2. 「旅立ち」の朝

 次の土曜日。


 いきなり朝の7時に、一方的に京香に呼ばれる形になった、真姫は、朝の5時30分には起きて、シャワーを浴びて、準備を整え、洗面台で、コンタクトレンズを装着し、愛用の白いジェットヘルメットを持って、玄関でバイク用ブーツを履こうとしていた。


 そこへ。

「真姫。随分早いな。どこか行くのか?」


 真姫は振り返らず、しかし、内心は気乗りしないような声音で、ぽつりと呟いた。


「……ええっと。京ちゃんと秩父行ってくる」


「何? ツーリングだと? 何で父さんに言ってくれないんだ?」

 そう、声をかけたのが、父の直樹なおきだったからだ。


 真姫にとっては、父は複雑な思いがする、人種の一人だった。

 彼は、現役のバイク乗りだったからだ。


 同じくバイク乗りで、しかも大型バイクのスズキ GSX-R1000に乗っているのが、この父で、真姫がバイクを買って、乗り始めてからというもの、事あるごとに、彼女をツーリングに誘ってくる。


 だが。

(父さんの大型バイクと、私じゃ全然スピード違うし、置いてかれるから、どうせつまんない)

 そう思っていた、真姫は、ことごとく断っていたのだ。


 年頃の娘を持つ父としては、それでも真姫と一緒にツーリングに行きたがっていたのだが。


「だから嫌だったんだよ。じゃ、行ってきます」

 父の方を見ずに、それだけを告げて、真姫は、新しく買ったばかりの黒いライダージャケット姿のまま、ヘルメットとグローブを持って、玄関を出た。


「気をつけろよ」

 父の、少し寂しそうにも聞こえる、その声を背に彼女は家を出て、そしてガレージへと向かう。


 父が結婚してから、買った小さな一軒家だったが、それでもこの府中市に、一軒家を持つことはそれなりに、「金」がかかる。


 苦労して手に入れた、彼女の父は、一応は、家族用に軽自動車も持っていたが、それはお飾り程度で、父のメインは、その脇に置いてある大型バイクだったのだ。


 趣味が高じすぎて、いい歳して未だにバイクに乗っている父。

 同じバイク乗りでありながら、真姫は、どちらかというと父の事が苦手だった。


 その大型バイク、スズキ GSX-R1000の青いフレームの車体が、バイクカバーの裾から見える。


 このバイクのせいで、真姫のバイクは、さらに端に追いやられ、ほとんどスペースがない状態だった。


(邪魔だな)

 とすら、内心、思っているのだった。


 何とか、カバーを外し、バイクを引き出して、エンジンをかけるが、それまでが一苦労。


 元々、運動神経などよくない、彼女は、細い体で、当然、力がない。

 バイクの中では、比較的軽い、重量が170キロほどのこのバイクでさえ、押して出すのが、苦労するし、気を抜けばすぐに倒してしまう危険性があった。


 一応は、教習所でも、そして父からもバイクの押し引きの方法については、学んではいたが、それでも彼女はまだ苦手だった。


(バイクが軽いなら、押し引きなんてしなくても、そのまま跨って、さっさと出てしまいたい)


 それが彼女の本音だった。


 だから、それが出来ないように、スペースを塞がれた形になっている「父のバイク」が忌々いまいましく思えるのだった。


 やっとのことで、バイクを道路に出し、ヘルメットをかぶり、グローブをはめて、跨ってエンジンをかける。

 

 トクトク、と短く振動し、比較的静かな音を立てて、眼を醒ます彼女の愛車。

 この瞬間が、彼女は好きだった。

 

 それでも、まだ「慣れて」いない、初心者に等しい彼女は、ギアを1速に入れて、恐る恐る出発した。


 土曜日早朝の甲州街道は、まだそれほど混雑しておらず、バイクにとっては走りやすい。

 

 これが平日の朝晩、土日の日中なら、乗用車、トラック、バスが引っ切り無しに往来し、常に渋滞し、ストップアンドゴーを繰り返すことになる。


 ミッションバイク、それも頻繁にギアチェンジを強いられる、250ccのこのバイクではそれが一番ツラいことを彼女は、ようやくわかり始めていた。


 甲州街道は、立川たちかわ市の日野ひの橋付近から、「新奥多摩街道」と名を変え、西へと伸びる。


 その道を辿りながら、幾度も信号機で停められ、鬱陶しいと思いながらも、彼女はやがて、多摩大橋を越えて、多摩川を渡り、八王子市に入る。


 道の駅八王子滝山は、首都圏を環状に取り巻くように伸びる主要街道、国道16号を越えた先にある。


 バイクをまだまだ「怖がっている」彼女は、慎重に進みながら、そこへ向かった。

 時間にして、約30分。


(バイクは怖がるくらいがちょうどいい)

 それが彼女の信条だった。


 速く走る必要も、カッコつける必要もないし、大型バイクに乗ってるから偉いわけではない。

 ただ、風に身を任せ、エンジンを回す。

 今は、まだそれだけで良かったのだ。というよりも、彼女はバイクに「速さ」という要素を求めてはいない。


 道の駅八王子滝山は、この東京都内では唯一の「道の駅」であり、広い駐車場と、地元の新鮮な野菜を取り扱う店舗が有名だ。


 その店の営業時間になると、週末には多くの車列でにぎわうが、まだ早朝のこの時間には、それほど車の姿はない。


 駐車場に入ってすぐの右端、バイク置き場に指定されている、細い白線に挟まれた場所。


 そこに、例の白いPCXがあった。


 まだ時刻は6時30分を少し回ったところ。

 京香が手を振っていた。ジーンズに黒い革ジャンを着込んでいる。


「おはろー、真姫ちゃん!」

 独特の挨拶をしながら、右手を振って笑顔を見せる、京香。


「早いね、京ちゃん」

「それは、真姫ちゃんもでしょ」


「私は、『遅い』から、時間に余裕を持ってるだけ。そういう京ちゃんは?」

「私は、楽しみだったんだよー。今日は、天気もいいしさ。テンションアゲアゲで行こう!」


 物静かな性格の真姫にとって、妙にテンションが高い京香は、正反対の性格なのだが、妙に馬が合うのだった。


 朝から、快晴の秋晴れ。

 ツーリングには、絶好の日和だったが。


 この先、思わぬ「出逢い」が待ち受けているとは、二人は知る由もなかった。


 人生とは「旅」であり、旅は「出逢い」である。

 誰が言ったかは知らないが。

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