7 恋する少女は何もしない

 郁はその日も窓辺を見ていた。窓を見ていたわけではない。窓のそばにいた人を見ていた。

「マジかそれ」

「ホントだって、コインを256枚取ると裏ステージへの入り口が」

 郁にはゲームの話はよくわからないが、その会話は気になっていた。256という半端な数字になぜ興奮するのかさっぱりわからなかった。

「また田村見てる」

「えっ!?」

「好きなのねぇ」そう郁に話しかけたのは美里だった。

「けいちゃんは幼なじみなだけで、」

「小さい頃からずっと一途にねぇ」郁は真っ赤になっていた。「とっとと告白しなさいよ……と言いたいところだけど、それは得策ではないかもしれない」

 どうして、と問い返したら、郁は美里に恋心を認めることになる。とっくにバレきっているのは確かなのだから、もうそんなことはどうでも良いのかも知れないが、それでも郁は言葉には出さず、視線でどうして? と問いかけた。

「要するにまだ恋を知らないおこちゃまだからね。ずっと西沢と飽きずにつるんでる。あいつらずっと一緒だからね。べったり」

「親友っていうんでしょう、そういうの」

「良くいえばそうだけど、二人の殻に閉じこもってるともいえる。発展性がない」

「発展性……? 何に発展するの?」

「正直私も答を持っているわけじゃないけど、コミュニケーションは広く取れる能力を磨いておかなければ大人になって困るのよ」

「どう困るの」

「少しは自分で考えなさい、郁」美里は少々説教気味だ。「まさか、将来の夢は田村のお嫁さんになって専業主婦とか言わないでよね、今どき」

 郁は図星を指されて美里から目を逸らす。その外した視線は無意識にまた田村圭輔のほうに向き、美里は呆れるように息を吐いた。


 だが、郁は美里が思っているほど引っ込み思案で受け身の性格というわけではない――ということを、証明しようと奮い立つ瞬間がたまにあった。常にはなく、たまにしかないので、おおかたは美里の見立て通りだったのだが。

 郁は圭輔が西沢と下校する後をつけた。

 ――その日はつけただけだった。圭輔の住まいは幼なじみだからよく知っていて、それを確かめようというのではない。西沢の住まいは知らなかった。圭輔と西沢がどこまで一緒に歩いてどこで別れるかだけ見届けようと思った。が。


 別れない。それどころか、圭輔は自分の家への道のりからずれてゆく。

 ある家に二人で入り、それで西沢の住まいが知れた。表札を見ても間違いはない。

 いったん家に帰らず、直接西沢の家に遊びに行くとは……。そりゃあ本人の自由だし、郁ががっかりしたところで、何にがっかりしたのかもよくわからない状態ではあった。二人でテレビゲームにいそしむのだろうか。


〝まだ恋を知らないおこちゃまだからね〟

 美里の言葉は郁にはよくわからなかった。では、片想いとはいえ恋を知っている郁は大人と言えるのか。そんな気はしないし、美里自身も郁を大人とみなしているとはとても思われない。

 恋を経験の有無が、成熟の度合いを決めるという発想自体が不可思議だった。


 後をつけた顛末を郁は美里に報告した。上司のように思って報告の義務を感じたというわけではなく、内気で臆病な人間であるという評価を払拭したいという思いだった。

 しかし。

「すると告白するタイミングがなかったわけね」

「えっ!?」

「えっ、てどういう」

「そんなつもりじゃ」

「しないの!?」

「そうも言ってないけど……」

「世の中には告白するというのと告白しないという二つのコースしかないわ。どちらもやらないというのは論理的にあり得ない」

「いや、理屈はそうだけど、そんな話じゃ。論理とか言うなら、美里ちゃん、得策じゃないとか言ってたじゃない」

「でも後をつけるほど想いが強いなら、郁なら勝算は高いと思うわよ? 女の私が言うのもなんだけど、郁、可愛いし」

「え、そんなこと」

「いいもの持ってるんだから、行動さえ起こせば人生は薔薇色なのよ。郁の場合」

「美里ちゃんのほうが可愛いと……」

「きちんと自分を知りなさい。街を歩けば時々危ない目に遭うんじゃない? 私と違って」

「そりゃ、知らないおじさんにジロジロ見られたりすることは時々あるけど、誰だって」

「私は無いのよ。そこが私とあなたの違い。謙遜しとけばいいってもんじゃないの」


 こんな感じで、評価を払拭するどころか、逆に発破をかけられてしまった。


 何もしないまま数日が過ぎた。

 恋に対して何もしないのは郁の日常だった。つまりは美里には全て見透かされている。さりとて、郁にも自我はあり、何もかも美里の言いなりに動く気はしなかった。美里の言葉は、かえって郁を動かさないほうに作用した。


 その日も郁は何もしないで帰ろうと門扉を出て、しばらく歩いているうちに違和感に気づいた。

 何か、変な気配がしないか? 郁は足をわずかに速めた。

 だが気配は消えない気がする。郁は小走りになった。気のせいか。気のせいなのか。


 角を曲がったところで人にぶつかり、そのままその先にいた人と将棋倒しになった。ぶつかった人は、その先の人に覆い被さり、何やら変な格好になった。そして郁の鼻先には、ぶつかった人の臀部がある。臀部の奥の顔面が振り向いた。

「郁かよ」

「永野か、大丈夫?」押し倒されたほうは西沢だった。圭輔のそばにいる人物といえば、顔を確かめずともわかったかもしれない。

 郁が最初に見たものが圭輔の尻とわかって郁は真っ赤になった。

「あの、」不注意を詫びることもできず、しどろもどろでそれ以上郁は言葉を出せなかった。

 それを見た西沢は、まっすぐ郁のほうを見た。

 目で何かを語りかけた。それは、さっき郁が感じた気配と違って、邪悪さがなくて、しかもはっきりしていた。そして、

「俺、先に帰るわ」

「え」

 圭輔の反応に、西沢は圭輔のほうに視線を返さず、もう一度郁のほうを見て、そしてすぐに立ち去った。

 西沢は美里と同じようなことを考えているのではないかと考えた。

 しかも西沢は美里と違って、少しも指導してやろうなどという態度を見せない。厭味がない。


 美里に促された時とは違う、素直な気力が郁の中に湧いてきた。

「あの、私!」そしてもうひと呼吸した。「けいちゃんのこと、好き、だから」


 爆発しそうな心臓を胸に、郁がぎゅっと瞑った目をひらくと、さっきの臀部のかわりに頭頂部があった。

 圭輔が、九十度近くまで腰を折り、頭を下げていた。


「ごめん!」郁はその後の言葉を絶望しながら聞いた。「俺、好きな人いるから! ほんとごめん!」


 そう言うと、すぐに背を向け、西沢よりさらに素早く圭輔はその場を立ち去った。

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