16 人はやむなく結婚しない
未成熟な心では抱え切れないものを、親友に吐き出すというのは、いつの時代も行われる普遍的な行動だった。
つまりは、幸視も広田にわかったことを打ち明けたのだ。
「西沢さんってあの人か」
この前、偶然絵梨が来合わせた時に、道で会ったのが唯一の接点だったかもしれない。それでも、大事な人を覚えていてくれた広田に幸視は感謝した。
「ゲイとはねえ」
「びっくりした……」
「親父さんは?」
「え」
「あ、そりゃ話すわけないか。ごめん」
それでも父親という言葉が出て、それでまた幸視の目から涙が溢れた。
「誰も悪くない」幸視の声は震えていた。「誰も悪くないのに、目を合わせられない」
「そうか……」
広田はそれ以上継ぐ言葉も見つからず、幸視の肩や頭を撫でた。
もはや、この話題は学校でとても話せることではなかった。地獄耳がいるかもしれないし、絵梨がいなくとも、誰かに聞かれる可能性は下げておくべきだった。
ここは幸視の部屋で、祖父の代から続く古い家で、その昔、幸視の父親の部屋だった。
つまりここは、西沢と圭輔が仲良く転げ回った部屋だった。
だが広田に撫でられていると幸視は安心した。自分が同性に過敏になっていることを、広田に対しては同性であるにもかかわらず忘れることができるようになっていた。
「幸視は幸視だよ」
だいぶ経った後、広田はぽつんと言った。次の言葉を探して、そして何十秒か経って、
「幸視は、幸視が好きになった人を好きになればいい。人は、誰でもそうだ」
人は誰も、好きな人を好きになった結果、結ばれたり結ばれなかったりして、喜んだり泣いたりして、命を繋いだり繋がなかったりして、そうやって生きてきた。何代も生きてきた。
そんなことは幸視にはわかっていた。わかっていることに、心がついてゆかないから苦しんでいる。
もし、幸視が幸視の母親でなかったら、こんなに苦しむことはなかった。
その状態で同性を愛した父親に嫌悪の目を向ければ、それは古典的ともいえる単純な偏見で、単に幸視の幼稚さを示す。認識を改めればよいことだ。その場合、未来には西沢と復縁する場合もしない場合もあるだろうが、いずれの場合も父親の選択を尊重すればよい。
だが実際には、日々幸視には母親の記憶が注ぎ込まれている。
もし、父親が同じ魂であるからと、その恋の続きをしたいと願ったら、それを押しとどめるふたつの事実のうちひとつが消えてしまった。もうひとつはもちろん、血縁である。
一方広田のほうは、元気づけるために言った自分の言葉と内心の矛盾に苦しんでいた。
何しろ、広田は幸視と絵梨をくっつけたくないのである。それを花崎と協力することを誓ったばかりだった。
幸視は幸視。広田がいかに押しとどめようと、幸視は幸視が好きになった人を好きになる。
二人がくっつかないためには、幸視自身が絵梨のことを嫌いになるしかない。だが心の奥深くは、広田の手の及ばない場所だ。
広田は広田で、幸視は幸視で、自分の信じるところを進むしかなかった。
「父さん」
「どうした?」圭輔はきょとんとしている。妙に真剣な目で、息子が真っ正面から見つめている。
「父さんと西沢さんは、昔……付き合っていたんだね」
「……誰から?」圭輔は、〝そんなことを〟と続けようとして、自分自身と息子の行動を同時に否定する空気を帯びる気がして、言葉をそこで切ってしまった。
「西沢さんじゃない。……あとで確かめたけど」
父親は、息子が自発的に話すのを待った。どんな言葉も、相槌さえも息子を咎めてしまうような気がして出せなかった。
「僕には……僕には、母さんの記憶が――あります」
圭輔は少し目を見開く。見開いたまま、数秒静止して、それから少し目尻が上がる。
「何を……言ってる?」
「僕は母さんの生まれ変わりです」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
「本当だよ」
それから少しの間、記憶テストがあった。西沢が知らない、夫婦の会話まで及ぶと、圭輔は目をつぶり、指先を自分の額に当てた。
そして目を開けた。
「郁!」そう言って幸視を抱きしめた。
その瞬間幸視の身体がビクッと震え、圭輔は一歩飛び退いた。
「すまない……」
幸視は、圭輔が謝るのはおかしいと思った。といって、なぜ謝るのか問いただすのも変な気がして、ただ圭輔は幸視の怪訝な目を読み取った。
「俺とお前は親子だし、そして男同士だ。すまない」
またすまないと言った。なぜ、少しも悪くない人が、謝らなくてはいけないのだろう。そのあたりに得心がいかずに、まだ幸視は怪訝な目をしていた。
「俺とお前は違う。違わない場合もあるかもしれないが、大抵の人は自分とは違う。そう考えて生きてきた。俺も、西沢も。好きになるということがあらかじめ罪を背負っている。そう思いこんでしまったりもした」
そこまで言うと、圭輔の目から涙が一筋こぼれた。
「お前はお前が選んだ道を行きなさい。お前はお前が選んだ人と歩きなさい。そうやって子供を送り出すのが、父親の務めだから。お前が選ぶ人はどこか外にいる。それが男でも女でも、俺は祝福する。そうやって人間は続いてゆくのだから。俺に対しては、たまに思い出話に付き合ってくれれば、こんなに嬉しいことはない」
「あの……父さん……」幸視は右手を差し出した。「これからもよろしくお願いします。父さん」
二人は、まるで親友同士のように握手をした。
幸視が抱きしめられたとき、怯えながらも嬉しかったことがある。
間違いなく、自分の母親は父親に愛されていたとわかったからだ。
西沢は、〝君の父さんは両性愛者だというだけだ〟と言った。その通りなのだ。二人は、何かの事情で、やむなく結婚したというものではなかった。
自分は、確かに両親が愛し合って生まれたのだ。その片方が自分自身だとしても。
それが日々注ぎ足される記憶だけでなく、実感としてわかった。
幸視は自分の部屋でひとりになり、ベッドの上に座ると、涙がひとすじ通るのがわかった。
ところで圭輔のほうは、ああ、確かに幸視は違うんだな、と納得していた。
握手という行為は、圭輔と西沢にとって、人目をはばかるときに使う、むしろ性的な手の繋ぎ方だったから。
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