第1章 ある逃亡者の話2

 翌朝もすることは同じだった。朝日が登るのとともに目を覚まし、簡単な食事をとる。恨めしげに紅茶缶を眺めながら白湯を飲み、脳を覚醒させる。そして野営の後片付けをし、魔法で痕跡を消してから出発する。今日中に峠を越え、明日には山を降りたい。空を見上げる。空には雲一つなく、少なくとも当面の間は雪が降りそうになかった。絶好のトルゥリィ峠踏破日和である。

 早速ティーは全身に身体能力向上のためのエンチャント系の魔法をかける。エンチャント系の魔法は探知されにくい。それは付与する魔力が人間の身体のみに作用するからだ。ともかく、利便性が高いためティーはよく使用していた。しかし魔力のコントロールが難しく扱いが難しい。魔力の膜で身体中を覆い、その膜を一定に保つ必要があるのだ。それをこなしながら移動することはそれなりに訓練した魔導士であることの証であった。ティーは雪の上を歩けるように足に雪に乗っても沈まないよう付与した。そして凍傷にならないように最低限の保温魔法を特に肌の露出部分がある顔と手足の先端にかけた。

 魔法で強化された四肢を存分に発揮し、通常時とは比べ物にならない速度で分厚い雪の上を移動する。途中水分補給を挟みながらではあるが、それ以外はほぼ休みなしに移動した。見渡す限りの白銀の世界は目に痛いほどであった。空が近く感じ、雲ひとつない青い空と足跡も岩も何もない青と白のコントラストは美しい。岩や藪などの目標はないが、あの真っ白な坂の向こう側に「紙とペンの国」はあるのだ。

 その晩は野営地を設置してから夕食にするための獲物を探した。そして捕らえた獲物の血抜きをしている間にティーは手袋を脱いだ。手はあかぎれと血に塗れていた。指の感覚があることと正常に動くことを確かめ、そこにマッサージをしながら軟膏を塗る。同じことを爪先にもする。だんだん火に当たって血行が良くなったのか全身の肌が痒くなってきた。辛抱強く、痒みが治るまでマッサージをする。それが終わってからティーは自分の身体を抱きしめ、誰に言い聞かせるわけでもなかったがささやいた。

「無傷でこの峠を踏破した、できた…。」

口に出すと、それまでは感じてこなかった達成感がじわじわと胸に染み渡っていった。涙が出てきたが、火のおかげで凍ることはなかった。


 翌日、ティーは国境を越えた。明確に国境がどこにあるかは分からないが、地図を見ておそらくここだろうと自分勝手に決めつけたのだ。重装備で、それに脚力を向上させるエンチャントもつけていなかったが、なんとなく国境を飛んで越えた。これで今ティーは「紙とペンの国」にいることになる。山を降りていくのは登るよりも楽だが、滑らないようにはやる心をなんとか宥めながら慎重に降りて行く。ここで油断してはいけない。そう自分に言い聞かせる。

 街を遠目で目視できたときは思わず歓声を上げた。もうすぐだ。慎重に行かねばならないと頭では理解していたが、どうしても進む速度は早くなった。

 その日の晩、火にあたりながらティーは重要なことに気がついた。明日には山の麓に着く。そこで、街に入る前に一度どうしても入浴する必要があるのだがそれをどこでするかだった。ティーの鼻は既に慣れ切っているが、最後に入浴したのはだいぶ前のことだった。旅を始めた最初の頃は入浴の代わりに蒸したタオルで全身を拭いていたが、ファンガーソン雪山に入ってからはとてもそんなことをする余裕はなかった。全身を拭くには寒すぎたのだ。それを意識し出すと自分の匂いが気になって仕方がない。ティーは入浴できる場所を探すと心に決めてとりあえず明日のために眠りについた。

 翌朝の午後、ティーの杞憂とは裏腹に簡単に街の外にある宿屋を見つけることができた。小さい木造の建物ではあったが、中に入ると割ときちんとした受付があり、そこには亭主らしき人がいた。彼は新聞を読んでいたが、ティーに気がつくと「いらっしゃい。」と声をかけた。気難しそうな人物でそういったきりまた新聞に目線を戻した。

