白い花嫁

高台にて

 この街のいちばん高いところ、街を一望できる高台に上がって眼下をぐるり見渡せば、視界いっぱい工場地帯がパノラマに広がっている。いわゆる企業城下町だ。

 製鉄所が見える。化学プラントが見える。火力発電所が見える。鉄管を幾重にもまとった煙突が見える。あちらにも、こちらにも。バースデーケーキの迷路だ。


 僕がこの街に移り住んで六年が過ぎた。出不精のせいだろう、割と近所にあったけど、こうやって高台に上がり、街の屋台骨を眺めるのは初めてだった。

 臨海部に大手製鉄会社の誘致に成功したのをきっかけに、この街は発展してきたと聞いている。それでも他の工場地帯にくらべれば規模は小さいほうじゃないのかな。だけど、これら企業に逃げられてしまっては多くの人が路頭に迷う。この街の、その三割ちかくの住人が煙突の下の労働者として身をささげているのだ。

 海のほうから南風が強く吹きつけていた。煙突から立ちのぼる煙はどれも、従順な労働者のように深く深く腰を曲げていた。

 数日前まで、僕もこの煙突下の労働者だった。


 二か月前のことだ。

 始業前に課長が座るデスクの横に立ち、形式だけの会釈をした。課長は肘をついた左手をあごに当て、右手ではノック式ボールペンを意味もなくカチカチと鳴らしていた。夜勤と残業続きで疲労とクマが浮いた虚ろ気な目は正面のパソコンのモニターばかりをじっと睨み続ける、そこに僕なんかがいないみたいに。気付いているのに気付いていない振り、課長の十八番だ。

 僕は日増しに薄くなってゆく課長の頭頂部を見て、中間管理職の辛さを他人事ながらに哀れむ。そこに僕が追い打ちをかけて完全に砂漠化させてしまうかもしれないと思うといささか心が痛んだ。でももう後戻りはできない、決めたことなのだ。

 僕は退職願と書かれた封筒を、ファミリーレストランの店員が伝票を置くように、課長の目のとどく位置にそっと置いた。課長はデスクの上に置かれたそれを目だけで追うと、前の日にアパートの炬燵にうずくまって下手くそな字で三回も書き直した常套句『一身上の都合により――』には目を通すこともなく、ぼそりと「わかった」の一言だけで受理してくれた。僕は課長にと言うよりも、その頭頂部に向かってお辞儀をして謝辞を述べた。ときとして無関心はありがたい。まあ、事前に係長だけには話を通していたんだけど。


日下部くさかべえ、辞めんのか?」

 昼休憩時の社員食堂はもうこれだ。いつだって誰それが辞めるという噂はかっこうの話の種だ。どこをどう通って伝わるのか、呆れたことに生産ラインより早い流れで広まった。サラサラ血液のように。

 見知った他部署の同僚までが僕が座るテーブルにやって来る。それしか日本語を知らないのかと、同じようなことばかりを訊いて僕の箸を進ませず、休憩時間ばかりが削られていった。

 同僚の野次馬根性にはうんざりした。羨ましいだとか、次の仕事は決まっているのかだとか。あげくにパワハラでもされたんじゃないかと勝手な憶測が飛び交った。

 そんなんじゃないよ。僕はなにも決めずに、“ただなんとなく”、六年務めた工場を辞めただけなんだ。僕が高台に上がってまで工場地帯を眺めているのも感傷に浸りたいわけじゃない。ただなんとなく、そう、なんとなくだ。


「この街は、煙を吸って生きている」なんて気取った言い方をする、僕と年の近い労働者がいた。煙突の下に骨を埋める覚悟だと大見得を切っていたあいつ、今ごろどうしているのだろうか。今年の仕事始めから無断欠勤をして、そのまますうっと消えていった。うまい手を使ったな。






 冬でも雪とは縁遠い、大洋に臨む僕の街。この街の冬はいつだって忍び足で去っていった。あいつみたいに。

 そして春が、いつもと一味も二味も違う春がやってきた。


 高台の中腹にある公園で、桜とたわむれる母娘連れがいた。母親が芝生の上から桜の花びらを拾い集め、幼い女の子の上からはらはらと散らした。ひとひらが、大きく開けていた女の子の口の中に入ってしまった。女の子が舌をべーすると、母親がそろりそろりと取ってあげた。母娘は大きく笑いあい、僕も頬を緩ませた。

 よく晴れた平日の、まだ昼前のことだった。

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