第58話 年明けと桂川原の戦い

大永7年(1527年)


 新年を迎えて、私は数え年で12歳になった。史実通りなら、来年には私は比叡山へ赴くこととなる。今年の間に必要な準備を済ませておかなければならないだろう。

 叔父も数え年で9歳になった。11月には帯解きの儀が執り行われる。叔父に譲れるものは譲ってしまった方が良いかもしれない。


 薩摩国の島津家からの定期便が届いていた。11月27日に島津相州家当主である島津日新斎の嫡男である島津貴久が島津宗家の養子に入ったそうだ。書状の遣り取りをしている島津日新斎からも、同様の内容が書かれていた。

 私は返信の中で、島津宗家当主の島津勝久は心変わりしやすい様に見受けられるので、島津貴久が島津宗家の当主を相続したならば、速やかに中央に使者を送った方が良いと提案しておいた。今の内に撒ける毒は撒いておかねばなるまい。

 島津家からの連絡には、12月15日に琉球国王の尚真王が薨去したとの報せもあった。琉球国とは、今のところは繋がりが無いので、特に差し障りは無いと思われる。


 正月の間に、足利義晴と細川高国の援軍としてやって来ていた武田元光は、家臣の粟屋氏や吉田氏と共に、三條西実隆など馴染みの公家たちと交流していたそうだ。戦が差し迫っているのに、随分と余裕があるんだなと思ってしまった。



 その様な緩慢とした空気が都で漂う中、細川高国方と細川六郎方の戦いの火蓋がいよいよ切られることとなる。

 摂津国にいる三好の軍勢だけで無く、丹波国の波多野兄弟の軍も行動を開始したのだ。

 波多野兄弟の軍は、丹波国を出国すると、1月28日には野田城を7日間で陥落させる。波多野兄弟は、京の都に向かうと見せかけたが、そのまま南下すると、山崎城を攻撃し、2月4日に陥落させた。山崎城に詰めていた摂津守護代の薬師寺国長は高槻城に逃亡している。

 その後、波多野兄弟の軍は、芥川城、太田城、茨木城、安威城、福井城、三宅城などの諸城を次々と攻め落とすか、降伏させていったのであった。


 2月11日、波多野兄弟の軍は三好勢の軍と山崎城で合流している。翌2月12日には、細川高国方も武田元光と細川尹賢たちの軍勢を率いて、鳥羽方面へと進出し、桂川を挟んで両軍が対峙した。


 細川高国の出陣に際して、足利義晴も出陣している。この戦は、足利義晴にとっては初陣であった。

 しかし、足利義晴の出陣は内密に行われたそうだ。しかも、足利義晴は、鷹狩に出掛け服装であり、御供の者たちも軽装であったとのことである。

 そして、伊勢氏被官や奉公衆を含めた将軍の軍勢は、足利義晴から離れて行動していたそうだ。まるでわ足利義晴を見守ってるかの様な異様な光景であったと伝え聞く。

 この戦について、都の公家衆たちの間では、「柳本賢治如きに動座するのは余りに聊爾(不作法)である」と語られていた。柳本賢治や三好元長などの陪臣では、足利公方の敵将として、格が低すぎると言うことだろう。

 都の人々の間では、波多野兄弟や三好では、公方の相手として不足であると考えられたのであった。

 元々、波多野兄弟は細川高国の側近である。足利義晴やその周辺たちとしては、細川京兆家の家中の問題なので、自分たちで解決してくれと思っていたかもしれない。公儀も京兆家も締まりの無いことである。


 上洛要請に応じていなかった六角定頼も漸く重い腰を上げる。今更ながら、被官の三雲氏と馬淵氏を将として、2,000〜3,000の軍勢を送ってきたのだ。

 しかし、六角定頼本人は上洛することはなかった。

 そして、六角の軍勢は、近江国からやって来た後、桂川から離れた北白川の地に留まってしまう。六角の軍勢は、三好の軍と細川高国の軍の動向を様子見していたのであった。


 一方、波多野兄弟の軍勢では、長男の波多野元清は、この時期に病を患っていた様だ。そのため、波多野兄弟の軍勢は、子息の波多野秀忠と弟の柳本賢治が率いている。波多野兄弟の主体となっているのは、経験のある柳本賢治であった。


 細川高国軍は、主力として、鳥羽から鷺の森辺まで、川沿いに隙間無く一文字に陣を敷いている。本陣は、そこから少し後方の六条に、足利義晴自らが陣を敷く。後詰の軍として、本陣から北側にある桂川の川勝寺に、武田元光の軍勢が陣を敷いていた。