「一泊泊まりたいのですが。部屋はありますか?」

ティーがそういうと、亭主らしき人物はティーを不躾に眺めますとフンと鼻を鳴らす。

「一泊10タラント銅貨だ。」

10タラント銅貨か。結構高い。

「風呂付きで?」

「いいや、風呂付きなら1タラント銀貨だ。」

そう告げられティーは一瞬迷う。しかし、この付近に宿屋は他になく値段交渉するには疲れすぎていた。何より早く休みたかったのだ。

「食事はついてます?」

「ついてる。あと2時間後に奥にある食事処。」

「わかりました。」

そうティーが了承すると主人は黙って部屋の鍵をよこした。案内も何もなかったが、鍵についているキーホルダーに書かれた番号を探した。部屋を見つけると鍵を開けて中へ入った。部屋はベッドと小さなテーブル、椅子、ベッド(白のシーツがある!)、壁にかかった鏡、そしてコートをかけるための釘が何本か壁にあるだけだった。料金の割にかなり質素でふっかけられたかなと思いはしたが、それでも久しぶりのまともな屋根のある部屋だったので文句は言わないことにした。

 シーツの匂いを嗅ぐと今すぐにでも寝てしまうだろう。そう思ったティーはさっさとコートなどの旅の服装を解いていく。着込みすぎて壁に打ち付けてある釘だけでは足りなかったので畳んで椅子の上にも置いた。やっと身軽な格好になると、荷物の中から石鹸とブラシ、そして布切れを取り出し、早速風呂に入りに行くことにした。

 先ほどの受付に戻るとまだあの無愛想な男性はいた。新聞は読んでいなかったが、帳簿らしきものを見ていた。集中しているのか、無視しているのかはわからないが、ティーには目も向けない。邪魔しては悪いと思うが、それでは風呂場がどこかわからないので仕方なく声をかける。

「すみません。」

「なんだ。」

「どこで入浴できますか?」

「奥だ。」

そういうと、彼は顎で彼の後ろの方にあるドアを示した。

「ありがとうございます。ついでに洗濯をしたいのですが。」

「庭に井戸がある。勝手に探してくれ。」

「わかりました。」

洗濯もできるのは嬉しい。干す場所は指定されなかったが、魔法を使用すればすぐに乾くので問題なかった。

 奥の部屋に進むとそこは食堂になっていた。まだ誰もいなかったが、厨房の中から音がするのでそこには誰かいるのだろう。しかし、声をかけるのも億劫でティーは風呂場と書かれたプレートが貼ってあるドアを開けた。

 そこは天国だった。少なくともティーにとっては天国に違いなかった。そこにはなかなか立派な湯船があり、壁には磨かれた金属でできた曇った鏡があった。また、扉には内側から掛けられる鍵があった。お湯はまだなかったが、それでもよかった。しばらく感動で立ち尽くしていたが、我に帰るとお湯を求めて再び動き出すのだった。

 台所からお湯をもらい、何往復もしたあと、ようやく湯船にお湯が溜まった。また、台所にいた年配の女性には銅貨を数枚握らせしばらくしたら追加のお湯を持ってきてもらう算段もつけていた。まず、服を全て脱ぎ捨てて、お湯で満たされたバスタブに入る。そして布切れと石鹸でどんどん汚れを落としていった。バスタブの中のお湯はすぐに汚れで黒くなっていった。鼻は慣れているはずなのに濡れると髪はひどく悪臭を放っている。全身を擦って汚れを落とす。途中、頼んでいたお湯とバスタブの中のお湯を交換したがそれでもすぐにお湯は汚れる。年配の女性は汚れきったティーとその悪臭に顔を顰めていたが、しばらくお湯を沸かしては運ぶというのを繰り返すうちに慣れてきたのだろう。ほとんど無表情で黙々と湯を持ってきてくれた。

 何度かお湯を交換し、ようやくティーは綺麗になった。最高の時間だった。全身の汚れを落とし終えた時、まるで生まれ変わったかのような心地にさえなった。大満足のティーだったが、お湯を運んでくれた年配の女性は疲弊していた。流石に申し訳なくなって、さらに銅貨を一枚渡した。今後の旅のことを思うとあまり贅沢はできないのだが、今回ばかりは仕方がない。疲れていたのと、最高の入浴だったのがあって、奮発してしまったのだった。


つづく


〈通貨の設定〉

「騎士の国」の通貨

1タラント金貨=17タラント銀貨

1タラント銀貨=13タラント銅貨

実は「騎士の国」と「紙とペンの国」は異なる通貨が流通していますが、国境付近では割とどっちでも使えるというどうでもいい設定があります。


〈作者のコメント〉

ティーちゃんは紅茶党の紅茶狂いの設定です。お気づきではあるでしょうが、名前はそこからきています。恐らく脳みそに茶しぶがこびりついているはず。実は作者も紅茶が好き(誰も聞いていない)。

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