4 恋はせつない だがまだ何もない

「あ、西沢さんが来るんだ」

 幸視の父親の子供の頃からの友達で――割と照れずに、親友、という言葉を父親は使っていて――幸視のこともかわいがってくれる人物だった。


 親友、というのは、幸視にとって、ある種恥ずかしさもあり、憧れもあるような言葉だ。

 たぶん広田はそう呼んでもいいのかもと思ってはいるが、実際呼んだことはない。



 西沢が手を合わせる指先がぴんと伸びている。

 線香の匂いがすう、流れて、ああこの人は幸視の母親のことも知っているのだ、と知れる。来るときの通過儀礼みたいに、何度も手を合わせているのだからとうの昔にわかっていても良さそうなのに、何やら今までは実感を持っていなかった。だが恋というものを知り始めてようやく、もしかして父親と西沢は母親を取り合ったりしたのではないか、などと、三角関係とか漫画で覚えた言葉が幸視の頭に浮かぶようになった。もちろん、おいそれと訊けるような話ではない。


「もう二十年か」


 誰に向けられた言葉でもなかった。もちろん幸視にでもなく、幸視の父親にでもない。ほんのかすかな声だった。それがたまたま幸視に聞こえてしまった。仏壇に向けられた声だったのか。


 二十年という数字はよくわからなかった。幸視の母親が死んでからの年数を数えるのはたやすい。幸視の年齢と全く同じだからだ。それより前ということは、結婚のタイミング? とか? さすがに、息子である幸視は、出産の何年前に結婚したかなど把握していなかった。


 たとえば結婚のタイミングであるとすれば、ついさっき幸視が想像した、母親を取り合ったという光景が生々しくなってくる。二十年……。


「この前幸視が歌を口ずさんでいて笑ってしまった」

 ビールをひと口通らせた口で幸視の父親は言った。ついであの歌を口ずさむ。まるで自分の下手なところまで物真似をされたかのように感じて幸視は少し気を悪くした。

「懐かしい。あの頃、どこへ言ってもかかっていたな。どこで覚えたの幸視くん」


 これは父親が訊かなかった質問で、どう答えるかの用意はなかった。

「え、」と一瞬口ごもり誤魔化そうとして「どこかで、聞いた」

 とかそんな風に答えた。

「TVとかの懐メロ特集とかかな。今はネットもあるか」西沢は勝手に想像してくれた。「いい歌だよな。切なくて」

「うん」

「恋ってのはさ、だいたい切ないんだ。若い頃は特に」西沢はお酒が入って口が軽くなっているようだった。「幸視くん、好きな人いないの?」

「おいおい、人の息子捕まえて……」父親が割って入った。「親とか、大人とかは、子供にそういうこと訊いちゃいかんと思うのよ。俺たちだって……」

 俺たち? 想像した三角関係に意識が行ってしまう。父親のほうも口が軽くなったのか。

「ああ、そうだな。すまん、圭輔」


 恋は切ない。と言えるところまで、幸視の恋はまだ行っていない。まだ想うだけで何も起こっていない。TVなどで見る、恋愛ドラマなどのてんやわんやの先に、〝せつない〟があるのかどうかも幸視にはまだわかっていない。

 今の幸視の興味は、恋よりも二十年前というキーワードだった。


 幸視の父親がトイレに立った隙に、

「ねぇ。西沢さん。今度、二人だけで相談したいことがあるんだ」

 恋の悩みだと想われる展開だ、と幸視にも気がついた。

 だが幸視の父親に釘を刺されたばかりの西沢は、わかった、とだけ言った。



「二十年前なんだけどね」

「二十年前?」

「その前に夢の話を」

「なんだかよくわからないな」

 西沢の家に押しかけて最初の問答から、そりゃあわけがわからないのも無理はない。幸視にしても、どこから切り出していいか迷っていた。

「夢を……夢を見るんだ。そしてあの歌が流れていて」

「どこかで聴いたのを覚えていたんだね」

「知らない歌なのに?」

「人間の脳は不思議なもんだ。自覚をしていないものを覚えてしまうことがある」

「女の子が、けいちゃんを、けいちゃんっていう人を、好きで。そんな夢を繰り返し見る。それが二十年前の誰かの出来事なんじゃないかって」

 西沢の眉がぴくりと動いた。

「……どうして俺に?」

「父さんなら僕を病院に連れて行くでしょう」

「俺なら連れて行かないと思った?」

「だって他人だから」

「賢いな。そのとおりだ。他人以外の何物でもない」

「他人で二十年前をよく知っている人」

「そんな人はたくさんいる。学校の先生とか」

「学校の先生なら親に通報する」

「君がよく考えていることはわかった。だがそれだけじゃまだ雲を掴むような話だ。情報が足りない。その女の子についてもう少し」

「その女の子が、僕なんじゃないかって」

「え?」

「その……生まれ変わりとか、そういうの」

「そうじゃなくって、特徴とか」

 生まれ変わり、という言葉を出すのも勇気が要った。やっぱり病院に連れて行く、と言われるかもしれないところ、すっと流してくれた西沢を幸視は信頼した。

「髪は……肩ぐらいまで。髪にリボン型のアクセサリーが……リボンじゃないときもあった。花の形。ひまわりだったり朝顔だったりした。流れ星だったこともあった。格好は制服のこともあったし私服のことも。赤いセーターとか、あとピンクの靴がお気に入り」

「結構観察してるな。けいちゃん、のほうは」

「……よくわからない……制服だけだったかな……」

 幸視は、自分ながら何て違いだ、と苦笑した。もし本当に幸視がその女の子なら、好きな相手のことにやたら詳しくなりそうなものだが、自分自身への関心に敵わないということだろうか。


「若干、心当たりはある」西沢の言葉に幸視の心臓が鳴った。「けいちゃん、という名前、君も心当たりがないか」

 幸視は頭をひねった。ひねろうにも、二十年前のことなんか知るはずがない。ひねろうにもひねれず、ただぼんやりしただけだった。

「圭輔だよ。君の父親だ」


 幸視はえっ、と声をあげた。そして浅い呼吸をした。

 どうして気がつかなかったんだろう。こんな身近に〝けい〟の名のつく、二十年前にも存在した人がいるのに。


「だとすると、その女の子は郁ちゃんかもしれない。そんなアクセサリーを持っていた覚えがある。君の母親だよ」


 さらに心臓が追って打った。

 もしそうなら。


 さらに幸視がその女の子の生まれ変わりだとしたら。


 幸視は、自分の母親の生まれ変わりということになる。そんなことが、あり得るのだろうか。

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