第5話 イシの力

 すっかり西日も顔を隠し、あたりは一層薄暗さを増し始めている。


「んじゃ、みんなまた明日な」


 そう俺が声を掛けると、皆からそれぞれ言葉が返ってくる。


「おーう。また明日」


「あたしとふみちゃんはこっちだから。じゃあね~。あ、明日は遅れないで来てよね」


「はは……了解っす」


「また明日ね二人とも。改めて、今日はごめんね」


「もう気にすんなって新井。そうだ、石ありがとよ。お守りとして持ち歩くわ」


 互いに挨拶を済ませ、公園の入り口にて解散となった。


 巡莉と新井は同じ方向に、俺とムックは別々の道からそれぞれ帰路につく。


 三人のおかげである程度気持ちも軽くなったし、さっさと帰って一息つくとしようか。


 まあその前に、宿題を先に片づけてからだよな、などと考えを巡らせながら夕闇の歩道を往く。


 伸びた影法師さえ周囲の影に呑まれ、ほとんどその輪郭を失うほどに闇が深みを増していた。


 公園の周囲もまた木々が茂る森のような環境になっており、近道でその林道を突っ切っていくのがいつもの通学路だった。街灯と微かな夕陽が照らす砂利道を抜けていけば家はもうすぐそこだ。


 鬱蒼と連なる針葉樹たちを横切り、出口が眼前に確認できた辺りでのことだった。


 道の終わりの少し手前、右手の木々から小さな影が飛び出してくるのが見えた。道の真ん中あたりで止まると、それはその場でじっと佇みこちらを見ているようだった。


「なんだ……? 猫、か?」


 目を凝らしそれを確かめる。暗がりの中、若干距離があったためそれが何なのかすぐには視認できなかったが、歩いて近づくにつれ俺の予想が当たっていたことが分かる。


 右目の周りから右耳にかけて黒色で覆われている、体の白い猫だった。


「やっぱり……また猫か。今日はなんか猫に縁があるのかな」


 この地域周辺にはそこそこの数の野良猫が生息しており、登下校中に見かける頻度は高い。とはいえ思い返せば、一日に二回以上出くわすことはあんまり無かったように思う。これだけ短時間のうちにとなれば尚更だ。


 それに黒の次は(ほぼ)白か。なんともコントラストのはっきりした出会いだなと、小さく笑った。


 相変わらず俺を凝視しその場を動かずにいる猫だったが、見方を変えれば俺の行く手を阻んでいるようにも取れる。


「なぁーお」


 そんな俺の思考を遮るように、その猫は俺に向けて鳴き声を発した。


 阻んでいるというのは考えすぎだったにしても、一応俺に絡む意思があるということなんだろうか。


 猫のほうへゆっくりと歩み寄ると、俺は屈んでその頭から顎に掛けてを優しく掻くように撫でる。


「よーしよし。お前――ってのも味気ないし、ちょっと雑だけど『ミギブチ』って呼ばせてもらうぞ」


 少しの間目を細め喉を鳴らしていたが、すぐに俺の手をするりと抜け、こちらに尻を向ける。そのまま頭だけをこちらに傾け再び『なぅおーう』と鳴いた。


「猫の気まぐれってやつかね。じゃな。またここら辺歩いてたら会うかもな」


 そう呟きながら俺は立ち上がり、改めて出口へと足を向ける。


 するとその猫はまたしても俺の前に回り込み、一声短く鳴いたのだった。


「な、なんだ? まだ構ってほしいのか~?」


 そう声をかけたが、ミギブチは出口までチャッチャッと足音を鳴らしながら向かうと、右へと体を向けまた一鳴き。


「まさか、付いてこいってことじゃないよな……。猫が人間を誘導するなんて――いや、全く無いってことは無いんだろうけど」


 出口を抜け左へ向かうと住宅などが並ぶエリアへ、右へ行くと更に林へと続いており、そのまま進むと浜に出る。


 俺はもちろんそのまま左に行きたかったのだが、どうにもミギブチは俺に右に行ってほしいというような素振りを見せている……気がする。


 出口に着くとやはりミギブチはそのまま右への道を少し進み、俺を一瞥した後再び歩き出す。このまま放っておくのも、何だか忍びないな。


 とりあえずまだ母親が帰宅するまでには多少の時間もある。一応何があるか確認だけでもしておいたほうがいいかもしれない。


(仕方ないか。あんまり遠いようだったら帰ればいいしな。ささっと済ませよ)


