第10話 エレナとアルチーナ



「あら、グロイン侯爵夫人ではありませんか」



 背後から声が聞こえました。

 アルチーナ姉様です。

 空いた席に座ると、じろりと私を見てから、ふんと鼻を鳴らしました。


「そのドレス、似合っていないわね」

「……そうですか?」

「それに、少しは色気が出たかと思ったのに、全然変わっていないわ。侯爵にちゃんと可愛がっていただいたの?」

「可愛い…がる…って、え……?」

「あの成り上がり侯爵、昨夜はかなり早く宴から退出したらしいじゃない。ねぇ、やっぱり成り上がりらしく野獣だった? それとも一部で噂になっているように床上手だったの? あ、もしかして寝所に戻ってこなかった? 昨夜の踊り子たちは美女揃いだったものね!」


 お姉様は優雅に微笑みました。

 ……そう言えば、昨夜の宴にはお姉様もいましたね。

 お父様もすごいと思いましたが、アルチーナ姉様もすごいと感心したものです。ロエルを伴ってグロイン侯爵様に挨拶をしにきたときは、正直に言って眩暈がしました。


 改めてお姉さまの図々しさに慄いて、それから、ふと気付きました。


「侯爵様は、明け方まで飲んでいたのでは……?」

「まさか! そこのネイラはもっと飲ませるつもりだったみたいだけど、あの成り上がりの野犬は、みんなが酔い潰れる前にいなくなったわよ。酒に弱いロエルだけはもう眠ってしまっていたけれどね」


 ロエルの寝顔でも思い出したのか、お姉さまはくすくすと笑っています。ほんのりと頬を染める姿は、恋する乙女っぽくてきれいです。

 でも私は別のことに気を取られてネイラを振り返りました。


「侯爵様、そんなに早くお戻りになっていたの?」

「……ええ、まあ、そうかもしれませんね」

「いつ!」

「お嬢様がお休みになった後でしたし、少ぉーし時間が経った頃でしょうか」

「ネイラ。エレナはもう奥様でしょ?」

「あら、そうでございました! 奥様でございました!」


 奥様、奥様、とネイラがぶつぶつくり返しています。

 でも私は、血の気が引くのを感じました。


「……私、全然気付かなかった……」

「侯爵様はお嬢様に、じゃなくて奥様を気遣ってくださったのでしょう」

「…………私以外、ベッドで寝た形跡はなかったわ」

「あら、そうでしたか」


 ネイラは首を傾げます。なぜかほっとした顔になっていますね。

 でも私はますます青ざめました。

 寝室には、寝台の他には横になる物はありません。敷物があるから床でも眠れないことはありませんが……。


 ふと、昨夜のお召し物が背にかかっていた椅子を思い出します。テーブルには使った形跡のあるコップがありました。

 ……あ。


「もしかして、椅子でおやすみになったの?」


 私の部屋では、水差しには水が入っていました。

 でも大人の男性の部屋には、葡萄酒も用意することが多いとネイラから聞いた気がしますし、確かに葡萄酒入りの水差しもありました。

 つまり。

 私がぐうぐうと寝ている横で、夫となった方は一人で葡萄酒を召し上がって、そのまま朝まで椅子に座っていたのでしょうか。



「どうしましょうっ! 私、侯爵様のお相手をせずに寝ていましたっ!」

「あら、そうだったの? まあ、いいんじゃない? あの成り上がりは伯爵家の娘と結婚したかっただけでしょ? 同じ寝室で夜を明かしたのなら、婚姻は成立済みよ」

「でも!」

「そうそう、姉として忠告してあげる。外で子供を作って欲しくないのなら、きちんと愛人を用意するのよ。もちろん人選は慎重にね。そう言うのはお母様がお上手だから、相談するといいわよ」


 ……愛人を、妻が用意するのですか?

 物語とか昔話だけの話と思っていました。

 しかも、お母様がそう言うことに長けているのですか。私、何も知りませんでした。



 私が頭を抱えている横で、アルチーナ姉様は運ばれてきたスープの温度に文句を言っています。

 本当に、いつもの朝の光景です。

 ……こんなことでいいんでしょうか。不安です。

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