8 恋する理由はわからない

 突然その人は誰かなどと訊かれて、幸視の頭に浮かんだのは、広田が持ってきた、絵梨は年上好き、という信憑性のはなはだ薄い情報だった。


 確かに西沢は幸視の目から見ても、かなりかっこいいおじさんだし、だとすれば絵梨が憧れてもおかしくはない。誰だか知らないのなら、ひとめ惚れということになる。そういう風に理解すると、幸視の初恋は頭の中でがらがらと崩れていった。


「父さんの友達」

「そう」


 絵梨にしてみれば、自分がなぜそんなことを訊いたのかも理解できないのに、それ以外の言葉が継げるはずもない。


「どうして?」

「……」絵梨は自分でもわからない感情を、何とか誤魔化す必要に迫られた。「――何だか、他人に思えなくて」

「ナンパみたい」

 幸視のほうはこんな憎まれ口を返すことは普段ならやらないが、瞬時の絶望に瞬時に打ちひしがれた結果といえる。


 もし花崎のような考え方をした場合、西沢に対してナンパっぽいことをしているのは絵梨ではなく幸視ということになる。だが絵梨は、花崎のような考え方をするのは癪だったので、そうすると絵梨がナンパをしているという解釈のほうがマシであった。


 だがもっと視野を広くとれば、これは女子中学生と成人男性の関係に他ならず、援助などという言葉で表現される、より恥ずかしい関係に見えてしまう。女子中学生のほうからアプローチをかける図となればなおさらである。さっさと、この手の図式から離れなくてはいけない。本題に入るべきだった。

「私あなたたちが話しているのを聞いたんだけど。田村って前世の記憶があるの?」

 幸視は顔色を変えた。そして言った。

「地獄耳……」


 会話の持って行き方としては、ますます絵梨にとって悪い方向に動いていた。悪い印象を消し去ろうとして、ますます悪い印象を持たれた。完全にストーカーか何かのようだ。

 もっと、本題を切り出す時には警戒されないよう計画を練るべきだったのに、不意を突かれていきなりありのままを話してしまった。


 しかし事態は幸視にとっては比較的良い方向に動いていた。ほとんど話すこともできなかった絵梨との接点ができたのだ。

 だが興味があるからといって、ぶしつけな接近をしてきた相手を、さすがにどうぞどうぞと受け入れることはできない。それは内心を見破られ、弱みを見せることになる。

 だから、とりあえず地獄耳という評価をぶつけるのは、正直な本音というばかりでなく、戦略としても正しかった。弱みを握られるよりもむしろ、逆に絵梨の弱みを幸視が握ったともいえるからだ。

 ただそんな視点も、もし絵梨が幸視でなく西沢に興味があるということなら、全く意味がなくなってくるのだけれど……。

 などという複雑な感情をこめた目で幸視は広田を見つめた。


「デリカシーの欠片もないね。およそ礼儀を知らない」こういう冷たいあしらい方が、幸視の気持ちを汲んだものかどうかはわかりづらかった。弱みを握るのはいいが、あまりに強く握ってしまえば単に敵対して永久に逃すことになる。

(教えてもいいと思う)幸視は広田の耳元で囁いた。


 この耳元で囁くという構図は、花崎的な発想を脳から打ち消そうとしている絵梨の心を逆撫でするのに充分であった。しかし激昂してはならないことも絵梨は承知していた。

 その結果、絵梨は二人の目の前で無言のまま目を白黒させることになり、傍から見れば奇妙な状況だった。


 広田から見れば、絵梨には少々近づきたくない、という印象だった。

 だが、幸視から見れば、好きな女の子がわけがわからないなりに意外な一面を見せるということになり、むしろ好感を覚えた。


 広田は、教えることには反対だという内心を特に口に出さなかった。結局はこれは幸視の問題で、全てを決める権利は幸視にあった。


「秘密にしてくれる?」

 こういう言い方は、まるで物語の主人公になったようで悪くない。そう幸視は思った。

 二回くらい、絵梨が首を縦に振る。

「僕は――いろんな情報を総合した結果、母さんの、生まれ変わりじゃないかと」

「お母さんの? だってそれは――」

「田村のお母さんは田村が生まれたと同時に亡くなってるんだよ」

「そんな――ごめん」

「さっきの人は、父さんの友達。だからたぶん、母さんとも友達。昔を知ってる人。その人に訊いて――坂で転んでから、ずっと見るようになった夢の内容を話して、それでいろいろ総合して、わかった」


 ここで、ひとまず絵梨の好奇心は満たされたわけだが、すると心は次の興味を探すようになる。

「男の子の中に女の子の記憶があるということよね。それってどんな感じなの?」

「やめろ」広田が制止する。「デ――」

「わからない」広田がデリカシーという言葉を発し切る前に、意外にも幸視は、語気は明確でで内容が不明確な答を返した。「この感じを、どう表現していいかわからない」

「そうなんだ。じゃあ――」絵梨の好奇心のほうは、明確でかつ奔放だった。「お父さんといる時はどんな気持ちになるの?」


「やめろ!」今度は広田が絵梨の肩に触れて後ろに押し返す。「いいかげんにしろ!」


 本来怒るべき――少なくとも広田がそう考えている――幸視のほうは硬直して、快も不快も見せようとしない。

「悪かったわ。茶化すつもりはないの。ただ私は不思議な現象のことを知りたいだけ」

「科学者気取りか」

「解き明かしたら科学者なのだろうけど――不思議なものを不思議でなくなるまで解き明かせるとは思えない。そこまで自分に自信なんかない。私はただ、知りたいだけなの。絵画を見る人みたいに」


 三人とも黙り、沈黙に耐えきれずに動いたのは広田だった。

 広田は幸視の手首を掴んで、「行こうぜ」と言って歩き出した。幸視は素直に従った。

 絵梨は二人を追いかけなかった。ただ二人の背中が消えるのを見ていた。


 二人の会話が絵梨に届かなくなった頃、広田が口を開いた。

「俺はあいつがいい奴とはとても思えない。あんなののどこがいいんだ?」

「わからない」幸視はまた明確に不明確なことを言った。「前世からの因縁――とかなら相手が違いそうだしね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る