噂は噂さ

 缶コーヒーのプルタブを起こす音が二つ、歯切れよく響いた。それは浮遊するシャボン玉が壊れた時の効果音に似ていた。

 僕たちが共に一口二口、缶コーヒーを喉に通したとき、やはりやり過ごすことはできなかった。グンさんが不意に訊いてきた。

「仕事は?」

 一瞬間、虚を突かれてひるんだ。いつかは訊かれると思っていた。僕はなるべく平静に、目も合わさず「辞めちゃったよ」と素っ気なく言ったつもりだったけど、それは自分でも分かるくらい白々しく、素直さに欠けた強がり混じりのものだった。

 当然グンさんにも見透かされたと思い、「なんで?」と返されるのではと臆した。だけどグンさんはすまし顔で、「そうか」とだけ小声で言うと、後は何にもなかったように缶コーヒーをもう一口すすった。

 僕もグンさんの真似するように缶コーヒーをもう一口すすり、ふうと細い溜息をついた。ここ何日か、胸中に巣作っていたわだかまりが、風船がしぼむように小さくなった。


 仕事を辞めると気が晴れると思っていた、最初のうちは。ところがそうではなかった。辞めて二日目からは、なんで辞めてしまったのだろうか? と自問して、一向に出ない答えに悶々とした時間を過ごしていた。出ない出ないと悩むのならば、便秘のほうが救われる。だっていずれは出るのだからね。薬だってあるし医者を頼ってもいいだろう。

 ジェームズ・ディーンの落書きを見て思い出したわけじゃないけど、『理由なき反抗』という映画があったっけ(観たことはないけど)。僕の場合は『理由なき退職』か。“なんとなく”で辞めちゃったものだから何にも出やしない。パワハラで辞めたとか、仕事に嫌気がさして辞めたとか、そのほうがいくらか格好がつく。ここにきて辞めた理由付けでこんなに苦しめられるとは思ってもみなかったのだ。

 そんなこんなで、ここ二、三日、仕事を辞めたことを誰にも知られたくない気持ちが強く、「仕事は?」という問いかけは、僕にとって一番避けたかったものだった。

 でも、遅かれ早かれ知られることになるのだ。隠し続けることは思いのほか心労であり、耐えきれずに早期解放を望んでもいる今日この頃だった。

 このことを鑑みれば、グンさんの放った一言は、最短にして最大の効果を促す呼び水だった。

 グンさんは感づいていたのだろう。そもそも、平日の午前中にグンさんのところに伺う約束を取り付けたのは僕のほうだったのだから。

 なんの因果か、僕がこの街に来てから節目節目でグンさんの手を煩わせ、そして救ってもらっている気がするのだ。


 グンさんが軽トラックにスロープをかけた。

「よし、降ろそうか!」

 気持ちの張りがなくなってどこか上の空だった僕に、グンさんが喝を入れた。積んできたスクーターを降ろすという。僕も手を貸すために荷台に飛び乗ると、その角で左膝をしたたか打った。顔をしかめて痛がる僕を見て、グンさんは慈悲ある表情を浮かべ、声を殺して笑っていた。

 グンさんは手際よくスクーターに固定されていたベルトを解除し、「頼むね」と一声かけて車体を僕に預けた。小傷の目立った、使用感ある銀色のスズキ・アドレスだった。シートの際にできた鉛筆ほどの長さの裂け目から、中のスポンジが少しだけ頭を出していた。ここに雨水が染み込むと、座ったときにお尻が濡れるんだよねと、ずいぶん昔に自分もスクーターに乗っていた頃を思い出した。

 僕はスクーターのハンドルをしっかり握り、慎重にスロープに通した。その際、踏み外して転倒させやしまいかと、僕以上にグンさんのほうが危惧しているようだった。

 無事に着地したスクーターの周りを、グンさんは品定めするように見て回る。そしてシートをリズミカルにポンポンと叩き、納得気に頷いた。少し手を入れれば十分走れるそうだ。このスクーターは、遠方から自転車で通勤している整備スタッフへあげるのだと言った。

 又聞きになるけど、元々、グンさんは別の地でバイクの整備工場を開いていたらしい。僕がこの街に来るよりずっと前のことだ。

 今いる整備工場はグンさんの親父さんが築いたもので、亡くなられた親父さんの後をグンさんが継いだと聞いている。だけどグンさんが地元に戻った理由はそれだけではないのだと、いわくあり気な噂を立てる輩がいた。噂は噂と割り切って、僕はそういう話には触れないでいた。

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