第3話

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「そんなに思い悩んでどうしたの、キミ」

 不意にかけられた声が自分に対してだと気付くのに数秒を要し、その後僕は顔を上げた。

 健康的な麦わら帽子、清々しい長身の純白ワンピース。そして、白い肌に植え付けられたように整った顔のパーツ。

 少女と呼ぶには大人びていて、女性と呼ぶには一歩手前。おそらく全人類が夏の原風景に見出しうるであろう女の人が、目の前に立っていた。ただし、足はなかった。

「……はい?」

「なんだかすごく苦しそうな顔をしてるけど、どうしたの? 幽霊だから病気じゃないだろうし。そんなに感情豊かな幽霊を見たの久しぶりだから気になっちゃって」

「ああ、えっと……」

 数時間前まで引きこもりだった人間には、この会話を成立させるハードルは高すぎる。が、だからといって無視もできない。自分の口から声が出ることに驚きながら、少しずつ言葉を紡ぐ。

「実は僕、さっき幽霊になったばかりで、その、なんでそもそも幽霊になったのかとか、ずっとこのままなのかとか、どうすればいいんだろうとか……」

 本当は奈月との思い出を想起して思い悩んでいたのだが、どちらにせよ苦しいことには変わりないのだ。嘘はついていない。

「なるほどね、キミは初見さんってことだ」

「初見? ライブ配信じゃないんですよ」

「でもそういうことでしょ、幽霊初見さんってことでしょ。初見さんいらっしゃい! 私の事は幽霊さんとでも呼んでね」

「幽霊蔓延る世界でその呼び方は凄く不便ですけど」

「細かいことはいいの。私が幽霊について色々教えてあげるよ」

 そう言うと幽霊さんは僕の隣に腰を下ろした。顔が近づくと、整った容姿がより間近に見え、髪が揺れてなんだか甘い匂いがした。BPMが190を超えた僕の心臓が耐えられるか微妙なラインだった。

「どこから話そうかな。まずね、幽霊になる人っていうのは決まっていて、この世に未練がある人は幽霊になっちゃうの。もっと幸せな人生が良かったなぁ、みたいな漠然としたものじゃなく、具体的な未練ね。キミも、そういうのがあるから今ここにいるんでしょ?」

「……そうですね。まあ、心当たりはあります」

 簡単だった。僕は、奈月というヒーローの到来をずっと待っている。いや、それでもまだ違う。本当は、単に彼女に会いたいだけなのかもしれない。もちろん、僕が死んでしまった以上は自分から会いに行くほかないのだけれど。未練にしてはシンプルかつイージーだ。

「もしそれを捨てることができれば成仏して、他の人と同じように天界に上っていくの。だから、幽霊の目的はその未練を捨てることかな」

「ちょっと待ってください、もし捨てることができなかった場合、どうなるんです?」

 少し闇の深そうな笑みを浮かべた後、幽霊さんは呟いた。

「先輩幽霊によると、一生この世に彷徨い続けるらしいね。ただ、そんな幽霊はほとんど聞かないよ。未練を達成するか、諦める。大抵はどちらかですぐ成仏していくから」

「つまり、自分から動かない限りは何も始まらないってことですよね。ちょっと、この辺りを散策してみます」

 幽霊さんは立ち上がった僕の手を掴み、制止した。人間らしい触覚を感じて初めて、幽霊同士は触れることを知った。

「待って。まだ説明しないといけないことは沢山あるよ」

 逸る気持ちを抑えつけながら、僕は再び腰を下ろした。なるべく早く行動しなければいけないという焦りが、なぜかずっと胸の奥に住み着いていた。一秒でも遅れてしまえば、手遅れになってしまうような気がしていた。

「これが一番重要なんだよ。幽霊は一度だけ、人間との意思疎通を図れる機会があるの。話したい相手を目の前にして、心の中でその能力を使いたいと願うと、人間の目に見えて、声も聞こえるようになる。幽霊目撃とかの心霊現象は、全部その能力によるものなんだよ。ただし、10分でまた見えなくなっちゃうけどね」

「10分だけ人間と話せる能力ですか。にわかには信じがたいですけど。でも、それって詰んでません? 10分以内で達成できる未練の方が少ないでしょう」

「そうでもないよ。中にはその能力を使わないで未練を達成できる幽霊もいるから。それに、仮に能力を使って未練を達成できなくても、それで満足して諦めるってケースが大半だからね」

 しかし、自分の場合はそのケースに当てはまらないだろう。奈月を前にして諦めるという選択肢はありそうになかった。自分には彼女しかいないし、おそらく向こうもそうなのだ。