 既に距離が開きつつあったミギブチに小走りで駆け寄り、その後ろ姿に付いてゆく。向かう先の空には辛うじて茜色が確認できるが、もはや光源にはなり得ないくらい朧気だった。むしろその色合いが暗がりの不気味さを助長させている気さえする。


 俺たちが向かっている方角には浜があるが、その手前は先ほどの公園の延長のように木々が生い茂っている。大半は松の木だが、公園のような一部開けた場所には広葉樹もまばらだが見られる。この林道内にもそういった小さな開けた空間がいくつか点在しており、ハイキングコースのチェックポイントのような役割もしているらしい。


 ミギブチがその森の中のポケットの一つに向かっているのを俺はなんとなく察した。直進すれば行き当たるはずの浜へは向かわず、途中で脇の小道に曲がっていったからだ。


 進んでいくにつれ、何か声のようなものが聞こえてくることに気づく。それは次第にはっきりとしていき、その声の主が視界に確認できるところまで来ると、ミギブチはその付近に立ち止まり俺を振り返った。


 立ち並ぶ数本の木、その一本の上部に子猫を見つけた。「ミィーミー」と怯えたような声で鳴くその子猫をミギブチが見上げている。


 薄暗いため色ははっきりとは見えないが、どちらかというと暗めの色であろうことはわかった。察するに、登ってそのまま降りられなくなった、そんなところだろう。


 登るのは得意だけど降りるのは苦手なんだったか。ましてや子猫ならば経験的にも降りる方法がわからない場合もある。


 ミギブチは俺にあの子を助けてほしくて、俺をここまで導いたってことなのか。


 一瞬、ミギブチが自分で登って子猫を抱えながら降ろせばいいのではないかとも思った。しかしよくよく見てみればミギブチの体は成体にしてはかなり小さかった。自身のみで登り降りは可能だろうが、子猫を抱えて降りるのは実際かなり厳しそうだ。


 そこまで考慮して俺を連れてきたということだ。


「お前、とんでもなく賢いんだな……」


 俺がそういうと、ミギブチは理解しているのかいないのか、『ンナ』と小さく鳴いた。


「しかしなんであんなとこまで登ったんだ? ……猫の好奇心ってやつか。深く考えてもしょうがないな」


 そんなことを呟きながら、俺は改めて木の上の子猫を見上げる。助けるとなれば、やはり登る以外ない、よな。


 脚立やら長めの棒なりがあれば多少は方法も変わってくるだろうが、そんな都合のいいものがこの森にあるはずもない。


 開けた空間にも一応街頭は設置されており、周囲を薄ぼんやりと照らしているが、木の上となれば木葉がそれらを遮る。子猫からすれば不安も一入のはず。


 正直懸念はあった。子猫もそうだが、俺からしてもこの薄暗さのなか木登りをして子猫を降ろすにはかなり視界が悪い。場合によっては足を踏み外しかねないのだ。加えてこの人気の少なく通りかかることもあまりない空間。万が一何かあったとき、助けが来る望みはだいぶ薄い。


 しかしそれでも、体を縮こまらせ不安げに下を見る子猫を、俺は放っておけなかった。高さでいえばおそらく九メートル前後。単純に高所という恐怖はあったが、木登り自体はそれなりに出来る自信はある。


「……よし」


 覚悟を決めると、俺は背負っていた学校鞄を木の脇に置き、簡単にではあるが登るルートを練る。幸い俺の身長で届く間隔で太い枝が伸びているため、慎重にいけば子猫のところまでたどり着くこと自体はそう難しくない。


