第1章 ある逃亡者の話

 あるファンガーソン雪山という、騎士の国と紙とペンの国を隔てる非常に標高が高い雪山があった。特に1番の難所と呼ばれるトルゥリィ峠は年中吹雪が吹き荒れていて、踏破しようとするものたちの命を悉く奪い去っていった。峠の名前になっているトルゥリィという名も、初めてその峠に挑んで命を落とした者の名前だという。そんな峠を越えようとするのは余程の命知らずか、それか追っ手から逃げようとする者ばかりであった。そんな場所に1人の旅人がまさに国境を越えようと峠に挑んでいた。

 その旅人の名前はティー。少なくとも今はそう名乗っていた。炎のような深紅の髪に菫色の瞳をした精悍で整った顔つき。色白で華奢な体つきだがよく見ると鍛え上げられ、無駄なところが一切ない。飾り立てたらさぞ美しいだろうが、今はこの峠をこえるための無骨で飾り気のない装備で全身を覆っていた。鮮やかな髪はフードの中に押し込められ、端正な顔はゴーグルとマスクに隠れてほとんど見えない。コートと毛皮の靴下は2枚重ね着し、手袋もしていた。


 ティーは別に登山が好きなわけではない。むしろ着々と嫌いになってきている。なので、この峠をわざわざ超えるのは頭がおかしい登山家だからという理由ではない。絶対に誰にもティーの存在を知られるわけにはいかなかったからだった。ティーは逃亡者なのだ。

 


 およそ30分おきに立ち止まり、息を整えてから水分を補給する。夜のうちに集めた雪を溶かして煮沸した水を水筒の中に入れておくのだ。水は氷のように冷たいがそのおかげで生きているのだから我慢するしかない。そしてひっきりなしに方向を確認し、山のまだ木が生えていたところで拾っておいた木の棒で足元を探りながら着々と進む。一瞬でも気を抜けば氷の裂け目に落ちて死んでしまうだろう。ここで死にたくはない。その一心で凍てつく空気で痛む肺を上下させるのだった。

 ティーが時計を確認すると、もうすぐで3時になる頃だった。そろそろ準備しなければ、とティーは思う。もちろんこんな雪山で3時のお茶の準備をするはずもなく、今夜の野営の準備であった。登山では日が暮れる前に野営の準備を終えておくのが鉄則だとあの人は教えてくれた。

(彼は今頃どうしているだろうか。)

あのどこを見据えているのか全くわからない、あの笑顔を思った。


 今夜は大きな岩の側を野営地にすることにした。なるべく水平になっているところを探し、そこに荷物を置いて手早くテントを張る。そして吹き飛ばされないようにテントの周りに結界を張る。この結界は風などの外部からの影響を受けないだけでなく認識を阻害するものでもあるので野生動物などにも対応していた。このように複雑な魔法をなんなく実践で活用できるのはティーがかなり強力な魔導士であることを示していた。もちろん、そんなティーは魔法で峠を一気に通り抜けることも考えたが、移動系の魔法は探知されやすいので徒歩で踏破するしかない。

 テントを整えると次は火を起こしにかかる。岩と雪しかないこの不毛の土地では僅かな枯れ草しか集まらないので、それを焚き付けにして事前に集めておいた薪に火を移した。ある程度火の調整をしてから薪をなるべく平らにならした。鍋を取り出し、そこら中に嫌というほどある雪を鍋の中に入れ、そのまま火にかける。雪がすっかり溶けたあとはちまちまと目立つゴミをすくいながら沸騰するまで待つ。沸騰した後は少し冷ましてから水筒に入れる。明日の水分である。そしても一度同じことを繰り返し、今度はこれから飲むための薄いお茶を淹れた。

(あと2、3…。いや、もっと薄めれば4回…。)

ティーは底が見え隠れした紅茶缶を見てため息をついた。次に紅茶が手に入る機会があれば今回用意した分の2倍は買っておこうと思う。ティーにとっては他の嗜好品、例えばお菓子や本などは我慢できても紅茶を我慢するのは至難の業なのだ。ちなみにお茶のための砂糖はすでになくなっていた。

 お茶を作れば、あとはそれをちびちびと大切に飲みながら昨日捕まえて凍らせておいたウサギの肉を焼く。昨日は運が良く捕まえた獲物だ。昨日のうちに半分ほどたいらげ、余った分を凍らせておいたのだ。この雪山の唯一のいいところは食料の保存方法に困らないというところ。なにせ火から遠ざけて放置しておけば勝手に凍るのだから。

 肉が焼けると岩塩を砕いたものを満遍なく振りかけて齧り付く。いい塩梅に塩が効いた肉の味が口いっぱいに広がる。この瞬間こそが最も生きた心地がするとティーは思う。肉を食べ終えると栄養を補填するためにいくつかサプリメントを残りの薄いお茶で流し込んで食事を終えた。普段は味気のない、パサパサなのに喉に張り付くようなクッキーに似ている栄養食品だけど、このようにうまい具合に食料を手に入れられた時はご馳走が食べられる。明日はまたうさぎか何かが捕まえられたらいいのだけど。そんなことを思いながらティーは寝る支度を始めたのだった。



登場人物の紹介

ティー

今回の主人公。何やら秘密を抱えている様子。


あの人

世界を旅しているとかなんとか。ティーの師匠。


今後、章ごとに異なる主人公が出てくる予定です。今のところ次の章ではお節介な人の従者がメインとなります。題名はまだ決めていません。仮の題名は「お風呂に入れられる犬の話」です。お楽しみに⭐︎



 

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