第73話 諸国の動静と島津家の内乱
畿内で足利義晴方と細川六郎方が争っている間も、日本の各地では本年も様々な動きが起こっている。
関東では、北條氏綱が小弓公方の足利義明の間で和睦が成立していた。そのため、真里谷武田氏や里見氏も北條氏綱と停戦せざるを得なかったのである。
小弓公方などの房総諸勢力が北條氏と和睦せざるを得なかったのは、昨年の鶴岡八幡宮の戦いで、里見氏が鶴岡八幡宮を焼き払ってしまったからであった。足利義明は小弓公方になる前は、鶴岡八幡宮の別当職にあったため、このまま北條氏と継戦することは難しいと判断した様だ。
こうして、小弓公方などの房総諸勢力が北條包囲網から脱落することとなった。
甲信では、武田信虎が、足利義晴が近江国へ逃れて間もなく、使者を派遣している。
足利義晴は、武田信虎に対して、4月27日付の御内書で上洛を要請した。そして、6月19日付の御内書では関東管領の上杉憲寛、諏訪頼満、木曽義元と言った信濃国に勢力を持つ大名たちに対して、武田信虎の上洛への助力を命じている。
しかし、武田信虎は、信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により、6月3日に信濃国へ出兵していた。武田信虎の出兵に対して、佐久郡の国衆の大井氏などは、和睦を受け入れたそうだ。
武田信虎は、足利義晴から上洛要請があり、諸大名へ上洛助力の御内書が発給されたものの、上洛する様子を見せなかった。
駿河今川氏では、昨年の6月に、守護の今川氏親が病死したことで、今川氏輝が家督を継いでいる。
しかし、今川氏輝は14歳であったため、生母の寿桂尼が、駿河今川氏の国政を取り仕切っていた。
寿桂尼は、駿河今川氏に嫁ぐ際に、父親の中御門宣胤から与えられた「歸」の印判を用いて公的文書を発給しているそうだ。
寿桂尼が駿河今川氏の国政を取り仕切り、印判を用いて文書発給をしていることから、「尼御台」と呼ばれているらしい。
駿河今川氏は、寿桂尼が国政を取り仕切っている間は大きな動きを見せることは無いだろう。
中国地方では、相変わらずの様に尼子氏と大内氏が争っている様だ。
尼子経久は、山陰地方東部を支配したものの、備後国の守護でもあった山名氏と戦っていた。
そのため、大内義興は、石見国における勢力を奪い返すことに成功している。大内義興は、更に北九州の少弐資元らとも戦い、有利に戦況を進めていた。
しかし、備後国は北から尼子経久が進出しすると、西から大内義興の命で大内軍を率いる陶興房が侵攻してきた。そのため、備後守護である山名誠豊の支配が衰えることとなった。
こうして、備後国は尼子氏と大内氏の争奪戦の場となったのである。
今年には、尼子経久自ら備後国へと兵を出兵させたものの、陶興房率いる大内軍は、細沢山の戦いで尼子軍を破った。そのため、尼子方であった備後国人の大半が大内氏へと寝返ってしまう。
以後、大内義興は山名誠豊や山内直通などとともに尼子氏に対抗していくこととなる。
薩摩国の島津家では、家督を巡る内乱が勃発していた。
薩摩守護であった島津忠兼は、義兄で有力分家の薩州家当主である島津実久を後ろ盾として、薩摩国を統治していた。
しかし、島津実久の専横を苦々しく思う様になった守護の島津忠兼は、英明の誉れ高い相州家当主の島津忠良(日新斎)に支援を求める。島津忠良は、島津家の国政委任を引き受けた。そして、11月27日、島津忠良の長子である虎寿丸(島津貴久)は、島津忠兼の養嗣子となり、島津宗家の次期後継者となったのであった。
今年の4月、島津忠兼は元服した島津貴久に守護職を譲ることにした。そして、実父である島津忠良に島津貴久の後見を依頼する。こうして、島津貴久は守護所である鹿児島清水城に入って、正式に家督を継承したのであった。
島津忠兼は、自らは出家して、島津忠良の本領である伊作に隠居する。前守護の隠居を見届けた島津忠良は、33歳で剃髪し、愚谷軒日新斎と号した。
島津日新斎は、私が送った書状で書いた、家督を継いだら早急に中央へ使者を送るべしと言う提案を受け入れてくれた様で、実際に都の近衞家へ朝廷と足利公儀への仲介を求めて使者を送ってきたのだ。
