第2話

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 死んだら天国か地獄に行くと思っていた。だが予想に反し、僕はまだこの世界にいた。目の前には僕とぶつかったトラックがある。その近くには「少し前まで僕だったもの」が横たわっていた。

 地面を赤黒く染め続ける自分の死体を見てまず想起したのは、「夢を見ている」可能性だった。そうでなければ、僕が道路に立ち尽くして僕の死体を眺めているこの状況の説明がつかないからだ。

 しかし、足元の死体を見ていたつもりの僕は、その足元自体がないことに気づいた。足が透けていたのだ。

 これにはさすがに、超自然的な何かが起こっている可能性に首肯せざるを得なかった。そして同時に、周りにも足の透けている人がいることに気づき、いよいよその存在を認めなければならなかった。

 夢であろうとなかろうと、要するにこれが「幽霊」ということなのだろう。

 僕の姿が見えていないからだろうか、現に、道路に立ち尽くす僕に視線を向ける人間はいない。一方で、足のない彼らは、皆が僕の方を見ている。

 僕は死んで、幽霊となった。幽霊の僕は、この世にいる仲間の幽霊が見えるようになった。そういうことらしい。


 好奇の視線がむず痒かった僕は、とりあえずその場から離れることにした。

 少し前に進むと分かるが、どうやら幽霊の移動は平行移動が基本らしい。足がないので視界が揺れることもなく、ただxの値だけが変化していく。

 何度か通行人とぶつかりそうになったが、感触がなかった。試してみると案の定、皆が僕の身体をすり抜けていった。住宅にお邪魔するのも簡単だった。逆に言えば何にも触ることはできないのだが、困ることはなさそうだった。自分の中から、食欲や睡眠欲といった人間らしい心が一切失われていることに気づいたからだ。

 いよいよ分からなくなってくる。一体、僕はなぜ幽霊となったのだろうか。街を歩いている幽霊はそれほど多くはないので、死んだ人間全員が幽霊になるわけではなさそうだった。それこそ近くの幽霊に話しかけて訊くべきなのだろうけれど、先ほど好奇の目で見られていたこともあり、詮索されたら面倒だな、という考えが先行した。

 もしもこのまま幽霊として生き続けなければならないのなら、終身刑より重い刑罰であることは間違いない。自分の人生を振り返ってどんな大罪を犯したのか思い出そうとして見ても、罪どころかそれ以外も何もなくて虚しさを覚える。穴ばかりで、むしろ穴を形成するその他の存在すら怪しいような状態だ。


 途方に暮れた僕は、行き場をなくして近くの公園に赴いた。遊具はボロボロに錆びている。この公園は奈月との思い出で溢れていた。本来ならば彼女の事を想起させるような公園には来たくないのだが、他に行く当てもない。とはいえ、ブランコに乗るとかは出来ないので、地べたに以外に座れるものはない。

 ふと公園の奥に目をやると、青々とした葉を携えたブナが立っていた。奇妙なことだが、木を目にして初めて、僕は蝉の声が耳に入ってきた。

 耳を澄ませば、それは大げさなくらいによく響いていて、そのメロディによって心の器に思い出の雫が少しずつ絞られていった。


 一度だけ、奈月を怒らせたことがある。何年生だったかは忘れたが、高学年だったことは確かだ。夏休みに入りゲーム三昧だった僕を、奈月が迎えに来た。

「ゆうくんも外で遊ぼうよ。こんなに天気がいいのに家にいるなんてもったいないよ」

 母親みたいな叱り方をする奈月に僕はうんざりした。幼馴染という関係だからか、互いにラフな格好だった。

「外は暑いし、家がいいよ。こうしてゲームキューブをしてるだけで楽しいじゃん」

「じゃあさ、ゆうくんがいつも言ってるあの遊びはどう? ほら、『最高の夏』を再現する遊び」

 小学生ながら生意気にも『概念の夏』が好きだった僕は、度々奈月にその話をしたことがあった。奈月はとても頭がいいので僕の言わんとすることをくみ取ってくれて、時には僕よりうまく説明することもあった。

