた。

 視線のすぐ向こうには廃車ヤードが広がっている。その手前に、晴れ晴れとした空を背景にした二本の桜の木があった。時折、ガレージの中にまで桜の花びらが舞い降りてくる。僕のスニーカーの上に花びらが一枚二枚と、音もなく降りた。

 工場の方で誰かが面白いことでも言ったのか、スタッフたちがどっと笑った声が聞こえた。

 遠くで航空機が飛ぶ音が微かに聞こえた。

 グンさんが足を組み換えて、ジーンズの衣擦れが聞こえた。

 パイプ椅子が軋む音が聞こえた。

 ちょっとした雑音が、静寂を静寂たらしめていた。

 平日の昼間、やけに静かで、やけに時間がゆっくりと流れている感じがした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る