20 この愛は決して肯定してはならない
飯食いに行くか、と圭輔が幸視に言い、しかしそれは近所ではなく、電車に乗って街まで繰り出すようなところだった。
「久々に来たけど、店はいくつか入れ替わってるな」地下街を歩きながら圭輔は言う。
「ここに母さんと?」
つまりこれは、圭輔の言う〝たまに思い出話に付き合ってくれれば〟というわけだ。
「見覚えはあるか?」
「よくわかんない……まだ降ってきてない記憶かも知れないし……あ、」ある一角に幸視は目を向けた。「ぬいぐるみショップがなくなってる」
「そうそう! ここで立ち止まって、ずいぶん気になっていたよな。予約に遅れそうでやきもきした」
「潰れちゃったんだねぇ」
「ぬいぐるみ一辺倒っていうコンセプトはなあ。夢はあるけど、やっていけなかったんだろう」
確かに幸視は、圭輔と記憶を共有している。それが確認できたのは嬉しいことだった。
レストランはとてもお洒落なイタリアンだった。たしかに店構えも幸視は覚えがあった。
「ここは変わらないな。懐かしい」
中に入るとばあっと記憶が蘇ったりするかと期待したがそうはならなかった。むしろ初めて見る内装の綺麗さに幸視は興味を惹かれた。
「美味しい……!」
父親に外食に連れて行ってもらうことはよくあるが、ラーメンなどといった子供にもウケやすいものが多く、感激するレベルの味だった。
「この味だよなぁ……」圭輔の顔もほころんでいる。
「あの……ごめんなさい。思い出せなくて」
「まだ記憶が来てないところかな」
「外までは来てたんだけど」
「今までだって時系列じゃないんだろう?」
「うん」
「じゃあそんなこともあるさ。ここで――」
「プロポーズしたの?」
「思い出したか」
「いや、母さんの写真の前で話してたの聞いたことがある」
「そっか。実は今日は結婚記念日でな」
「そうだね」
圭輔は思い出したか、と訊こうとして、またいいや、と言われそうでやめた。実際、特に結婚記念日を隠していたわけでもなく、幸視が息子として知っていてもおかしくはない。
「母さんは、泣いたよ」
「嬉しかったんだね。どんな言葉で?」
「思い出すまで待たなくていいか」
「うん」
「『あいつから、もっと君を守らせてほしい』って、ああ、あいつっていうのは……」
「柳川って人のこと?」
「そこは思い出してるんだな」
「うん」
「このへんはちょっと嫌な話だから、お前も記憶が増えるたび辛いだろう」
「正直ね。でも仕方ないし、終わったことだし、全貌がわかったほうがいい」
「ああ。で、ようやく、あいつも諦めたのか、結婚を機に特に何をするでもなく、終わったんだ」
「終わった?」
「そこの記憶もまだか。例のブログがな……」
「消えた?」
「いや」
「更新が途絶えた?」
「いや。更新もされていた」
「ええ……」
「ただ、母さんに関する記述が消えたんだ。その代わり、意味のわからない、支離滅裂な文章になっていった」
それは、幸視の想像以上に嫌な話ではあった。というか、幸視が自分で思い出す前に予告されたので、むしろショックは少なかったかもしれない。
「頭がどうにかなっちまったのかもしれないな……その点は可哀相な奴ではあるんだが、しかし同情はできない」
圭輔はワインが回り、頬が赤くなってきた。
「ねえ。父さん。支離滅裂な文章ってどんなもの?」
「さあ……支離滅裂だからさっぱり覚えられないけど……母さんぼくはこんな風になりたくなかった、とかいうのは比較的意味がとれたかな。そんな感じのやつ。あいつマザコンだったのかね」
質問をしておきながら幸視は相槌も打たず、料理を口に運んだ。
「なあ。お前は親なんか関係なく、自分の道を生きろよ」
圭輔のその言葉は、柳川みたいに親に依存するなという意味なのか、親の記憶を背負わされようが関係なく生きろよという意味なのか、幸視にはわからなかった。
酔いがかなり回って、どちらか自分でもわかっていないのかも知れなかった。
幸視は、帰宅するとスマホで検索をかけた。
〝母さんぼくはこんな風になりたくなかった〟
ひとつひとつの単語は平凡な語しかなくても、それが連なれば特定できる。圭輔が酔っていなかったら聞き出せなかったかもしれない。そのブログはまだ存在していた。
見るべきものではなかったのかもしれない。だが、幸視は自分の母親と同じように、自分の病巣を見たのだ。やめたほうがいいから、見るべきでないから、見るのをやめられるものではなかった。
そのブログは、異様な雰囲気を放っていた。確かに圭輔の言うように、具体的な女の子の描写が続き、その描写が途中から途絶えている。既に降ってきた記憶にある文章もあるが、後半は全く、まだ降ってきていないものだった。
だがこれは……。
果たして発狂、というのだろうか。たしかにだんだんと異様、にはなってゆく。人としてあるべき姿から、歪んでいくのはわかる。
だが、これは発狂、ではない。
異形、だ。
幸視にはそう受け取れた。たぶん、人によって受け取り方は全く変わって、発狂と取る人の気持ちもよくわかる。
そしてこれは、極めて異形の――あいのうた、だ。
もちろん、この愛は決して肯定してはならない愛だ。
確かに論理に基づく文章ではない。国語の授業で〝説明文〟として受けたものとは全く違う。
文章の全体が病巣だった。今もネットに生きている病巣だった。
病巣というのは必ず――血が通っているのだ。
毛細血管が組織に入り込み、赤血球が酸素を絶え間なく送り続け、逆の立場からは細胞は酸素を絶え間なく搾取し続けている。組織のひとつひとつが叫び声を上げている。愛と痛みに満ちることだけが唯一の感覚として残っている。他の全ては失ってしまった。
幸視は、URLを広田に送り、これが何なのかの説明と共に、これをどう思うか感想を聞いてみた。
しばらくして、後半が支離滅裂で発狂している、という反応が来た。これが普通の感覚かもしれないと幸視は思った。そして感想よりも長く、幸視をいたわる優しい文章が添えられていた。
幸視は絵梨にも送ろうかどうしようかと悩んだ末、感性を疑われるのが嫌で送るのをやめた。
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