 2月12日の夜中、戦闘は川を挟んだ矢の応酬から始まった。

 翌2月13日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏をかいて桂川を渡河する。

 そして、後詰の武田軍に襲い掛かった。武田軍は、主力の粟屋勢などから多くの負傷者や死者を出していく。結果として、死者80名を出し、武田元光は敗退することとなった。

 これに、危機感を覚えた細川高国は、自ら武田軍の救援に向かう。しかし、細川高国は奈良氏などの馬廻り10名前後、雑兵300名などが討ち取られて敗北し、撤退した。

 この戦いでは、細川高国の親戚にあたる、昵懇公家衆の権大納言である日野内光が戦死している。


 波多野兄弟の軍勢と三好軍も、三好長家が重傷を負い、香西源蔵ら80名の戦死者が出ていた。しかし、合戦は、波多野兄弟と三好の連合軍が勝利する。


 これまで戦いを北白川の地で観ていた六角軍は、戦況が悪化した夕方に到着になってから、漸く加勢し、波多野兄弟の軍勢と交戦したそうだ。



 細川高国が撤退した後、足利義晴は細川高国陣営の後方で、中立的立場を見せていた。

 しかし、足利義晴は細川高国に与して、各地の守護たちに協力要請している。そのため、波多野兄弟と三好の軍勢は見逃すことは無かった。

 足利義晴は、上洛を目指す三好長家の軍勢に肉薄され、総崩れとなって撤退している。


 2月14日、細川高国は、足利義晴を奉じて坂本に逃げ去ることとなった。足利義晴と細川高国が都から逃亡したことには、大きな意味を生じさせている。

 公方や京兆家当主が、都を落ち延びることは、今までに何度もあった。しかし、評定衆や奉行人と言った公儀の中枢の者たちまで逃げ出してしまったのである。これは、足利公儀が崩壊と言っても過言では無かった。

 この出来事が、後に堺公方と呼ばれる存在の誕生の引き金の一因となってしまう。

 また、この戦いで損害を被った武田元光は、若狭に退くこととなる。そして、若狭武田氏は、中央政治への影響力を低下させることとなったのであった。

 一方、消極的な姿勢を見せた六角定頼は、足利義晴を支えていくこととなる。こうして、六角氏は中央政治への影響力を上昇させていった。


 2月16日、柳本賢治・波多野元清・三好の連合軍は、京の都に進軍し、入洛した。そして、治安維持と宣撫工作に取り掛かっている。

 波多野兄弟や三好の軍勢が都を抑え、後は細川六郎の上洛を待つのみであった。



 後に、この桂川原の戦いでは、細川六郎方が用意周到に戦へ臨んでいたことが分かる。

 2月2日付の和泉上守護代である松浦守書状によれば、六角定頼が細川晴元との縁談を進めているという話が上がっていた。

 六角氏が戦いで消極的姿勢を取っていたのは、細川六郎との縁談が進んでいたからと思われる。

 また、同書状では、丹波方面での工作についても書かれていた。

 細川高国方は、波多野兄弟の軍勢の後背を突くため、但馬守護の山名誠豊に協力を要請している。

 しかし、波多野兄弟の軍勢を背後から突くべく、但馬勢を丹波国に乱入させようとしたところ、但馬守護代の垣屋氏が波多野方に同心し裏切ったのだ。

 加えて、因幡守護の山名誠通が但馬国に乱入したため、山名誠豊は没落し、細川高国を支援するどころではなくなってしまう。

 細川高国の娘婿である伊勢国司の北畠晴具も、高国に援軍を送ろうとしたが、長野工藤氏などの伊勢国衆が応じず、動くことが出来なかったこと。

 これらの、諸勢力に対する外交工作が書かれており、細川六郎方が事前に調略など周到な準備をしていたことが分かるだろう。

 この準備を中心に行っていたのが、和泉上守護の細川元常だと言われてある。

 細川元常は、細川澄元と従兄弟であり、阿波守護家の細川成之の娘が母であった。細川元常は阿波に匿われていた様だ。

 九条政基が、明応9年に和泉国で戦乱があった時に、荘園に下向した際、年貢が兵糧として奪われたと書き残している。その頃には、細川元常はまだ四国にいたそうだ。

 幼い細川六郎を典厩家の細川澄賢と共に、細川元常が支えていたのである。

 こうして、政治的にも軍事的にも細川高国方を圧倒した細川六郎方が勝利を得るのは必然であったと言えるだろう。

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