黎明を告げる鋼、風に舞う雫 前編

三毛猫マヤ

黎明を告げる鋼、風に舞う雫 前編

 意識が起動する音がしてゆっくりと目を覚ます。

 ぼうっとした意識のまま室内を見回す。

 壁掛け時計は朝7時をキッカリと差していた。


 マスターが生きていた頃、私は毎朝この時間に起きて、朝食の用意や家事などをこなしていた。その習慣がいまだに私をこの時間に起きさせているようだった。


 マスターが亡くなって、3年が経っていた。

 私だけの家はガランとしていて、どこか寒々しい。

 時々、私は本当にここに居ていいのだろうかと思うことがある。

 まあ、ここを出た所で行く宛もないのだけど……。


 寝室を後にする前に、ドアの脇にある鏡台で容姿の確認をする。

 蒼く長い髪に、碧の瞳。ペールオレンジの肌にわずかに朱色がさしている。

 齢17、8を思わせる人間の娘の姿がそこにあった。

 横になっていた時の髪型に乱れがないか確認し、クシやスプレーを使い乱れを修正する。

 修正を終えると左手首にピンク色のシュシュをつけ、指先で触れる。そのふわりとした柔らかな感触にわずかに頬を緩めそうになり、同時に舌の上に苦いものを感じ、複雑な気持ちになる。目を閉じてひとつ息を吐くと部屋を後にした。


 家の前を掃き掃除する為に玄関に向かう。

 これは毎日行われているルーティンだった。

 マスターとふたりの時は面倒だと思っていたこの行為も、今となってはありがたかった。

 ルーティンをこなしている間は、余計なことを考えないで済むし、退屈な日々を過ごす中で時間の消耗になるからだ。


 掃除を終えてリビングに入ると椅子に座る。

 目を閉じると脳内の記憶ライブラリーにアクセスする。

 このライブラリーは、マスターによって備え付けられた機能で、私が知覚したものを自動で保存するレコーダーの役割を持っていた。

 マスターが居た時は一度も利用したことはなかったが、今は時々使うようにしている。

 マスターと初めて対面した時の記憶にアクセスした。





          *


 ジジジ……。

 耳元から電子音が聞こえ、視覚が起動する。

 初めに像を結んだのは白衣を着た眼鏡男だった。

 男の瞳は驚きのためか、真円に見開かれていて、じっと私を見詰めている。


 やがて、男はおそるおそるこちらへ歩み寄り、座り込んでいる私の前に来ると、小刻みに震える左手で私の髪に触れ、次いで頬に触れた。

 まるで私が今ここに実在しているのかを確認するような行為だった。


 私は頬に触れる骨張った手を掴んだ。

 男がびくりと震えるが、構わず握り続けた。

 握った指先から、男の熱を感じた。

 不摂生の為か肌の色は白く、ほっそりというよりは、ガリガリという印象を受ける。

 この男にどう伝えれば私の存在を信じてくれるのだろう。

 思考を巡らせるが、目覚めたばかりの私には経験が足りないからか分からなかった。

 だから、私はプログラム通りのセリフを告げた。


「はじめましてマスター。今後ともよろしくお願いいたします」


 マスターと呼ばれた男は一瞬固まった後、静かに頷いた。

 頷いたマスターの目元には雫が溜まっていた。

 雫は室内の光を反射させてキラリと光る。

 その煌めきは、ボサボサ髪で無精髭を生やした男には不釣り合いに綺麗で、見詰めていると、なぜだか胸に、じわりと熱いものが生まれていた。

 マスターが慌てて目元を拭うと、ぎこちない笑みを向けて言った。

「こちらこそ、よろしくな」


 それが、自動人形オートマータの私と創造者マスターとの出会いだった……。


 



