第43話 セセリ・窮
クレイド達がいなくなってから幾ばくかの時間の後、とてもゆっくりとした動きで、瓦礫の下からセセリが出てきた。
「……痛い」
セセリは瓦礫の下から足を引き抜き、這いずるように移動して床に仰向けで転がった。あれだけの攻撃を受けても骨は折れておらず血も出ていない。
体中についた傷からは黒い粘液のようなものが見えている。血液の代わりに
「痛みはあるんだ……最悪。痛い、ってこんななの……?」
セセリは、いや、その昔セセリを呼ばれていた少女の身体を使うモノは、馬乗りになった男に何度も胸を刺された光景を思い出していた。
路地裏の空気の冷たさ、叩き付けられた背中の痛み、散乱した学校カバンとその中身、そして、朝に見た母親の顔。それらがだんだん赤灰色に染まっていく様が、頭の中で再生されていた。
「……あの時ほど怖くはないと思うからまぁ、いいか。お兄さんたちまた来るみたいだし、じっとしておこう。このお腹とかちゃんと塞がるのかな」
瓦礫で潰れて内臓が少し出た腹部をそっと手で抑える。じわじわと傷口から漏れ出た黒い
これはセセリの記憶だ。僕は知らない。僕は食べたことのない料理の味を知っている。行ったことのない風景を知っている。あったはずのない事の顛末を知っている。それが当たり前だった。
人間なら忘れてしまうような毎秒毎秒の、視界の端に一瞬映っただけの人も知っている。人の記憶が徐々に色褪せて順次捨てられていく写真ならば、僕に渡された記録は高解像度の十数年分の動画だ。
そのせいで頭がいつもパンクしそうで、割れそうなくらい重たい。
何も考えられなくなる。
人の痛む顔、悲しむ声、苦しむ唸り、呆然とする背中、わめく姿、暴れる腕、立ちつくす男、追いすがる女、皆の『やめて』『痛い』『なんで』『こんなはずじゃない』そういうことしか感じられなくなる。
知っているだけのデータに占拠されて、新しく僕のものはどこにも入らない。
無理に何かを増やそうとすると、さらに僕の座標がずれていく。
セセリじゃなくなってしまう。
いやセセリは僕だ、馬鹿なことを考えるな。
あぁ、どうしようもないズレを感じる。僕の身体が僕のものではないみたいな、決定的なズレ。とても我慢出来ないこの飢え。渇き。渇望。どうか何かで満たしてほしい、と心が叫んでいる。
うまくここを乗り切って、またこの飢えを満たさなければ。お母さんを泣かせないと。お母さんがごめんね、と僕に謝りながら泣いている時、僕の下半身がじんわりと熱くなる。こんな僕とは違う、強く気高い優しいこの人をここまで落ちぶらせるのは世界で一人、僕だけだ。
ここまでして見捨てられないのなら、僕はここにいていいのだ。
いいや違う、そんな見返りいらない。あの人がうずくまって震えているのが見たいだけだ。
そうしなければ、心が乾いて、目が潰れて、指が崩れて、無に還る。
どうかその前に、誰かわたしの名前を呼んでほしい。
……僕の名前はセセリだ。物心ついた時からそうだ。お母さんがそう名付けて、呼んでくれた
「僕はセセリだ、そうでしょうお母さん。……どうせまた助けにくるんだよね」
丸くなってじっとしているセセリだったが、不意に眉をしかめた。
「……どうせ?どうせ、ってなんで……」
自らに問いかけても返事は無い。果たしてそれは本当に自分に問うたのかも分からない。彼女は自分のことが分からない。
機械は人間のことが分からないように。
カジノエリアドームの端、居住エリアドームに向かう橋の前に第四主都退魔支部局は存在した。一見警備がしっかりしている豪勢な邸宅のような建物だった。
掲げられた旗や出入りする青い制服の集団を見なければ、小金持ちの家だと思われるだろう、とアミティエはグレーダーの手入れをしながら考えていた。
