第34話 捨て身



 ハーシェル様はすぐには反応しませんでした。

 やがて、無言のまま侯爵様を見ました。冷ややかだった顔にほんの少しだけ、私が知っている表情が戻っていました。


「……オズウェル。婚礼の夜は絶対に寝室で夜を明かせ、と言っておいたよな?」

「そう聞いていたから、寝室で朝まで過ごした」

「よかった。それなら……」

「でも寝台の中にはおいでになっていません。貴族の結婚の成立は、婚礼の儀と寝所を共にすることが条件と聞いています。それに……し、調べて貰えば……その、私がまだ清らかなまま、ということもわかります」


 内容が内容なので、つい言い淀んでしまいます。

 頬が熱くなって顔を伏せてしまいました。



 そんな私をじっと見ていたハーシェル様は、もう一度侯爵様を振り返り、すぐに目を戻して顔をしかめました。


「あのね。私が言うのもおかしな話だが、レイマン侯爵家がその気になったら、伯爵家であろうとこの国で生きていけなくすることは簡単だよ?」

「でも、本気でそこまでしないでしょう? 私なんて叩き潰す事は簡単すぎますし、結果的にどうしてもグロイン侯爵様の体面を傷つけることになりますから。ハーシェル様はそんなことは望まないはずです」

「……おいおい、このお嬢さんは見かけによらないな」


 額に手を当てたハーシェル様は、呆れたようにつぶやきました。

 私の話には理論の穴がたくさんあるはずです。でもとりあえず、温情込みでぎりぎり押し切れた、のでしょうか。……よかった。



 ほっとした時、ハーシェル様の向こうに立つグロイン侯爵様が目に入りました。

 ハーシェル様のように怒ったり呆れたりしているわけでもなく、侯爵様は私がこの部屋に入った時と同じ顔をしていました。

 私と目が合うと、ようやく僅かに苦笑を浮かべました。


「ハーシェル。そのくらいでやめろ」

「前から思っていたが、君は甘すぎるよ。それに奥方殿も。姉君にはいろいろされてきたんだろう? 君の家のことはだいたい全部知っているからね。なのにここまで協力するのか? 全く理解できないな」


 呆れながらの言葉は、でももう怖くはありません。発音は美しいままですが、敵対するものを全て踏み潰すような、そういう威圧感は消えていました。

 だから、私は真っ直ぐにハーシェル様を見ました。

 まだ落ち着かない心臓を必死でなだめ、断片的でしかない自分の気持ちを集めて丁寧に言葉にしていきました。


「ハーシェル様のおっしゃる通り、アルチーナ姉様には、その、いろいろ振り回されてきました。正直に言えば、恨んだことだってあります。でも……お姉様は、私に悪意で嘘をついたことがありません」


 わがままで、気まぐれで。私のものであろうと、欲しいと思ったら必ず手に入れてしまう人で。アルチーナ姉様のせいで風邪をひいたこともあるし、本当は私は関係ないのに徹夜もしました。


 でも、お姉様は私に本当のことを言ってくれます。

 似合わないドレスを「似合うわよ」と言って着せておいて、みっともないと嘲笑う人々と平然と同席したり、一緒に微笑んだりするようなことはしません。

 始めから「似合わない」と言ってくれます。


「アルチーナ姉様は本当にわがままです。侯爵様との結婚を、ロエルが好きだからと言うだけで壊してしまいました。だから、侯爵様にお姉様を助けてくださいなんて言ってはいけないことはわかっています。……でも、お姉様は私を頼ってくれました。たまたま気が弱くなった時に近くにいたのが私だった、と言うだけかもしれませんが、お姉様は私だけに本当の事を言ってくれました。だから私は、お姉様のために最低な人間になります」


 私は震える足のまま進み出て、侯爵様の前に両膝をつきました。


「お願いします。アルチーナ姉様を助けてください。お姉様とお腹の子供を助けてくださいっ!」



 私は目をつぶって待ちました。

 でも、長く待つ必要はありませんでした。私のすぐ前に、誰かが膝をついた気配がありました。


 そっと目を開けると、侯爵様が膝をついて同じ目の高さで私を見ていました。

 硬く握りしめたままの私の手に大きな手が触れ、金色の目に柔らかな光が浮かんでいました。


「立ちなさい」


 短い言葉は、丁寧ではありますが命令でした。

 でも、怖くはありません。

 言われるままに立ち上がり、それからまだ手が大きな手に包まれていることに気付きました。

 不快ではありませんが、これは……どうすればいいのでしょう。


 戸惑っていると、ハーシェル様が大袈裟にため息をついたようでした。


「甘いなぁ。君、奥方にも少しくらい厳しく接するべきだね」

「俺のことはどうでもいい。ハーシェル・レイマン。お前の協力が欲しい。お前が俺の立場なら、どう言う手を取る?」


「私の話を聞こうよ。……でも、アルチーナ嬢を助けるのは我々ならそう難しくはない。あのタヌキ伯爵に囁くだけだ。『上のご令嬢が妊娠されたそうですね。おめでとうございます』とね」

「それは確かに簡単だな。俺がメリオス伯爵と立ち話をする機会があれば、だが」

「ついでに、そう言うことなら婚礼を急ぐべきだ、なんて提案するのもいいかもしれないな。我らより権威のある人を巻き込めばもっと話が早くなる」

「なるほど。では、陛下を巻き込むか」

「ははっ! やっぱりお前は容赦しないな! 私は誰を巻き込めとは言っていないぞ?」

「わかっている。これはただの俺の思いつきだ」



 お二人は和やかに、でもどこか剣呑なことを、とても楽しそうに話しています。

 私は呆然と見ていました。

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