          *


 朝8時15分、私は家を後にする。

 向かうはここより15分程歩いた先にある森の広場だ。

 マスターの家は近隣の村からでも数キロ離れているため、住民と会うことはほとんどない。

 もとより、田舎の村人にとって、ひとりで山小屋に引きこもり、自動人形オートマータの研究に明け暮れる者を理解する者は居ない為、訪ねる者は居なかった。


 広場は、マスターが朝食後に私と毎日お決まりで散歩していたコースだ。

 あの頃、私は道中に自生する植物の名を、歩きながら口ずさんでいた。

 私は毎日マスターの書斎で図鑑を読んでいた。

 他の書物が文字ばかりで退屈だったのが理由のひとつ。

 もうひとつはマスターに勉強をした成果を示すと、私の頭をぽんぽんと撫でてくれたからだった。

 私はそれがうれしくて、何度も何度も図鑑を読んでいた。


 そのとき覚えた植物の名前を、今はほとんど覚えていない。

 メモリーにアクセスすれば、記憶を呼び覚ますことも可能だった。

 でも、そうしようとは思わなかった。

 それはマスターに誉めてもらう為の知識であって、今となっては意味がないものだった。


 森を歩きながら、ふと目の端にピンクの花を見た気がした。

 道を外れてそちらへと向かう。

「ミヤコワスレ……」

 それは私が期待していた花とは違った。

 風に揺れるミヤコワスレの花が、落胆する私の気持ちをからかっているように思えた。

 手を伸ばして一番背の高い花弁を掴み、握り潰した。

 手のひらから落ちる花びらを見つめ、馬鹿馬鹿しい思いを抱いた自分に乾いた笑みを浮かべ、同時に自己嫌悪した。


 傍らにある老木に寄りかかり、ずるずるとしゃがみ込んで目を閉じた。

 衣類に土や樹皮の欠片が付着するのも気にせずに、意識を沈める。

 遠い日の記憶にアクセスすると、一輪のピンク色の花が、揺れていた……。





          *


 マスターの朝食の食器を片付け終えるとふたりで散歩に出掛ける。

 マスターの家は村から離れた一軒家で、ドアを開けると周りには鬱蒼とした森に囲まれている。


「アオダモ、アセビ、イチリンソウ……カタクリ、スズラン、シライトソウ……」


 私は図鑑で見知った植物を見つける度に指差し確認しながら散歩道を歩く。

 身に付けた知識がすぐに活かせることがうれしくて、歩みは自然、軽やかになる。


 マスターは自動人形オートマータの研究者で、沢山の専門書を持っているが、それ以外にも哲学、歴史、社会学、自然科学、技術、産業、芸術、言語、文学など、多種多様な書物を読み漁る。

 さしずめ、マスターの部屋は小さな個人図書館だった。


 マスター曰く、何かを創造する為には、その源泉となるのは自分、あるいは他者から知り得た経験や知識などが必要になるのだという。


 そして物事の思索に耽る時は、ひとりで部屋に引き籠ったり、他者と討論を交わしたりするだけではなく、適度に体を動かすことでアイデアが思い浮かぶこともあるらしい。


 その時間が毎日のこの散歩なのだと言う。


 ……とまあ、偉そうには言っているけれど、マスターがヒョロヒヨロもやしのメガネ男なのは変わらず。散歩では浮かれた私がマスターを置き去りにして、森の中を駆け回るのが常だった。


 図鑑で見たものを、森で実際に確認するのは、全然違う。図鑑はどれも紙の匂いしかしないし、撫でても皆同じだ。リアルに触れてみると、ザラザラ、サラサラ、ベタベタ、チクチク、ギザギザなど、においも全部違う。それらの感覚は私の知的好奇心を満たし、ワクワクした。