 大方のルートが決まると、俺は手近な枝に足を乗せる。もう片方の手でそれより少し高い位置の枝をつかみ、体を引き上げた。


 とりあえずは地面から離れることに成功。ここからは細心の注意を払って一歩ずつ登る必要がある。文字通り一歩間違えれば最悪お陀仏なんてことになりかねない。


 ミギブチが見守るなか、俺は慎重に一枝ずつ攻略していく。ゆっくりではあるが確実に進んでいる。枝以外の下を見ないよう、おもむろな動きで子猫を目指す。


 そうしてついに子猫のもとにたどり着いた俺は、ふぅっと小さく息を吐くと子猫の頭を撫で声をかける。この距離に来てようやく、この子が灰色の毛で覆われた猫であることを認めることができた。


「ほーらよしよし。もう大丈夫だぞ。いま降ろしてやるからな~」


 子猫が暴れないか心配ではあったが、どうやら杞憂のようだった。ワイシャツのボタンを数個開け、その中に子猫を掴んでいれると、何の抵抗もなく大人しく収まってくれた。『ミィミィ』と鳴き声をあげるが、俺を怖がっているというわけでもないようだ。


「さて、こっからが本番だな……」


 もう完全に日が落ち切った今、足場がかなり見辛くなっている。服に子猫を入れられたおかげで手はふさがらずに済んでいるが、人間でもやはり降りるときのほうが難しいし、なにより怖い。


「慎重に、ゆっくり……」


 そう自身に言い聞かせながら、来たルートを辿るように再び一枝ずつ降りていく。


 こういうときに限ってなんか良くない事が起きる、そういう法則みたいなものがあった気がする。


 そんなイヤな思考が頭を過った時だった。下にある枝を掴んだ瞬間、鋭い痛みが走った。


「いっ――」


 暗がりで全く見えなかったが、おそらくささくれた木の皮か何かが、掌の中心付近に刺さったのだろうと思い至った。


 痛みへの条件反射で体が軽く跳ねた――最悪の状況で。


 ただでさえ今は体の重心が傾いていてバランスが悪い。


 案の定俺は体勢を崩し、枝から足を踏み外した。


「や――」


 ばい、と言葉にすることもままならず、俺は急激に鼓動が跳ね上がるのを感じた。


 反射的にもう一方の腕で何とかぶら下がろうとするも、突然の落下に腕一本で対応できるはずもなく、俺はそのまま背中から地面へと真っ逆さまに降下していく。このままいけば頭から地面に衝突することは避けられないだろう。


 こんな高さからこの角度でとなれば、運が悪ければ半身不随、どころか最悪死だってあり得る。


 死ぬ。その実感が突然に、しかしはっきりと思考を覆いつくした。それと同時に、初めて経験するような悪寒が体の内外を満たすのを感じた。


 それにしても、それらの流れが不自然なほどゆっくりに感じる。実際に遅くなっているわけではなくて、きっと俺の思考がこう見せているんだ。


(すっげえゆっくり……。走馬灯、とは違うよな。ゾーンみたいなやつ……?)


 そう意識した途端に、一時的ではあるだろうがひどく思考が冴え、冷静さを取り戻した。とても奇妙な感覚だった。


 そういえばあの法則、思い出した。マーフィーの法則だ。なってほしくない時に限って、見計らったように起きる現象。一種のジョークだとか言っていたような。


 なぜ今そんなことを思い出したかはわからない。脳が瞬間的に覚醒状態にでもなっているからだろうか。埋もれていた記憶がそれによって呼び起こされた、とか。


 ——そんなことどうだっていい。


 このままでは、終わる。だめだ。


 死ぬなんていやだ。こんなんで死んだら最悪発見が遅れてひどい有様になるかもしれない。いや、そこはさして重要な部分じゃないか。


 まだ新しい家族の問題だって、ムックたちに話を聞いてもらってる手前解決しないといけないのに。新井にだって励ましてもらって、これからなんだっていう時なんだぞ。



 精々数秒で地面に叩きつけられるはずのこの時間が、あまりにも長く引き伸ばされていることに頭の片隅で驚きながら、そうであるならばと思考を続ける。


 ふざけんな。死んでたまるか。ついでにこの子猫も守らなきゃいけないんだっての。せっかく助けたのにこれじゃ登り損じゃねえか。


 俺は子猫を抱えるようにして背中を丸める。きっとこんな思考が巡る前から、すでに俺の体は子猫を守るように反射的に動いていたと思う。それでも改めて自身に言い聞かせる。


 絶対に死ぬわけにはいかない。けがもさせるわけにはいかない――!


