第40話 ローヴィル公爵夫人の贈り物



 やや顔色の悪くなったお父様は、それでも笑顔で口を開きました。


「……それで、娘たちに御用とのことですが」

「ああ、姉がオズウェルの奥方に会いたがっていたのもあるのだが、実はもっと大切な用事があってね。メリオス伯爵にも同席いただきたかったから、ご帰宅が間に合ってよかったですよ。……あれを」


 控えていた従者が、ハーシェル様の言葉に応じて恭しく小箱をテーブルに置きました。


「これをアルチーナ嬢に差し上げようと思って。男の私にはよくわからないから、わざわざ姉上に聞いてしまいましたよ」

「……それは?」

「アルチーナ嬢。開けてください。気に入っていただければいいのだが」


 そう言われても、アルチーナ姉様はすぐには手を出しませんでした。

 代わりにロエルが箱を手に取って、お姉様に目で了承をとってから蓋を開けました。



 途端に、澄んだ香りが広がりました。

 花の香りに似ていますが、花ではありません。もっとすっきりとした、果物の香りです。柑橘に似ている気がします。

 箱の中身は、乾燥した葉でした。

 予想外だったのか、ロエルはしげしげと眺めて、首を傾げました。


「よい香りですが、これはお茶ですか?」

「ええ。まあ、お茶と言っても、我々がよく飲む茶葉を使ったものではありません。レイマンの領地では一般的なのですが、王都の近辺ではあまり知られていないようです。でも、実はこれ、姉上が愛飲していたことで一部で広まっているのですよ」


 お父様は笑顔ではありますが、訳がわからないという顔をしています。

 でもその横で、お母様が息を飲んでいました。穏やかそうな微笑みが強ばり、指輪をはめた白い手が震えています。

 お母様は、このお茶がどういうものかを知っているのでしょうか。


 ハーシェル様は、ことさら優雅に微笑みました。でもそれ以上は言わず、隣に座る姉君を促します。

 ローヴィル公爵夫人は、ちらりとお母様を見ました。お母様の青白い顔を見て、なぜか満足そうに微笑んでいました。


「ハーシェルに相談された時、私、一番にこれが思い浮かびましたのよ。昔からレイマンの領民たちはこれを飲んでいますし、私も子供を身籠ったときには助けられました。王都でも愛飲の仲間が増えてとても喜んでおりますの」



 くらり、とお父様の頭が揺れました。

 すぐに持ち直しましたが、お父様はアルチーナ姉様を睨んでいます。

 

 ローヴィル公爵夫人は、ロエルの手元にある箱から広がる香りを楽しむように目を閉じました。


「本当にいい香り。これのおかげでつわりを乗り切れたし、お腹が大きくなってからも、これのおかげでお茶の時間が味気ないものにならなくて済んだわ。気持ちが落ち着きますし、お腹の子に悪い成分も入っていないんですって。

 だからね、アルチーナさんもぜひ召し上がってみて」


 そう言って、ローヴィル公爵夫人はアルチーナ姉様を見つめました。

 気高い貴婦人は、威厳のある、でもとても優しい微笑みを浮かべていました。


「アルチーナさん。妊娠しているんですって? おめでとう」



 ガタン、と大きな音がしました。


 お母様が倒れそうになって、それをメイドと従者たちが支えていました。お母様の顔は真っ白になっていて、でも目だけはぎらぎらと輝いています。お姉さまを睨みつけて、何か罵ろうとしたように口が歪みました。

 いや、実際に何か口走ったのでしょう。

 そばにいるメイドたちに緊張が走り、怯えたようにお父様とこちらの様子を窺っていました。


「……ヘラーナは体調が悪いようだ。下がらせていただきなさい」


 お父様は崩れそうになっているお母様を冷ややかに見やり、口調だけは穏やかに言いました。すぐそばに立っているのに、お父様は全く手を出していませんでした。

 お母様は激しい目をお父様にも向けましたが、何か言う前にお父様は体ごと背けてしまいました。


 その間に、メイドと従者が部屋の外へと連れ出します。

 扉が閉まり、廊下から慌ただしい足音が聞こえて小さくなります。でもその間も、声は全く聞こえません。恐ろしいほどの静寂でした。



 私は動けませんでした。

 お母様の歪んだ顔が頭から離れません。あんなに感情的なお母様は初めて見ました。あんなに激しい憎悪を見るのも初めてでした。

 アルチーナ姉様も、閉まった扉を見ていました。

 でも、私ほど衝撃は受けていないようでした。お姉様は……お母様のあのような面を知っていたのでしょうか。知っていたのかもしれません。命を狙われるだろうと言っていましたから。




 この空気を動かしたのは、ロエルでした。

 扉へと向かうお姉様の視線を強引に妨げるように座り直し、間近から顔を見つめながらお茶の入った箱を手に持たせました。


「アルチーナ。ローヴィル公爵夫人からのご厚意だよ。君はこの香りは好きかい? 僕はとても好きだ」

「ロエル……」


 箱に目を落としたお姉様は、ぽつりとつぶやきました。


「……とてもいい香り。このお茶なら、飲めそうな気がするわ」

「そうか! よかった! 後で一緒に飲もう! 最近は元気がないと聞いていて、ずっと心配だったんだよ! よかった……病気じゃなくて本当によかった……っ!」


 ロエルは声を詰まらせました。

 それを隠すように顔を伏せ、箱を持つお姉様の手を自分の手で覆いました。お姉様より大きくて、でもきれいな手は震えていました。


「……君一人で悩ませて、ごめんね」


 そう囁くロエルの肩は、やはり震えていました。



 しばらくロエルを見ていたアルチーナ姉様は、向いに座るローヴィル公爵夫人を見ました。退屈そうに指輪を触ってるハーシェル様にも目を向けました。立ったままのグロイン侯爵様を見上げ、その前で身を縮めるように座っている私を見つめました。


「エレナ」


 アルチーナ姉様は小さくつぶやきました。

 空色の大きな目に涙が浮かんで、ふいにきれいな顔がくしゃりと歪みました。


「……エレナ……ありがとう」


 うつむいた頬をあふれた涙が流れ。

 消えるような声は、確かにそうつぶやきました。

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