 小学生にしては変わり者だと思われるかもしれないが、当時はもっと純粋に夏という季節を享受できていた。

 頭の中には田園風景に佇む白ワンピースで麦わら帽子の少女がおり、彼女とひと夏の冒険を経験する。去り際にはミステリアスな言葉を置いていなくなってしまう。

 そんな陳腐な妄想を当時から飼っていた僕は、当然、最も近くにいる異性であった奈月にそれを投影した。それは単なる理想の押し付けだったかもしれないが、嫌な顔ひとつせず受け入れてくれた奈月に、僕は確かに好意を寄せていた。

 そしてその妄想を恥ずかしげもなく奈月に語っていた。時々呆れたような目をされたが、それでも僕が頼むと奈月はその再現に手を貸してくれた。

 だからこそ、奈月の方から再現しようともちかけてくるのはとても珍しいことだった。

 奈月としてはそれは僕を家から連れ出す口実だったのだろうけれど、僕は奈月の言葉をかなり恣意的に解釈してしまい、いつの間にか「奈月は『最高の夏』を再現したがっている」という結論に至ってしまった。調子の乗った僕は朝から晩まで奈月を連れまわした。

 商店街までダラダラ汗を流しながら歩き、棒アイスを買った。それを持って近くの堤防に行き、二人で座って食べた。食べ終わると寝転んで雲の流れを観察し、暑さに耐えられなくなると電車で海に行った。田舎の海は観光客などおらず、ほぼ貸し切り状態だった。商売あがったりとみえる海の家でラムネを買った後、二人で浅瀬を歩いた。辺りが薄暗くなると手持ち花火をコンビニで買って家に帰り、隣の駐車場で火をつけた。線香花火の落ちる早さを競い、夏祭りに行く約束をした。

 全ての行程を終えると、互いにクタクタだった。疲れからか奈月も普段よりフワフワして見えた。僕は最後の行程を断行する決心をした。

「奈月」

「ん? なあに?」


「僕、君が好きだ」


 自分で発したはずの言葉に、どうしてか現実味がなかった。

 暗くて奈月の表情が見えなかった。なぜか返事をしない奈月に、僕は尋ねた。

「どうしたの? 『最高の夏』のラストは告白が当たり前でしょ? それに対しての返答は、『来年の夏、またここで待ってるから』だよ」

 そう、僕は奈月に対して告白したつもりなど毛頭なかったのだ。当時は感情がごちゃごちゃだったので気にも留めなかったが、奈月に好意を寄せていたと言えるかどうかすら実は怪しかった。確かに奈月の事は好きだった。幼馴染としても、友達としても、異性としても好きだった。それは間違いない。

 ただ、「僕が奈月に投影している理想の女の子の妄想」が好きなのでないか、という考えを、僕は無意識のうちに封じ込めていたのだ。高校生になるまで、まったく気づかなかった。思えば、「奈月が好きだ」ではなく「君が好きだ」と言ってしまったのも、そういうことなのかもしれなかった。

 僕よりずっと賢い奈月は僕のそんな考えを見え透いていたのかもしれない。いずれにせよ、哀しそうな気配を一瞬だけ放出し、僕に言い放った。


「……最低」


 あの瞬間ほど苦痛だった出来事は人生になかった。足元がガラガラと崩れていく感じがして、立っていられなくなった。こちらに一瞥もくれずに去っていく奈月の後ろ姿を、僕は過呼吸になりながら見送った。


 結局、あの日から三日ほど経つとまたすぐに仲直りをしたような気がする。そもそも、僕はなぜ奈月が怒ったのかをよく理解していなかった。だから当時はあまり気にしていなかったのだが、数年経って少しだけ賢くなると、全部が一気につながるような感覚があって、数年越しの傷を僕に残した。

 思い出、記憶、過去。僕がそれらに囚われて現実を蔑ろにしているかもしれないと思ったのもその時からだ。

 けれど今思い返してみれば、僕は前から幽霊だったのかもしれない。思い出の中でしか生きられない僕は、現実を生きていないという点で、幽霊と相違ない。

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