 徐々にゆっくりとした景色がもとの速さへと戻り、俺を再び死への垂直落下へと誘う。


(うおぁああああ――!!)


 頭の中で叫びながら、俺はその瞬間を待つしかなかった。


 そして俺は、首から地面に叩きつけられた。


「ぐ――ふぁ…………?」


 ――確かに、間違いなく叩きつけられたはずなのだが。


「あ……え……?」


 その衝撃はあまりにも小さく、呆気なかった。


 まるで背中を軽く掌で叩かれたかのような、そんな程度のものでしかなかった。


 恐怖に固く閉じていた瞼をゆっくりと開ける。暗がりの中、そよ風に揺られる木の葉や枝たちがぼんやりと映っている。


 死んで、ない。


 ゆっくりと息を吸い、足を動かす。膝を立てて軽く左右に揺らす。続いて両手も持ち上げ、手を握っては開いてを数回繰り返す。


 体も、大丈夫。


「あ、子猫!」


 俺は首へのダメージもお構いなしに頭を持ち上げ、自身の腹部に目をやる。


「ミィミィ! ミィ!」


 俺のほうを見つめかえし、無事を知らせるかのように数回鳴いた。


「よ、よかっ……た」


 緊張からの急激な緩和に、全身に疲労がずしりとのしかかるのを感じた。


 そういえば、打ち付けた首もこれといった異常は見られない。少なくとも現時点では。


「何が……起きたんだ……」


 あまりにも不可解な現象に俺は思わず呟く。誰に言ったでもないそれは仄暗い空へと溶けて消えていく。


 しかしその言葉を聞いてか聞かずか、ミギブチが俺のもとへと歩み寄ってきた。俺の今際の激動など知るはずもないといった顔で頭を擦り付けてくる。


「は、はは……何とか、どういうわけか、生きて任務達成したぞミギブチ」


 俺はゆっくりと起き上がると、服の中から子猫を取り出しミギブチの前に下ろす。


 この二匹はそもそも親子なんだろうか。もう一方の親がわからないうちは判断が難しい。


 並ぶ二匹をぼんやりと眺め、何とか気持ちを落ち着ける。残った余韻が引いていくのを感じながら、俺は二匹に語り掛けた。


「まあともかく、これからは気をつけてな。もう、さっきみてぇな体験は勘弁だ……」


 二匹の猫たちは俺に再度頭を擦り付けるとそれで満足したのか、木々のなかへと揃ってゆっくり消えていった。


 その背中を見送ってから、俺は先ほどのことを思い返す。


(何だったんださっきの……。絶対にもっと大きな衝撃がくるはずだったのに。なんなら首だって折れてても不思議じゃないくらいだっただろうに)


 それにも関わらず怪我一つなく、打ち身さえ見当たらない。


 完全に物理法則を無視した現象だ。先ほどの出来事が俺の妄想か、白昼夢とかだったら話は別だが。


 制服の上に残っている猫の毛が、現実であることを物語っている。


(一体何が……あ!)


 俺は唐突にあることに思い当たり、ポケットをまさぐる。


 そこから引っ張り出したのは、先ほど新井から譲り受けたあの石だった。


「ま、まさか……な」


 街頭の仄かな光を反射させ煌めくその石をみつめ、俺は今日一日の話を思い出す。


 消える人間。事故から救ってくれた狐面。幸運のお守り石。そして先ほどの体験。


 一見それらに繋がりなど全くないが、一応非現実的な現象が絡んでいるという点は共通している。


 今この町で、超常的な『何か』が起きているとでも言うのだろうか。


 そしてこの石もまた、それらに関りがある、とか。さすがに飛躍しすぎか。


 中二病的思考といわれても仕方ない考えだが、それでも今の俺はそれを意識するには十分な境遇に置かれていると思う。


 もはやそう思わずには、いられなかった。

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