19 俺が何もしなかったらあいつは自分を守れない

 西沢は圭輔のために取っていない講義にも出てノートを取り、圭輔の家に頻繁に届けていた。

 もちろん訪問の目的はそれだけではない。


「郁は大丈夫か?」

 それだけではないほうの目的を果たしているような時でも、圭輔はそんなことを口にして、それが西沢には不満になっていた。

「大丈夫だ」

「理由は?」

「え?」

 西沢の答は、特にあれから事件は起こっていない、という意味でしかない。だが圭輔の問いは、郁を守るためにどんな対策をとったのか、という意味だから話は噛み合っていない。


「お前を心配はしている。それ以外何も起こってはいない」

 つまり対策を取っていない、という返事を理解した圭輔は、郁がするほうの心配は一切気にかけなかった。

「本当に大丈夫なのか?」

「ホントに何も起きてないって」

「これからの話だよ!」

「柳川だってあれで懲りただろう。血を見たわけだから」

「あいつは……昔から何を考えているかわからなかった。懲りたかどうかだってわからない」

「それにしたって、人間だ。痛い目に遭えば」

「そんなもんか……」


 圭輔は尽くされている身で、あまり強くも言えなかった。


 停学が明けると、郁は

「けいちゃん!」と、子供の頃と何も変わらぬ笑顔で圭輔を迎えた。

「大丈夫だったか?」と圭輔は言った。これは、西沢の言葉を信用していない、という響きを持っていた。

「大丈夫」郁は答えた。


 だが大丈夫ではなかった。ということが、偶然圭輔に見えてしまった郁の携帯電話の画面からわかった。

「そのページ、消えたんじゃなかったのか!」

「わからない」

「わからない?」

「似たようなページがあったから」

「どうやって見つけたんだ」

 しばらく郁は無言になった。そして言った。

「何となく……消えたページにあった言葉、検索しちゃった」

「見るなって言っただろう!」


 郁は一言もなかった。

 だが相変わらず、これは郁の病巣だった。同類だった。だから目を塞いだ指の隙間から見てしまった。


 そして移転したと思われる、(推定)リニューアルページには、(推定)郁の様子が以前によりも細かに書き記されていた。相変わらず、郁と断定できないぎりぎりの表現が使われていた。

「また殴ってやる」

「聞いて。柳川くん、大学やめたのよ」

「やめた? どうして」

「事件のせいかはわからない」

「やめた理由じゃなくて、やめたのになんでお前を観察できるんだ」

「それもわからない。違う人かもしれない。違う人が私ではない人を見ているのかも」

「いや、これはそうとしか思えんだろ……」

「でも、確かめることもできない」

「あいつの家に押しかけよう。あいつどこに住んでるんだっけ」

「……わからない」

 ずっとクラスメイトだったとはいえ、友達だったことはない。家に遊びに行ったこともなければ、柳川の友達に心当たりもない。


「あれから何も起きてない。家に押しかけたり、そういうことを何もしなければ、これからも何も起きない」

 郁は、自分が病巣を見続けたやましさを隠すためにそう言った。

「そんなわけいくか! 俺はお前を守るぞ!」

 そんなやりとりを、西沢は少し離れて見ていた。

 なるべく学内でも会う機会を作り、護衛のようについて歩いた。柳川が変装でもして、退学したはずの学校をうろついてるかもしれないと、キョロキョロとした。



「幼馴染を守りたいのはわかるが……」

 西沢は三人の時は黙っていたが、二人になって口を開いた。

「だって! 俺が何もしなかったら、あいつは自分を守れない」

「それも……郁ちゃんの意思だとしてもか」

「そうだ!」

「だがお前は、郁ちゃんのお前への気持ちを知ってるだろう」

「そんなのは関係ない」

「お前がしてるのは、結構残酷なことだぞ? 好きな男が、自分に恋愛感情を持たずに自分を必死に守るっていうのは」

「関係ないって言ってるだろう!」

 ずっと仲睦まじかった西沢と圭輔は、だんだんにギクシャクし始めた。


「ねえ。西沢くんと喧嘩してる?」

「してねえよ」

「さっきもひとことも口を利いてないし、空気が険悪だし」

「してない」

「私のせい?」

「関係ない!」

「やっぱり喧嘩はしてるんだ」

「うるせえ、黙ってろ」

「私を守らないで。私なんかのせいで二人が絶交でもしたら、あんなブログを書かれるよりもっと悲しいわ」

「黙れと言っている……」

 そこまで圭輔が言った後、郁は圭輔を持っていた鞄で殴った。

「馬鹿にしないで! 私知ってるのよ! けいちゃん、西沢くんと愛し合ってるんでしょう!?」

 圭輔の顔が青ざめた。圭輔は言葉を出せなかった。〝なぜそれを……〟などと言ったら完全に肯定の言葉だからだ。

「じゃあ聞くけど! 俺がお前を好きだったら、お前を守れるよな!」

 そう言って圭輔は郁を抱きしめ、強引に唇を奪った。


 郁は圭輔を振りほどいた。

「人を馬鹿にするにもほどがある――!」郁の目から涙が流れた。

「馬鹿になんか――」

「帰って」郁は涙声ながら力強く言った。「西沢くんの元に帰って!」


 この郁と圭輔の言い争いは、むろん人通りの少ない場所で行われた。誰もこの喧嘩を見た者はいなかった。ただひとりの人物を除いては――。



 郁に触れた唇で西沢に触れることは罪悪感の塊だった。そして、それが圭輔にとって初めて触れた女性の唇だった。

 その日、圭輔は西沢と、何一つ楽しむことができなかった。そして、その日、は次の日、になり、それ以降も続いていった。


 女性の唇の感触というのが、ずっと圭輔の心の中に引っかかり、それが次第に大きくなっていった。

 ずっと同性愛者だと思い込んでいた自分は、実は両性愛者なのだという考えが、圭輔の中で少しずつ大きくなっていった。


 そしてある日、ずっと楽しむことができなかったある日、圭輔は西沢に別れを告げた。

 いざ別れると決まってしまうと、最後には楽しむことができた。

 二人は泣きながら抱き合った。

 別れると決まってしまうと、ギクシャクした感情は消え、そこには愛情しかなかった。


 最後に、二人は握手をして、ぎゅっと手を長い時間握りしめ、

「それじゃあ」と背中を向けて、圭輔は歩き始めた。

 西沢はその背中をずっと見送っていた。

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