13 何も奪わない

 病巣は郁の中に新しい命と共にあり、郁は命を育てつつ、病巣は命を奪い続けていた。新しい命からは特に、その巣は何も奪うことはなかった。

 新しい命は、他の新しい命が皆そうであるように、ただ一方的に与えられ続ける存在だった。ただそこに在るだけで、与えられ続けることが許される、そういう存在だった。


 特に選択肢があったわけではない。

 ただ新しい命が始まるころ、時期を同じくして与える側の命が終わる予定だった。新しい命をあきらめたら、終わる命が終わらなくなるというものではなかった。


 だから、愛ゆえに命が捧げられた、犠牲にされた、そういうものではない。

 ただ、しばしばそれは誤解されてしまった。


 郁が生きているあいだも、赤ちゃんを諦めることを勧める人は親をはじめ何人もいた。


 郁が逝ったあと、当の新しい命に対してすら、親の言うことを聞かない時などに圭輔は、お前の命と引き換えに母さんは逝ったのだ、と叱りつけたりした。そういう話のほうがわかりやすかったからだ。


 そうやって、最も近しい圭輔ですら、理解と誤解を頭の中に同居させていたのだから、当人たる郁の心もまた不安定だった。


「ねえ。私、悪い女だよね。命を宿せない西沢君からあなたを奪って、命を宿して、自分の証を残して逝こうとする」

「そんな言い方をするな」


 圭輔は郁に、残り少ない人生を笑顔で過ごして貰いたかったし、郁が悪い女だと思ってもいない。こんな自己否定に陥った物言いに辟易するでもない。

 ただ郁のためにできることをしたい。そう思った圭輔ができることは、ただそばにいることだけだった。そばにいて、そのお腹に手を当てることだけだった。未来が閉ざされた郁が、ただひとつ未来に繋がってゆく場所。意識は不連続でも、郁のいのちが繋がってゆく場所。


「動いた」

「ああ、伝わった」

「何を考えているのかしら」

「もう何か考えられるのかな」

「未来のこと」

「こころがあるのかな」

「きっともう魂は入っている」


 郁も圭輔も、霊魂のたぐいを信じている人間ではなかったが、片方の死が迫ってくると、だんだんと宗旨は変わってくる。ことに二人きりになると、その流れを止めたりする人も止める必要もない。

 死後の世界やら何やら、かつては何の関心もなかった世界が、ひたひたと現実の外側を膜のように覆って、ほんの少し足を伸ばせばたどり着いてしまいそうだった。


「あんなことがなければ、この子も生まれなかった。世の中は何もかも繋がっているのね」

「大丈夫だ!」圭輔は郁の肩に手を回した。「奴が戻ってくるわけじゃない」

「そんな心配はしてないわ」腕の力に抗いもせず、郁はただ語った。「みんな繋がっているという話よ。この子の未来までずっと」


 郁のこころが不安定だったのは、命が限られているというだけではなく、妊娠による一般的な情緒の波でもあった。だから絶望もすれば希望も持った。

「私、この子が大きくなった夢を見たの」それは母性に満ちた感情だった。「男の子だった。中学生くらいの。そして、クラスの女の子に恋をするの。たとえ私が生きていたって、そんなこと子供が親に教えるはずないのに、まるですぐ近くにいるみたいに、わかるの」


 恋というのは何とも甘く、純粋な、美しい感情であろう。それが歪んでしまわぬ限りは。

 圭輔は、自分が中学生だったころを思い出して自問した。



「辛いな」

 圭輔は西沢のアパートで麦茶を注がれている。

 西沢のアパートは今は大学の近くではなく、三人の実家近辺に移っている。通勤至便を口実にして、未練と受け取られないよう言いつくろって、西沢は二人を見守ろうとした。

 麦茶ではなく麦酒といくわけにはいかないのは、圭輔が嘘をつくのが苦手だからだ。

 アパートで二人で酒を酌み交わしたところで、別に二人の間には何も起こるわけではない。

 という確信は、あくまで圭輔の気持ちでしかなくて、それを説明するのは難しい。赤ら顔で帰って、どこへ行ってきたのか、誰と呑んできたのかと訊かれる可能性は、素面で帰った時よりずっと高い。

「辛いとか」麦茶でも冷たければとても美味い。「考えちゃいけない気がする。夫としては」

「あと三月か」

「ああ」

 予定日まであと三月。それは、二重の予定日だった。

「まっすぐに育つといいな」


 圭輔の頬がぴくりと動く。普通の人間なら、言葉どおりの意味でしかない。だが、そうとは受け取れない事情がある。

 〝まっすぐ〟という言葉は、圭輔が自分を両性愛ではなく同性愛と信じていた頃に使っていた言葉だった。今の郁のように、絶望したり希望を持ったりしていた。不安定な年頃に不安になる体験をすれば、心はどうしたってうねる。


 同性愛者の間ではポピュラーな符牒である、異性愛者を指す〝ストレート〟だが、ゲイ用語を使うこと自体に当時はためらいがあった。

『まっすぐに生まれてればよかったんかなぁ』そう弱気になる圭輔を西沢が慰める。そんな日はよくあった。

 その実時間が経ってみれば、圭輔は半分は〝まっすぐ〟で西沢は少しも〝まっすぐ〟ではなかった。


「いや、それは言葉通りの意味だ」付き合っていた頃も、その用語をずっと使わなかった西沢は気づくのが遅れて、慌てて訂正した。

「ああ。だが、そっちの意味では……子供にはどんな道であれ自分の信じる道を歩ませたい」

「親ならそうすべきだ。人はそう歩くべきだ」

「お前は強いよな。昔から」

「まさか。親のほうがずっと強い。俺には守るものがない」

「すまん……」

「なぜ謝る。蒸し返しはなしだと何度も話した」

「だが……やはりあれがなかったら俺たちは、全く別の人生を歩んでいたのかも」

「やめろと言っている!」


 圭輔は無言になってしまった。どう見ても西沢が正論だった。


「お前は郁ちゃんの残りの人生のために生きろ。それが終わったら、お前の子供とお前自身のために生きろ。俺は関係ない……」

「お前だって――」

「俺は好きに生きてる。だから今ここにいる。お前の友達として、今も変わらぬ友達としてここにいる。お前のためじゃなくて俺のために、俺はお前と友達なんだ」


 今も決まった相手のいない西沢の言葉を、どこまで信じていいか圭輔にはわからなかった。

 だが、少なくとも西沢とは、友達で居続けることが最善の道のようには思えた。


 ある晴れた日、街には流行を終えた恋の歌が思い出したように流れ、そしてひとつの命が生まれ、ひとつが旅立った。

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