「そういえばキミは、どんな未練を抱えてるの?」

 考えを読まれたように質問され、目を逸らしてしまった。いざ人前で言うとなるとやはり素直に言葉は出てこなかった。恥じらいをなんとか封じ込め、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「幼馴染が、いるんです。小学校を卒業して以来は会っていないんですけど、僕は彼女と約束したんです。僕がピンチの時は、彼女が必ず助けに来てくれるって。その約束を果たせないまま死んだから、きっと僕は幽霊になった。でも、中学に入ってから、僕は途端に駄目になりました。彼女がいないと何もできないし、支えもない。本当に、僕にとっての神様みたいな存在で……って、ごめんなさいこんな話。女々しいですよね」

 反応がないので表情を盗み見ると、幽霊さんはやけに神妙な面持ちをしていた。

「そんなことはないと思うな。実はね、私の未練なんだけど……」

 口ごもる幽霊さんに対して、僕は続きを求める。

「私、小学校は田舎でクラスメイトも数人しかいなくてみんな家族みたいで、中学と高校は女子高だったから、恋愛経験が一切なかったの。でもそういうものに抱く理想は人一倍高くて、少女漫画みたいな恋がしたいっていう思いを抱えたまま死んじゃったんだ」

 鳥肌が立ったが、理由は分からなかった。ただ、喋り終えた幽霊さんの表情はドキッとするくらい美しかったし、儚かった。比較的大人っぽい容姿の幽霊さんが見せたあどけない表情に、何とも言えない気持ちになった。

「経験はないのに人一倍恋に詳しい私だからさ、キミの幼馴染に対する感情、とってもわかるんだ。どうか、自分をそんなに貶さないで欲しいな」

 自分でも言語化できていない感情を他人に説明された気恥ずかしさを覚えつつ、頭を整理していた。

「つまり、幽霊さんの目的は、誰かに恋すること、ってことですか?」

「大体はそうだね。ただ、今まで片想いは何度かあったけどダメだったから、両想いになるっていうのが最終ゴールかな」

「幽霊さんは、何年間幽霊として過ごしてるんです?」

「さあね。昔の事なんて覚えてないよ。年も取らないし。だから終身刑って言葉も、場合によっちゃ的確かもね」

 はにかんで話す幽霊さんだが、幽霊になってもなお出会いや別れを繰り返しているのだろう。それは想像以上に過酷だ。けれど同時に、これより美しい終身刑もないのだろうなという考えが頭をもたげた。

「……そうですか。でもとりあえず、奈月を探してみようと思います。見つけない事にはどうしようもないので。幽霊さん、ありがとうございました」

 そう言うと、幽霊さんは意外そうな顔をした。その表情の理由は分からなかったが、特に気にせずに今度こそ立ちあがり、制服の後ろを手で払った。数秒してから透けている僕に砂が付くことはないのだと気付き、何となく恥ずかしい思いをして歩き出す。


 本当は、幽霊さんともっと話をしてみたかった。なんせ初めて話した幽霊ということもあり、訊きたいことはいくつもあった。

 だがそれでも僕が強いて幽霊さんから離れようとしたのは、僕が彼女の未練に決して協力できないからだ。

 誰かと両想いになる、という未練を僕が叶えることはできないし、もしそうしてしまえばきっと僕の未練の方に支障が出るだろう。かといって幽霊さんに協力してもらっても、僕が先に成仏してしまうのは裏切るようで忍びない。そう思っていたのだが……


「私、キミに協力するよ。幼馴染に会いに行こう」


 そう言ってまた腕を掴まれたのだ。

 せっかく配慮したのに何なんだと思い、今思っていたことを口にする。しかしそれを聞いてもなお、幽霊さんは譲らなかった。

「キミとその幼馴染さんの関係に興味を持ったんだよね。私も未練達成の勉強がてら、生の幼馴染ってのを見ておきたいなと思って」

「生って……。でも本当に、ただの幼馴染ですよ」

「えー。その約束を守るためにずっと生きてきて、それが幽霊になるほどの未練って相当だと思うけど。違うのかな」

「全然違います。そりゃあ、小学生の時は微かにそんなことを思ったかもしれませんけど、小学生の恋愛なんて後で思い返してみれば恋と呼べるか怪しいじゃないですか。今はそんな感情はないし、向こうがどうかも知りません。ただ、奈月が生きている以上、奈月が僕に会おうとする可能性がある以上、僕はその瞬間に立ち会う義務があるんです」

「ふーん、そっか。とにかく私も行くよ、よろしくね」

 幽霊さんはミステリアスな笑みを浮かべて隣を歩き出した。隣を歩く人がいるというだけで心強いのは何故だろうか。トラックにはねられて死んだことは間違いなく不幸だ。だがそれでも、幽霊という地獄が少しマシに思えた。

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