島津日新斎の使者からの要請に、私も口添えしたことで、父は足利義晴に執り成したため、家督継承はすんなりと認められた。島津貴久は島津宗家当主として守護に任じられ、御内書を発給されたのである。
朝廷からも島津宗家の官位である陸奥守の官位を賜っており、中央政界では島津宗家の当主として認められたのであった。
しかし、島津日新斎の使者が畿内で活動している頃、宗家である島津奥州家の家督を狙っていた薩州家の島津実久は、島津貴久への家督譲渡に不満を持ち猛烈に抗議をし始める。そして、島津忠兼と島津貴久との養子縁組を解消させようとしたのだ。
それに加えて、島津忠兼本人も島津貴久に守護職を譲ったことを後悔し始めていた。そのため、5月になると島津忠兼は悔返を言い出すようになる。
この島津宗家を巡る家督争いは、実際のところ、守護である忠兼と先代当主であった兄(忠治・忠隆)の時代からの老中(家老)との間で対立していたことが原因だった様だ。
島津忠兼は、自分に近しい者を老中として登用していた。島津忠兼と島津貴久の縁組を推進したのは、島津日新斎の支援で宗家の立て直しを図ろうとした忠兼が登用した老中たちだった様である。島津忠兼が登用した老中たちの働きかけが大きく、島津貴久との縁組は、忠兼の積極的な意思ではなかった。
島津日新斎寄りの老中に対して、島津忠兼に罷免された古くからの老中たちは、島津貴久との縁組に反対して、島津実久と結んだのが実情の様である。
6月5日、島津実久は、島津日新斎と島津貴久親子に対して、加治木地頭の伊地知重貞、帖佐地頭の日新斎の姉婿である島津昌久に兵を挙げさせる。挙兵した伊集院重貞は、島津忠兼以前からの本宗家の老中であった。
島津実久は、古くからの老中たちと結託し、武力によって島津日新斎親子を排除し、実権を握ろうと実力行動に出たのである。
6月7日、島津日新斎は直ぐ様、自ら討伐に赴き乱を鎮定する。この間、島津実久は、舅の川上忠克を島津忠兼の元へ派遣し、守護職復帰を説かせた。島津実久の挙兵を見た島津忠兼は、一転して考えを変え、守護職の悔返を図る。そして、自らの政治的権力の回復に乗り出したのであった。
また、島津実久は出水・串木野・市来の兵を率いて相州家方の所領である伊集院一宇治城と日置城を攻略する。更には、加世田・山田の兵で谷山城をも攻略したのであった。
島津実久は、鹿児島清水城にいた貴久に守護職の返上を迫る。島津貴久は窮地に陥ったことで、死を以て城を守る気概であった。
しかし、園田実明の進言を受け入れて、6月15日に僅か8人の家臣と共に夜隠に紛れて鹿児島を脱出する。そして、田布施の亀ヶ城に逃れたのであった。
6月21日、島津忠兼は、島津実久に迎えられた。そして、島津忠兼は還俗すると名を勝久へと改めた。
その後、島津勝久は、伊作から鹿児島へ移ると、島津貴久との養子縁組を解消し、守護職の悔返(譲渡の無効)を宣言する。こうして、島津勝久は再び守護職に復帰することとなったのであった。
7月23日、島津日新斎は、島津勝久の隠居城となっていた、伊作亀丸城を攻める。伊作亀丸城は、島津勝久の家臣たちが守っていた
ものの、翌朝には陥落させ、自身の居城として奪還したのであった。
こうして、島津家は家督を巡る内乱状態となり、不利な状況となった島津日新斎は、自領の防備を固めることに専念する。島津日新斎は、三州の情勢を観望し勢力を蓄える事と選んだのであった。
各地で絶え間ない戦乱が勃発しているものの、東国では落ち着きを見せ始めている。戦乱が激しくなりつつあるのは、西国の方の様だ。
史実通り島津家で家督争いの内乱が勃発しているからな。私が推している島津日新斎に少しでも有利になる様に、早期の使者派遣を提案を受け入れてくれたことで、中央政界では島津貴久が島津宗家の当主として認められている。
そのことが、島津家の内乱にどの様な影響を及ぼし、史実とどう変わるかを注視していく必要があるだろう。
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