 樹齢数百年の大木を通り過ぎ、少し歩くと、木々に囲まれた円形の広場がある。

 木々の隙間から、差し込んだ日差しの中に、ピンク色のアスターの一群が静かに風に揺れていた。

 さくさくと、後方からマスターの足音が聞こえ、やがて私の横で立ち止まる。


 ふいに鳥の鳴き声を聴いた。

 そちらへ視線を投じるが姿はない。

 私は傍らに立つマスターの袖を掴み、訊ねた。

「マスター、この鳥の名前、知ってますか?」

 マスターが水筒の水で喉を湿らせると教えてくれた。

「ああ、この鳥はコルリというんだよ」

 その名前は図鑑で記憶していた。

 体の上部を覆う深い青と腹部の白のコントラストが綺麗な鳥だ。


 高く澄んだ鳴き声が、耳元で軽やかに響き、心地良い。

 私は目を閉じて、しばし鳴き声に聴き入った。

 風が頬を撫でさすり、草木がさわさわと木霊している。

 木々の隙間から降り注ぐ日差しが私の額を暖める、手のひらで遮ると、指先から土や草木のにおいがした。

 風に揺れた野草が足首をくすぐる。


 コルリという、小さな鳥の軽やかな鳴き声が再び聴こえる。

 深く息を吸い込む……深く、深く……息を吐き出していくと、周囲の感覚が白い紙ににじんでゆくようにぼんやりと曖昧になって、代わりに自分という存在がより明確になる。

 無音の、意識の海にひとり、沈んでゆく。

 群青の海は、コルリの鮮やかな翼を思わせる。

 こぽり、こぽり……。

 口より産まれた小さな無数の泡が、中空を昇ってゆく。


 水泡の行く末を見上げる。

 泡は泡沫となり、弾けると光を放った。

 その光が私の視界を覆い、一瞬で世界を白く染め上げた。





          *


 気が付くと私は暗い室内に佇んでいた。

 白い窓枠の外には、マスターの家と村との間を繋ぐ、風のなびく丘があった。

 丘に自生した雑草が緑の絨毯じゅうたんのように広がっている。

 ふいに、左の手のひらに熱を感じた。

 淡い光が指の間かられている。

 不思議に思いながら胸の前で手のひらを開く。

 そこには青い鳥の羽根があった。

 コルリの鳴き声を耳元で聴いた……気がした。


 歌声に呼応するように、胸の奥から言葉が産まれた。

 私は口を開く。

 そうして、胸の奥より自然に産まれたコトノハを紡ぐ。

 ぽつり、ぽつりと浮かんだコトノハはひとつ、またひとつと繋がる。

 繋がりはやがて、旋律となる。


 旋律は、歌となった。


 開け放たれた窓を風が吹き抜け、青い羽根が彼方へと飛び立ってゆく。

 その行く末を、私はいつか知ることが出来るのだろうか……。

 このコトノハより生まれた歌はどこへ向かうのか、どこまで届くのか。

 分からない。

 けど、今はそれでもかまわない……。


 私は弾むこころで想いのままに、歌う。

 軽やかな気持ち。

 楽しいという気持ち。

 うれしいという気持ち。

 そして、私を創り出してくれたマスターへの感謝の気持ちを……。

 コトノハに、音に、響きに、仕草に、自然に生まれた笑みに、込める。


 鼻先が熱くなり、目元を湿っぽく感じる。

 寒さなど感じない筈なのに、体が小刻みに震えていた。吐く息が熱くなる。

 体の急な変化に驚きつつも、歌い続けようとして…………。

 ふわりと、暖かな何かが体に触れて、驚いて目を開いた。

 マスターが私を抱き締めていた。

「…あの……マスター?」

「なんでも……ない……」

 マスターがくぐもった声で応える。

「ありがとう……」

 なぜかお礼を言われる。

「マスター、私はただ、自分が歌いたいと思ったから歌っただけです」

「ああ……解ってるよ。ちゃんと、伝わったから……僕は君を創って良かったと改めて思ったよ。こんなに嬉しそうに、歌を歌う姿を今まで見たことがない。君が嬉しいように、僕も嬉しいんだ……だから、ありがとう」

 そんなに嬉しそうだったのだろうか……改めて言われると、なんだか恥ずかしい。

 マスターが私の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれる。

 目を閉じて、その感覚に浸る……。


 いつの日か、私とマスターは別れる時が来るのだろう。

 その時、私の手のひらには何が残っているのだろうか。

 その答えを知る術はない。

 手のひらにはもうあの羽根はなかった。

 けれど、そこにあった熱と光と、鮮やかな群青の記憶だけは、きっと忘れない……。



 羽根はコトノハを、コトノハは旋律を、旋律は歌となり、私とマスターとの間に新しい関係が生まれた。


「君は歌を歌うために創られたんだ」

 マスターが私に告げた。

 それが私の存在意義レーゾンデートル


 帰路へ向かうマスターの後を付いてゆく。

 コルリの鳴き声はもうしなかった。

 きっとどこかへ飛び去ったのだろう。

 私は木を見上げながら、居る筈もない青い鳥へ、小さく手を振った。





         *


 老木の脇を通り、広場に入る。

 そこには白詰め草の一群と、マスターのお墓があった。

 マスターは自分の死期が近づくのを悟ると、この場所にお墓を建てた。

 私はマスターの墓前に立つと手のひらを一度合わせた。

 近くの小川で汲んできた水桶を置いて雑巾で墓石を拭った。

 拭き終わると私はもう一度手のひらを合わせ、左手首のシュシュを1度、さすった。

 目を閉じて歌を歌う為に空気を深く吸い込む。

 そうして口を開こうとした時……。


「はじめまして、お嬢さん」

 振り向くとそこにはがっしりとした体躯の大男が佇んでいた。

 男は腕を組み、不敵な笑みを浮かべていた。




 それが私と男と初めての出会いだった。












ーーーーーーーー後編に続くーーーーーーー

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