第72話 抹茶ラ・テ

 朝倉宗滴が近衞家を訪れた頃、京の都の治安は一時的に回復していた。この機会に、私は都で関わりのあった人々に対して、比叡山延暦寺へ出家する旨を伝えている。

 細川六郎方も動きを見せており、私が都を出立する間際に、別れの挨拶が出来るかどうか分からない。そのため、今の内に別れの挨拶を兼ねて、方々を回っているのだ。

 しかし、祖父と父が私を公家社会に、なるべく関わらせまいとしていたため、別れの挨拶をしなければならない人物が、多くないのは助かったと言えるだろう。



 私は、学問の指南を受けている三條西実隆にも、比叡山延暦寺へ出家することを伝えていた。

 しかし、三條西実隆は高齢であるため、今生の別れとなる可能性が高い。そのため、三條西実隆を近衞家の屋敷に招き、茶を御馳走することにしたのだ。

 私は、三條西実隆から学問だけで無く、茶も学んでいた。茶の師である三條西実隆を饗すだけで無く、ある企みを抱いて招待している。


 三條西実隆が近衞家の屋敷に到着すると、私が茶を用意した部屋へと案内させた。三條西実隆だけで無く、祖父の近衞尚通にも参加してもらっている。祖父も高齢であり、私が都を離れたら、二度と会うことが出来ないかもしれないからだ。

 祖父は既に部屋におり、三條西実隆が入室すると挨拶を交わしていた。

 三條西実隆が着座したので、私も挨拶を交わす。公家社会の一流文化人の二人を招いて、少し緊張している。

 本日の茶席で使っている道具は、全て近衞家にある物であり、三條西実隆に失礼の無い物を使っていた。

 三條西実隆に習った通りの作法で、茶を点てていく。祖父など家族には何度か練習で茶を点てていたものの、今日は祖父の目も厳しい。

 一通り茶を点て終えた頃には、三條西実隆は目を細めていた。祖父の目も柔らかなものとなっており、一応は及第点の様だ。


「逍遥院殿のお陰で、多幸丸も茶を点てられる様になり申した。有り難く思いますぞ」


 祖父は、私がマトモに茶を点てられる様になったのは、三條西実隆のお陰だと感謝している。祖父の礼に対して、三條西実隆は謙遜している。

 しかし、私が茶を点てられる様になったのは、三條西実隆に教えてもらったからなのは事実であった。



 茶を一通り点て終えると、私は家僕に釜を代えさせる。釜の中には白い液体が入っていた。釜の中身は牛乳である。釜が温まってくると、部屋の中は牛乳を温めた独特の匂いが漂う。


「多幸丸、その釜の中身は何じゃ?湯では無いではないか」


 祖父は部屋の中に漂う牛乳の香りを訝しみ、私に釜の中身を問う。


「釜の中は、牛の乳にございます」


「「牛の乳!?」」


 私が釜の中身は牛乳であると告げると、祖父と三條西実隆は驚く。


「牛の乳で茶を点てると申されるのか……?」


 三條西実隆は、私が牛乳で茶を点て様としていることに気付き、戸惑っている。その身体は少し震えていた。


「御二方とも公家なれば、牛の乳を嫌うことはありますまい?武士に出したならば、嫌がられるやもしれませぬが」


 私は、公家である二人ならば、牛乳に抵抗は無いだろうと尋ねる。平安時代には、牛乳は公家たちの薬として、乳牛院と言う朝廷の部署で生産されていた。そこで生産された牛乳で、蘇や酪などの乳加工品を作り、公家たちは好んで食していたのだ。

 私たち摂家の祖である藤原道長も蘇を好んで食べていたと伝わっている。戦乱や武士の台頭によって、牛乳が生産されることも無くなり、今では公家たちの間で食されることは無い。

 武士たちも牛乳を嫌っていたことも一因なのかもしれない。なので、私は武士に出したら嫌がられるだろうと述べたのだ。

 しかし、公家たちにとっては、かつての栄華を極めた頃に、好んで食されていた憧れの食材なのである。


「牛の乳を嫌うことなどあるまい。されど、蘇や酪にするでも無く、牛の乳で茶を点てるなど……」


 私の言葉に対して、祖父は抵抗は無いと答える。しかし、乳加工品である蘇や酪では無く、茶を点てることは、戸惑いを隠せない様だ。

 私は、御二方の戸惑いを気にすること無く、牛乳で茶を点てる。

 そして、三條西実隆の前に、牛乳で点てた茶を出す。三條西実隆は戸惑いつつも、茶碗を手に取る。その手は僅かながらに震えていた。それは、憧れの食材に対する感動なのか、異端の茶への戸惑いなのかは、三條西実隆にしか分からない。

