第69話 瀬田左京の来訪と近衞家の古今伝授

 美濃国へ赴くことを家臣たちに告げ、諸々の準備を始めた頃、美濃国から長井新左衛門

 尉の縁者が、近衞家の屋敷を訪れた。


「瀬田左京にございます。これより後は、近衞家にお仕えし、若様を無事に美濃国まで送り届けてみせまする」


 長井新左衛門尉が送ってきた男の名は、瀬田左京と言うそうだ。瀬田左京の姉が、私の養父となる長井新九郎の愛妾らしく、近衞家に仕える形で屋敷に入り込み、比叡山延暦寺に同行するらしい。

 その後は、瀬田左京の案内で、美濃国へと入り、長井新左衛門尉が任されている稲葉山城へと入るとのことであった。


「瀬田左京よ。美濃国までの道中頼むぞ」


 瀬田左京は、見た目は至って平凡な男であった。素破の類いかととも疑ったが、服部半蔵などを見慣れている立場としては、その様にも見受けられない。

 しかし、瀬田左京は後に明智光秀の家臣となることを考えると、信じない方が良いだろう。長井新左衛門尉の意向と言うよりも、長井新九郎の意を受けた監視と考えた方が良さそうだ。



 美濃国への養子入りを告げられた後、祖父の近衞尚通に呼び出される。祖父の居る部屋に入ると、座る様に言われた。


「多幸丸よ、其方は美濃国に赴くこととなった。美濃国には、私に古今伝授をした飯尾宗祇の師である東常縁の東氏が国人としておる。東常縁は古今伝授の祖であり、私の父である近衞政家も、彼の御仁から古今伝授をされた。其方が美濃国に赴いても侮られぬ様に、近衞家の古今伝授を施そうと思う」


 祖父は、曽祖父の師であり、古今伝授の祖である東常縁の子孫がいる美濃国へ私が赴くにあたって、古今伝授をしてくれる様だ。

 はっきり言って、古今伝授よりもカネになりそうな物の方が良いんだが。そもそも、近衞家の古今伝授なんてあるのか?


「近衞家の古今伝授にございますか?古今伝授と言うと、先日身罷られた肖柏殿や三條西家だと思われるのですが…」


「古今伝授で名が知れ渡っておるのは、肖柏殿や三條西家であるが、東常縁が切紙にて伝授した様に、古今伝授された家にも切紙や書が残っておる。それ等を古今伝授された者たちが各々で解釈を深めていったのだ」


 祖父の話では、古今和歌集の読み方や解釈を秘伝とする風習は、平安時代末期頃からあった様だ。鎌倉時代以降になると、公家の家筋が固まり、家の家職が分別化される。

 古今和歌集の解釈は、歌学を家職とする二条家の秘事として代々相承されるようになっていった。しかし、二条為衡の死によって二条家が断絶すると、二条家の教えを受けた者たち(二条派)によって、古今和歌集の解釈が受け継がれる様になっていく。

 二条家の古今和歌集の秘伝は、二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれる。その後、経賢、尭尋、尭孝へと続いた。

 尭孝は、東常縁に古今和歌集の秘伝を悉く教授する。こうして、東常縁は、室町時代中期における和歌の権威となったのであった。

 東常縁は、曽祖父の近衛政家だけで無く、足利義尚や三条公敦などにも古今集の伝授を行っている。

 古今和歌集は、上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでは内容を正確に理解することは困難なものとなっていた。そのため、古今和歌集の解釈の伝授を受けると言うことには、大きな権威が伴ったのである。


「三條西家は和歌を家業とする家であり、肖柏殿は堺衆に古今伝授をすることで生活していた。されど、近衞家は摂家であり、和歌で生活している訳では無い。そのため、近衞家の古今伝授は知られておらぬのだ」


 祖父が言うには、古今伝授で有名なのは、生活の糧にしている家や連歌師であり、朝廷の政を担う近衞家は、古今伝授があるものの知られていないだけだそうだ。

 今までの近衞家当主たちの古今和歌集に対する解釈も残っているらしい。東常縁から古今伝授を受けた曽祖父や飯尾宗祇から古今伝授を受けた祖父の解釈が加わった、近衞家の古今伝授があると祖父は語る。


「されど、その様な大切な古今伝授を、私が授かってもよろしいのでしょうか?」


「其方が和歌を苦手としているのは分かっておる。されど、古今伝授は古今和歌集の解釈を伝えるもの。其方が分からなくとも、子や孫に伝えるが良い。そのために切紙を揃えたのだ」


 私は、祖父から古今伝授を受けるのが面倒くさかったので、思わず渋ってしまう。すると、祖父は私が和歌を苦手としていることは承知しているため、私のためでは無く、私の子孫に伝えるために、古今伝授を受けろと言われた。もう既に、祖父は切紙や書を用意してある様だ。

 確かに、私は古今和歌集にも古今伝授にも興味は薄いが、子孫は興味を持つかもしれない。仕方無いので、子孫たちのためにも、祖父の古今伝授を受けることにした。


「ところで、父上は古今伝授を受けられたのでございますか?」


「其方の父には、既に古今伝授をしておるから、案ずるな。其方に古今伝授を授けるのは、私からの最後の手向けぞ」


 父は既に祖父から古今伝授を受け終わっているらしい。三條西実隆に並ぶ公家文化の権威と言える祖父から、学問を指南されたり、古今伝授を受けられることは名誉なことなのだろう。

 私のために、古今伝授の切紙や書を用意してくれたことからも、祖父の情を感じさせられる。本来なら、近衞家を離れて美濃国へ赴く孫に伝える必要は無いのだ。東氏が美濃国の国人であることも、単なる理由付けに過ぎないのだろう。


 私は祖父の厚意を受け入れ、子孫のためだけで無く、祖父のためにも古今伝授を受けるのであった。京の都の治安は悪化しており、出歩く機会も減ったため、祖父から指南を受ける時間は多いにあったのだ。

 こうして、都で過ごす日々も学問で費やされていくこととなったのであった。

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