ガードレールのジェームズ・ディーン

 高台の公園を後にした僕は片側一車線の県道沿い、少し湿った歩道を歩いていた。平日の明るいうちに街中を歩くなんていつ以来だろう。以前は近場でも車に乗って行くのが常だった。近場と言っても、最寄りのコンビニやスーパーでさえ数キロ以上離れていて、徒歩だと気おくれしてしまう。僕はそんな、この街の発展から取り残されたようにぽっかりと空いた所にあるアパートの一室に住んでいた。


 県道沿いは桜の木が等間隔で並び、ちょうど満開の時季となった今、目を楽しませてくれる。路上は散り落ちた桜の花びらにまみれ、自転車のタイヤ痕が残っていた。この花びらの中には、僕が仕事を辞めたときに枝を離れたものもあるんだろうなと、高台で工場地帯を眺めても起きなかった感傷が湧いた。


 急に傍らの側溝からネズミが顔を出して僕をひるませたかと思うと、車道を素早く横切って、反対側の畑の中に消えていった。

 ネズミが畑に姿を消した直後、ナンバーのないスクーターを一台積んだ白い軽トラックが、こちらも尾を引く勢いで僕を追い越していった。軽トラックは路上の桜のはなびらを躍らせて、僕を追い越しざま軽くクラクションを鳴らした。

 僕はパーカーのポケットに入れていた右手を出して、軽トラックの背中に向かって小さく振ってみせる。そしてネズミが轢かれなかったことに安堵すると、もうすぐ東京ディズニーランドでは開園三十五周年イベントが始まるなと、ふと思った。


 ほどなくして右に大きく曲がる道に差しかかる。道路わきは雑木林。鬱蒼とした奥行きは日中でさえ陽光が及ぶところではなかった。暗澹としたその奥に廃屋が見える。朽ち果てそうな木造の平屋建。屋根は大きく波打って、瓦はところどころ歯抜けだった。負けじと土壁もボロボロで、力士が二人もいれば、もう一押しで倒壊できそうなほど傾いていた。

 去年の夏、ちょうどお盆の頃だった。その廃屋で“出た”という噂が流れた。近所の子供たちが、怖いもの見たさか肝試しかなんかで忍び込んだことがあり、そのときに「見た」と言って大騒ぎをした。もちろん大人たちはそんなこと信じちゃいないんだけど。野良犬かタヌキでも見たのだろうと相手にしなかった。

 僕がその噂を誰から聞いたかというと、同じアパートに住む小学生の男の子、テル君だった。テル君は親父さんと二人暮らし。僕より二年ほど後に引っ越してきた。親父さんは僕とは勤め先が違うけど、同じく煙突下の労働者だ(もう僕は勤め人ではないけど)。

 テル君は大抵、贔屓のJリーグクラブのレプリカユニフォームを着て冬でも半ズボンを穿いた快活な子だった。僕のことを「アキラおじさん」と呼ぶ。そう呼ばれることに抵抗はない。僕も二十代半ばだし、小学生から見れば十分おじさんだ。

 テル君の話によると、友達十人ほどで示し合わせ、夕刻になってから件の廃屋の大穴が開いた土壁から忍び込んだらしい。ずいぶん大人数で侵入したものだ。サッカーひとチームほどじゃないか。小学生とはいえ、そんな大挙して乗り込まれては辛うじて持ちこたえている廃屋なんか一溜まりもないないだろう。

 テル君の友達のうち二人だけスマホを持っていたので、二組に分かれて動画撮影しながら物色した。すると風呂場に侵入した組の子たちが叫び声をあげ一目散に廃屋から逃げ出したものだから、もう一方の組にいたテル君たちも慌てて脱出したのだった。どうやら風呂場に先頭で入って行った子が、血だらけの男が立っていたのを見て悲鳴をあげ、残りの子もその声に驚いて逃げたらしい。

「動画は撮れたの?」

「ぜんぜん。だってさあ、そいつ(動画撮影してた子)風呂場に入ってないんだもん」

 なるほど。結局のところ、見たのは風呂場に先頭で入って行った子ただ一人だけだった。この子の証言を基にこの噂は尾ひれをつけて広がる。いつしか血だらけだった男はナイフを持ってマントをひるがえし、空まで飛べるようになっていた。子供たちの想像力はたくましい。

 おおかたカビだらけのシャワーカーテンとか壁のシミを血だらけの男と見間違えたのだろうと思ったけど、お盆という時期が時期なだけに、きっと交通事故で亡くなった人の霊が帰ってきたのだとテル君は言い張っていた。


 実際、この付近では交通事故がしばしば起きていた(死亡事故まであったとは聞いたことがないけど)。ガードレールのあちこちにうかがえる負傷の痕が痛々しい。古い擦り傷、新しい打撲、色々だ。見通し良好とは言い難い道路ではあったけど、折角のカーブミラーも木偶の坊とあっては気の毒になる。


 満身創痍のガードレールに、赤黒いものが痣のように浮かんで見えた。なんだろうと思い、痣らしきものに歩み寄って対峙し、記憶を巡らす。こんな落書き、あっただろうか?

 痣らしく見えたものは、誰かさんが黒いマジックで描いた似顔絵だった。ご丁寧に、血を匂わせる赤いスプレーで装飾までしてある。僕が知る限り、こういうことをするのは一人しかいない。

 誰が描いたのか直ぐわかったけど悪戯が過ぎると思い、やや不快。それにしてもよく描けていた。ジェームズ・ディーンだった。

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