クレイドはこの街の真実の姿が全部見えていたわけではないらしい。ただやたら寂れた侘しい街には見えていたようだった。彼一人が認識操作のかかりが甘かった理由はまだ不明。肉塊は流石に検知していなかったとのことで、地上に出て驚いていた。
もし肉塊まで見えていたら駅を出たところでクレイドも何か言っただろうな、とアミティエは思った。今までその違和感を伝えてくれなかったから気づけなかったなどと責めることは出来ない。言われたとしても信じられなかったと思うからだ。
支部局内も混沌の一言だった。花瓶は割れ、至る所にカビや謎の草が生えていて、手すりや壁が腐っている。街のように壁が崩れていたり死体が転がっていたりするわけではない。
彼女の近くには第四主都の退魔士達が避難してきており、皆意気消沈していた。支部局に来るまで地獄のような街中を抜けてきたのだろう、皆命令通りの仕事をしながら不安そうだった。
カジノエリアはほぼ壊滅状態で、あれだけいた客は忽然と消えていた。ペーレイラが見せていた存在しない盛況だった。それでも確かにいた本物の客は廃墟や死体に囲まれて気を失っていたり、恐怖で身動きが取れなくなったりしている。
動ける警察官や退魔士がおっかなびっくり迎えに行き、無事な商業エリアや居住エリアに移送されてはいるが、人手は足りない。
退魔士の半数が、忽然と消えた。駅で余所者達を前にして無気力な態度を見せていた、あのようなぼんやりとした退魔士が近頃増えていたらしい。それらはムルナの超音波が響き渡った後、蜃気楼のように消えたのだと居合わせた人は言った。恐らくとっくに殺されていたのだろう、とゴーファーは結論づけていた。
「どういうことか説明してもらおうか!」
ラテントの叫び声を聞いて、アミティエは腰かけていた階段を上がり局長室に戻った。そこではストライの胸ぐらを掴むラテントと、とくに止めない先輩達がいた。
眞紅はソファーに横になり治療を受けている。顔色は随分よくなっていて、アミティエはほっとした。
「ヴォイドの支配下だったとは知らない、本当だ!」
「じゃあなんで捜査に消極的だったんだよ」
「……ペーレイラからの命令だ!」
ストライがQUQを操作すると、確かにペーレイラから連絡が来た記録がある。
日付は半年前。操作権をパウルが奪い、ストライのQUQログが皆の前に展開された。ゴレムの増加についての対策会議を開こうとして、別主都の専門家に連絡を取ろうとしている履歴があった。そこにペーレイラが割って入っている。
“生きている者が犠牲になることはない。見て見ぬふりをしていろ”
「地方支部の支部局長ごときにペーレイラが直接連絡してくるなんてないだろ?
だからマジもんの任務だと考えて、この半年全力で何もかもを黙って、見て見ぬふりしてたんだよ。俺は俺の職務は遂行していただけだ!俺にとってお前らはそれを邪魔する敵だったんだ!」
「ペーレイラが何者かに利用されたとは思わなかったのか?」
ストライは大きく顔をゆがませながら、自身の左手のQUQを指さす。
「おいおい、俺たちは生まれた時からこれつけてんたぞ?そんでこれは四六時中人工知能どもと繋がってんだ、監視されてんだよ!誰にどうこう出来ると思うんだ?
ネーレイス達が、俺みたいな末端の人間には教える必要も無い計画を進めている、そう考えるのが普通だろ!それがまさか、ペーレイラが単独でヴォイドと結託してるとか、ほんと、嘘だろ……」
頭を抱え憔悴したようなストライに、もう同情はしてたまるか、とエルデは厳しい目を向けた。
「セセリのことは知らなかったのか?」
ゴーファーの質問に、ストライは目を丸くした。
「セセリ?セセリって……オーディ議員の娘か。あいつがどうかしたのかよ」
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