第33話 レイマン侯子



 二人だけになるのは、まだ慣れなくて緊張します。

 でも、今日はそんな暇はありません。

 私はグロイン侯爵様とお話ししなければいけないのですから。


「……お忙しい中、突然お邪魔して、申し訳ありません」

「構わない。どうしても外せない時はお待たせしなければならないが、今日はそうでもないからちょうどよかった」


 侯爵様は私に椅子を勧めてくれました。

 でも、私は座りませんでした。

 落ち着くために深呼吸をし、侯爵様にもう一歩、二歩と近付きました。

 これから話すことは、できるだけ人に知られてはいけません。少なくとも、侯爵様が味方になってくれるとわかるまでは。


「……侯爵様に、お話ししたいことがあります」

「伺おう」


 私の固い顔に、侯爵様は僅かに眉を動かしました。

 でも、何も言わずに続きを促します。

 侯爵様の金色の目は揺るぎなく落ち着いていて、静かな自信に満ちていました。


 この方が味方になってくれたら、どんなに心強いでしょう。……いいえ。この方には味方になってもらわなければいけないんです。 泣き落としでも、脅迫でも、どんな手段を取ってでも、絶対に。


「侯爵様」


 私は震える両手を握り締め、ぎゅっと目を閉じました。


「私たちに……力を貸していただけませんか?」


 アルチーナ姉様に。

 お姉様のお腹にいる子供のために。

 優しいロエルのためにも。

 私の大切な人たちを……大切な人を守りたい私を……どうか助けてください……!



「オズウェル! お茶を持っ……!」

「子供ができたんです!」


「……持ってきて……やった……ぞ?」



 勢いよく扉が開いて、ハーシェル様が呆然と立っていました。

 手にはお茶のお盆。背後には誰もいないようです。

 でも、その目は私を見つめ、やがてのろのろと侯爵様を見ました。


「ハーシェル」

「……いや、まだ何も言うな。少し待て」


 ハーシェル様はまず扉を念入りに閉めました。

 それから机の上にお盆を置き、ふうと息を吐いて襟元をくいと指先でくつろげました。


「……よし、落ち着いた。オズウェル、まずは殴らせろ」

「待て。全く落ち着いていないじゃないか」

「黙れっ! こんな若い奥方にもう手を出して孕ませるとは、さすがに許せないだろうっ!」

「違うから落ち着け!」

「お前でないなら誰が奥方を孕ませるんだ! 人のせいにするつもりか!」


 ハーシェル様が、侯爵様の胸ぐらを掴んでいます。

 ……何が起こっているのでしょう?


 呆然としていると、服を掴まれたままの侯爵様が、妙に青白い顔で私を振り返りました。


「身籠られたというのは、本当か?」

「本当です。でも何か……あ……ち、違います! 私ではありません! 姉ですっ! 妊娠したのは姉なんですっ!」


 誤解させている事に気付いて、慌てて訂正しました。

 途端に、侯爵様がほっとした顔になりました。長々と気の抜けたようなため息をついて、それからハーシェル様の手を振り解きました。

 ハーシェル様はまだ疑わしそうに私と侯爵様を見ていましたが、やがて納得したのか少し乱れた美しい金髪をかきあげました。


「……では、奥方殿は妊娠していないのですね?」

「はい、もちろんです」

「そして妊娠したのはあなたの姉君、と。……なるほど。アルチーナ嬢が妊娠、か」


 ハーシェル様は静かにつぶやきました。

 少し前のお姿は幻だったのではないかと疑いたくなるような、冷ややかな声でした。

 それでようやく、私はお姉様のことをハーシェル様にも知られてしまった、と思い至りました。



 急に体が震えてきました。

 ハーシェル様は侯爵様の同僚です。私にも何度もよくしてくださいました。……でも、アルチーナ姉様のことはどうでしょうか。


「だいたい想像はできるが、敢えて確認させていただこう。アルチーナ嬢の妊娠は、メリオス伯爵にとっては望ましい事態ではないのですね?」

「……はい」

「しかしアルチーナ嬢は妊娠してしまった。と言うことは……メリオス伯爵が知れば堕胎を強制されかねないな。それを望まないあなたは、オズウェルに後ろ盾を求めるためにきた。これで合っていますか?」

「はい」


 私はうなずきました。体はひどく震えていますが、真っ直ぐにハーシェル様を見上げました。

 ハーシェル様の整った顔には薄い微笑みがありましたが、まるで大理石の彫像のようです。


「オズウェルはアルチーナ嬢にひどい恥をかかされた。それなのに、助けてやれと言うのか? 君はずいぶんと傲慢なのだな」


 ハーシェル様の口調が変わっていました。

 発音も美しい貴族のものに変わりました。表情の消えた端正な顔には、圧倒的な権力を持つ人特有の、凍りつくような冷たさがありました。


「君と姉君に、オズウェルを利用するだけの価値があると思っているのか?」


 今、私に問いかけているのは王国軍の騎士である「ハーシェル様」ではありません。生まれた時からレイマン侯爵となることを約束された貴族……レイマン侯子様です。


 この方は味方でしょうか。

 敵でしょうか。

 レイマン侯爵家が敵にまわってしまったら、お姉様をお守りできません。

 私はぐっと歯を食いしばり、気力を振り絞って顔を上げ、ハーシェル様ににっこりと笑いました。


「私は何の価値もない小娘です。でも、小娘だからこそ、目的のために無謀なことができるんですよ?」

「ほう? どうやって?」

「簡単です。ご協力いただけないのなら、お父様に、他に好きな人ができたから離婚したい、と言うだけです」


 足が震えます。

 それを見透かしているように、ハーシェル様はゆったりと頷きました。


「可愛らしい脅迫だな。そんな話が通用すると思うのか?」

「通用します。だってアルチーナ姉様という前例がありますから。例えば……ハーシェル様が好きですって言えば、お父様は嬉々として離婚へと動くはずです。……私とお姉様の入れ替えを実現させてしまったということは、お父様は『そういうこと』ができる人なのでしょう?」


 半分はぼんやりと思っていたことですが、半分は確信のない賭けです。眠れない夜に考えに考え続けて、ようやく思い至ったことでした。

 でも、賭けには勝ったようです。

 ハーシェル様は反論せず、ただ舌打ちをしました。


「それで? あの伯爵が、私との結婚を推し進めてくるとでもいうのか?」

「もちろんお父様は、本気でそんなことを求めたりしません。でも、ハーシェル様は屋敷まで来てくれたことがありますよね? だから全くの嘘にはなりません。ほんの欠片でも本当が混じっていれば、お父様はそれを大きく広げて、華々しく掲げて、私を侯爵様と離婚させて。……落ち着いたら他の貴族に嫁がせるでしょう」

「ふむ。なかなか悪くない脅迫だが、君たちの結婚は国王陛下の肝入りだ。そう簡単に離婚は認めらないよ?」


 優しい、囁くような声でした。子供に言い聞かせるような、怯える罪人に死刑を宣告するような、そんな声です。

 でも、私はここが勝負どころだと感じていました。

 ぐっと顔を上げ、精一杯の笑顔を作りました。


「普通ならそうだと思います。でも私の場合は、それほど難しくはないはずです。先ほどハーシェル様も言いましたよね? 私はまだ若すぎます。だから、本当の意味で結婚はしていません」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る