9:妖怪と影
六人ともが、一瞬のうちにためらいをあらわにした。
その表情は困惑ともいえるだろう。
君平がにやりと口端をあげる。本当に好きだな、こういうの。
「あ……ああ……」
頭を抱えて震える伊川さんは、青を過ぎて真っ白な顔になっている。呆然と口を開けた面々は扉に釘づけで、己が身に起こったことにやっと気づいたらしい。
次未が講義室の扉に手をかける。
室内に入ってきたのはふたりだ。
ひとりはきっちりスーツを着こなしている貴宮さん。
そして。
「
次未の澄んだ声が講義室に響く。
貴宮さんの隣に立っていたのは背の高い男だった。
岩見和樹の第一印象は草食系、だろう。鳥羽と同じくらいの体格だが、
よく見るカジュアルブランドの眼鏡を指先であげて岩見はそっと会釈をしてみせた。
「……岩見くん。そうです。どうして私……忘れていたんだろう」
伊川さんが茫然と呟いた。
岩見は黙って立っていた。言葉を失った六人の様子をうかがっている。
ばつが悪そうにうつむくもの、いまだに驚愕のまま硬直しているもの。目の前に起きたことが理解できないというように。
そんななかで最初に口を開いたのは
静かに岩見のもとへ歩み寄り、しっかりと腰を折って頭をさげる。
「和樹。悪かった、本当に」
はっきりとした謝罪だった。
うつむき、言葉を探す仲間たちに、岩見は眉を下げて笑った。
「うん、理由はもうわかったから。気にしないで」
恨み言のひとつでも言っていいところだろうが、心の広い男だ。
貴宮さんはあきれたように肩を竦めて額にしわをつくる。ちなみにこのしぐさがポジティブな反応だとわかるのはオカルト部の面々だけである。
「岩見くんが、あゆのそばにいた黒い影だった……」
ようやく事態を飲み込んだらしい伊川さんの視線を受け、次未はこくりとうなずく。
なんだかリスと小鳥が会話しているみたいだ。ここだけ森林浴である。
ふくらみかけた妄想が駆馬の肘突きで突き崩される。
「鼻の下伸びてるよ、粕谷先輩」
「だってかわいいんだもんよ」
「はいはい。終わってからね」
外国映画の子役みたいにおおげさに肩をすくめる。生意気だな。
「今回の妖怪は、あなたたちの認知能力に影響をあたえるものだった。岩見和樹さんが在ることを認識できない。認識できたとしても、吉野さんが見た『黒い影』のようにしか感じ取ることができなかった」
蓋を開けてしまえば、オカルト現象としてはポピュラーだ。
あるものをないと認識する。ないものをあると認識する。
問題はその原因がどこにあるかという話だった。姿を見せないから見えないのか、そもそも目のほうを覆われていたのか。
「吉野さんと飯原さんの間にあった空白は岩見さんが本来立っていた場所を示していました。岩見さんが認識からも記憶からも隠匿されたのは、富岡さんがアイテムを払い落としたそのときです。空白の違和感すら感じないというのは非常におそろしいことで、あなたたちの認知機能に相当な影響を与えていたのだと考えていいでしょう」
ひとの認知力というのは非常にあいまいで、そこにあるものを必ずしもその通りに見ているとは言えないらしい。
『人間は常に、側面からしか世界を見ることができない』
次未がよく使う言葉だ。この世界に正面なんてものはない。
だからこそ、オカルト愛好研究部などという怪しげな名前も部に昇格できるほどのちからを得ている。不可思議を解明するという活動目的が、俺たちの足元に強い大地として
「この現象に最も近い名前は──」
ぴっとひとさし指をまっすぐにする、貴宮さんゆずりのしぐさ。
「妖怪リモコン隠し、です」
意外かつ間抜けな名前に、え、と誰ともないつぶやきが響いた。
「り、リモコン隠し?」
「その、これが一番有名で。最も事象として近いのがそれというだけで……」
ぽっと次未の顔が赤くなる。
わかるぞ。なんとなくこのスベッたような雰囲気、ちょっと恥ずかしいよな。
照れる次未もめちゃくちゃかわいいので思わずにっこりである。
「目の前に在るものを、無いものとして認識させる……そういう妖怪です。直接的な悪いものが憑りついていたわけではないので吉野さんが攻撃されることはなかったし、大学にいる間でもそばにいるときといないときがあった」
「たしかにアタシたちは取ってる講義がかぶってるものも多いけど、違うものもある。そういうことだったのね」
「プライベートな時間にあらわれなかったのも、影が消えていたのではなく、単にそばにいなかったためです。霊的存在であればそんなことは関係しませんが、今回は見え方が変わっているだけで……岩見さんはきちんと生きているひと、ですから」
次未が少しだけ寂しさを見せた。
その声色の変化はたぶん俺にしかわからないものだ。
途端、胸を突くような愛おしさで、いますぐにぎゅっと抱きしめたい衝動にかられる。好きなところを十個でも百個でも教えて次未のことが大好きだよって伝えたい。
しかし空気はちゃんと読まなきゃいけないので、せめてとまるっこい頭をそっと撫でてやると、びっくりしたネコみたいな目をして次未が顔を上げた。
「な、なに、
「いいや? 後でな」
きょとんと不思議そうにしたまなざしには陰りがない。
いつもそうしていてくれればいい。次未が悲しい気持ちでいるのは良くない。まあ心配をかける人間のひとりとしてはあまり言えたことではないが、それはそれである。
「まあとにかく。よかったね、大きなことにならなくって」
タイピングの手を止めた駆馬が肩をまわしながら言う。
気づけば岩見は仲間たちに迎えられて口々に笑いあうまでになっていた。その様子はやはり長く付き合いのある人々のそれである。事件の後遺症など杞憂で済みそうだ。
仲良きことは美しきかな。
君平は少し口をとがらせていて退屈そうだ。
「本当に、どうお礼をしたらいいか……本当にありがとうございます、みなさん」
目の端に浮かんだ涙をぬぐい、伊川さんが頭を下げた。巻き髪がふわりと揺れる。
「いいえ、まだ終わっていない」
「え?」
「まだあなたの相談に答えていない。あなたたちは、何を呼んだのか」
伊川さんの目が大きく開く。
その反応は二日前、緊急相談のときに見た表情に近い。
畏れる目。得体のしれないものを見たという視線。
「さあ、タネ明かしをしましょう」
凍りついた空気に、
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