 三條西実隆は、茶碗を口元に運び、茶を口にする。


「甘い!?」


 三條西実隆は、茶を口にすると、甘いことに驚いた様だ。私が作ったのは、抹茶ラ・テである。普段、驚くことの無い三條西実隆が驚いた様子に、私は心の中で笑ってしまった。

 驚き呆然とする三條西実隆の様子に、祖父は戸惑っている。祖父も、三條西実隆が驚いた姿など滅多に見たことが無いのかもしれない。

 暫し呆然としていた三條西実隆であったが、正気に戻ったのか、祖父に茶碗を回す。

 茶碗を手に取り、茶を口にした祖父は、三條西実隆と同様の反応を示した。


「この茶は一体、何なのですか…?」


 御二方が落ち着いたところで、三條西実隆が、私にこの茶は何なのかと尋ねる。


「御覧いただいた通り、牛の乳で茶を点てたものにございます。されど、砂糖を加えておりまする。美味でございましたでしょう?」


 私は、御二方に抹茶ラ・テについて説明する。美味かったでしょうと御二方に問い掛けると、両者とも頷き同意していた。

 この時代、甘味は貴重であるから、当然だろう。祖父や父など、商家から贈られた貴重な砂糖を隠れて食していると耳にしたことがある。


「この牛の乳と砂糖はどうしたのだ?」


「堺の商人の倅で、都で連歌師を称している武野新五郎と言う者の伝手で手に入れたのでございます」


 祖父は、私に牛乳と砂糖の出処を尋ねた。私の返答に対して、三條西実隆が驚く。私が三條西実隆に武野新五郎を紹介してから、両者の交流は続いているのである。

 私は三條西実隆と祖父を驚かすため、抹茶ラ・テを作りたかった。そのため、牛乳は屠殺を生業とする河原者の伝手で何とか手に入れてもらい、砂糖は堺の商人の倅である武野新五郎に頼んで手に入れてもらっていたのだ。

 材料を手に入れてから、抹茶ラ・テの完成度を高めるため、何度か自作していた。前世では抹茶ラ・テを好んで飲んでいたので、それなりに上手く出来たと思う。

 牛乳の温度の雰囲気や抹茶と砂糖の調合など、実際に作っては飲んでを繰り返して、前世で飲んだ抹茶ラ・テに近付けたのだ。


「武野新五郎に頼めば、この茶を点てることが出来るのでございますな…」


 三條西実隆は、武野新五郎に頼めば抹茶ラ・テの材料が手には居ると知り、不穏なことを呟いている。

 御二方は茶の御代わりを求めてきたので、再び茶を点ててお出しした。


「牛の乳で点てた茶が、これほど美味であるとはな。砂糖が加わり、甘いことで、牛の乳と茶のどちらも引き立てておる」


「左様にございますな。よもや、生きている間に牛の乳を口にすることが出来るとは…」


 漸く心が落ち着いたのか、祖父が感想を述べる。三條西実隆は古典や公家文化の第一人者であるため、感動してしまっている様だ。


「多幸丸よ。何故、この様な茶を点てようと思ったのだ?」


「三條西逍遥院殿と祖父上は御高齢なれば、比叡山延暦寺に赴いた後は、見えることが叶うか分かりませぬ。御二方が健やかに過ごせることと長寿を願って、薬である牛の乳と砂糖を用いたのでございます」


 牛乳、砂糖、茶の何れも薬扱いされている。三條西実隆と祖父の長寿を願ってと答えると、二人とも少し感動した様子であった。

 抹茶ラ・テの摂り過ぎは良くないものの、適量なら身体には良いだろう。


「また、この牛の乳で点てた茶は、私の望みも込めております。牛の乳、砂糖、茶はの何れも異国より齎された品々。異国の物を取り入れ、日ノ本に合わせてきたのは朝廷にございます。されど、嘗ては朝廷で愛されていた牛の乳は、武士の世になってからは嫌われてしまいました。この牛の乳で点てた茶は、朝廷と公家を現した物にございます。この茶を公家の多くが飲める世が訪れて欲しいと言うのが、私の望みであり、御二方に知っていただきたいと思い、点てさせていただきました」


 私の言葉に、祖父と三條西実隆は感動してしまった様で、言葉に詰まっていた。公家たちが好む異国からやって来た物を混ぜた訳であるから、公家の好みであるのは確かだろう。


 その後、祖父と三條西実隆は抹茶ラ・テを褒めそやし、語り合い始める。そして、武野新五郎に頼めば、私がいなくても飲めることに気付いた様だ。武野新五郎は呼び出されて牛乳と砂糖を用意させられるに違いない。

 武野新五郎よ、すまん。だが、頑張ってくれ!

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