閑話 日明貿易と寧波の乱
8月に入り、寧波の乱について、足利公儀と明国の間で和解が成ったとの話が届いた。
日明貿易(勘合貿易)は、足利公儀の三代目の将軍である足利義満と明の二代皇帝である建文帝との間で開始された。
足利義満は、博多商人の肥富から、対明貿易が莫大な利益を生むことを耳にする。足利義満は、1401年(応永8年)、肥富と僧の祖阿を明国へ遣明使として派遣したのであった。
肥富と祖阿は、翌年に明国の使者を連れて帰国し、明国からの国書を持ち帰ることに成功する。
しかし、明国の使者が滞在している間に、靖難の変によって、永楽帝が即位してしまう。そのため、明国は再び日本へと国書を送ることとなる。
斯くして、日本と明国の間に国交と通商の合意が成立したのであった。
しかし、明王朝は、強固な中華思想のイデオロギーから朝貢貿易しか認めていなかった。
朝貢貿易とは、周辺諸民族の王が明国皇帝によって冊封され、明国皇帝に対して朝貢する形式である。明国は、朝貢貿易を対等な取引ではなく、皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていた。
そのため、明国の豊かさと皇帝の気前のよさを示すことから、明国からの輸入品は輸出品の価値を大きく超過することが慣例となっている。
そのため、日明貿易は、足利公儀の公方が、明国皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明国皇帝に対して朝貢し、明国皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。
足利義満は、日本国内の支配権確立のため豊富な資金力を必要としており、名分を捨て実利を取ったと言えるだろう。
しかし、この朝貢貿易は、日本国内でも問題となっている。足利義満の死後、四代目の公方である足利義持や前管領の斯波義将らは1411年(応永18年)に日明貿易を一時的に停止する。
具体的な理由として、足利義持が重篤な病にかかった時に、医療への再認識が高まったこととしている。朝貢貿易の主要物が薬膳(生薬)と合薬であり、それらの材料は南方産の香薬が主であった。
それらの交易品は、明国では産出しないことから、朝鮮や琉球との通交が確保できることを前提として、対明断交に踏み切ったとされている。
朝鮮や琉球との貿易で、日明間の朝貢貿易を肩代りさせ、日本国内で評判の悪い冊封関係を断ち切ろうとしたのであった。
しかし、六代目の公方である足利義教によって、1432年(永享4年)に復活してしまう。
1404年(応永11年)以降の日明貿易は、勘合を所持した者のみに限られるようになる。
勘合とは、公文書となる勘合底簿の上に料紙をずらして重ね、両紙にまたがるように割印もしくは墨書したものであった。勘合には、「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在する。
「日字勘合」は明国から日本への使行に用いられ、「本字勘合」は日本から明国への使行に用いられた。持参した料紙と双方が持つ底簿を照合していたと思われる。
日明貿易では、博多や堺などの有力商人も同乗していた。明国政府によって、必要な商品が北京にて買い上げられる公貿易の他にも、明国政府の許可を得た商人である牙行との間で私貿易が行われていたのである。
日明貿易が齎す利益は、宝徳年間に明に渡った商人楠葉西忍を例にすると、明国で購入した糸250文が日本で5貫文(5000文)で売れている。反対に、日本にて銅10貫文を1駄にして持ち込んだものが、明国では40〜50貫文で売れていた。
遣明船に同乗を許された商人は、帰国後に持ち帰った輸入品の日本国内の相場相当額の1割にあたる金額を抽分銭として納付していたのだ。
しかし、応仁の乱以降、足利公儀は遣明船を自力で派遣することが困難となってしまった。そのため、有力商人たちに、あらかじめ抽分銭を納めさせ、遣明船を請け負わせる方式を取るようになる。その際の抽分銭が、3,000〜4,000貫文であった。
そのため、抽分銭の10倍に相当する商品が日本に輸入される。日明貿易は、有力商人たちにとって、抽分銭や必要な経費などを差し引いても、十分な利益が出る構造になっていたのだ。
また、1483年(文明15年)に派遣された遣明船は、大内政弘や甘露寺親長が仲介する形で朝廷が関与していた。そのため、日明貿易の収益の一部は、朝廷に献上されている。
勘合貿易が行われるようになったことで、倭寇(前期倭寇)は一時的に衰退していく。そして、明国から輸入された衣織物や書画などは、北山文化や東山文化などの室町時代の文化に大きな影響を与えたのであった。
1467年に応仁の乱が勃発してからは、堺を貿易の拠点にしていた細川京兆家や山口を本拠にする大内氏がそれぞれ独自に遣明船を派遣する様になる。特に大内氏は、応仁の乱で兵庫湊を得ており、博多などの交易拠点への権益を持っていた。
そのため、大内氏と細川京兆家は、勘合符を巡って対立していく。その様な状況の中、明国では正徳帝(武宗)が即位したことで、大内氏が主催した遣明船(勘合船)が正徳勘合符を独占することとなった。
その後、将軍職を剥奪され、追放されていた前公方の足利義稙を、大内義興が奉じて上洛を果たす。そして、細川京兆家の当主である細川高国を味方につけて足利義稙の将軍職復帰を実現させたのであった。
そのため、1516年に足利義稙は、大内義興の功績に報いる形で、遣明船派遣の管掌権を永久的に保証する。その結果、日明貿易の主たる港が、堺から博多に移ってしまった。
細川高国は、細川京兆家の大きな収入源となっていた明国との交易利権を実質奪われることとなってしまう。しかし、大内義興の軍事支援によって、細川高国は細川澄元などの敵対勢力に対抗していたため、異論を差し挟むことができなかった。
ところが、1519年になると大内義興が領国の事情から山口に戻ってしまう。大内義興の帰国に反発した細川高国は、一転して大内氏と対立する姿勢を見せることとなったのであった。
1523年、大内義興が謙道宗設を正使に遣明船を派遣する。一方、細川高国は、鸞岡端佐を正使とし、宋素卿(朱縞)を副使として、南海経由で遣明船を派遣した。しかし、細川高国が持たせた弘治勘合符は既に無効であったのだ。
遣明船の受入れ港である寧波には、大内方の遣明船が先に入港していた。そのため、細川方には不利であったとものの、細川方の副使である宋素卿は、明国の入港管理所である市舶司大監の頼恩に賄賂を贈る。そして、細川方を先に入港検査させたのであった。
その事に激怒した大内方は、細川方を襲撃して遣明船を焼き払う。更に、明国の官憲が細川方を支援したため、大内方の矛先は明国の官憲たちにも向いてしまう。
その結果、謙道宗設によって、鸞岡端佐は殺されてしまった。更に、紹興城へと逃れた宋素卿らを追い、明国の役人をも殺害する事件が起こってしまったのである。
この事件は日明間の外交問題となり、宋素は投獄されて獄死することとなった。
遣明船による貿易は、大内氏が正式な交易相手として認められることとなる。
この寧波の乱をきっかけとして、寧波に近い双嶼、舟山諸島などの沿岸部では、日本人の商人と明国の商人の間で、私貿易や密貿易が盛んに行われる様になっていく。結果として、倭寇(後期倭寇)の活動が活発化していくこととなっていくのであった。
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