第57話 各地の情勢と波多野兄弟の蜂起

 三條西家の屋敷で、九條稙通とのトラブル以降は、特に問題は起こらなかった。

 私は引き続き、三條西家の屋敷にて、三條西実隆から学問の教授を受けている。三條西実隆の教授の日々の間に、周桂や谷宗牧などの連歌師を紹介された。

 谷宗牧は、近衞家に出入りしている連歌師で、近衞家の屋敷で見かけたことはあるが、話をしたのは初めてだ。祖父の近衞尚通と懇意にしている様で、私の知らない祖父の一面などを聞くことが出来た。

 こうして、私は三條西家で高名な連歌師たちを交えて、連歌の腕前を上げていくこととなる。



 松永久秀と黒田重隆に算道を教えていた大宮伊治だが、経済的に困窮して京の都での生活が困難になったため、越前国の朝倉孝景を頼って下向してしまった。

 後奈良天皇の即位に伴って、官務に任ぜられたばかりなのに、無責任なことだ。

 勘解由小路在富には引き続き、算道を教育してもらう。加えて、算博士を世襲する大宮家と対立する壬生家当主の壬生于恒も算道の素養はあるらしく、勘解由小路在富を通じて招くことにした。

 壬生于恒は、先に大宮伊治を招いて算道を教えて貰っていたため、初めは渋っていたものの、謝礼の誘惑に負けてしまう。結局、大宮伊治の不在の間は、勘解由小路在富とともに、松永久秀と黒田重隆に算道を教えることとなったのだ。

 壬生家も大宮家同様に経済的に困窮しているのは分かる。しかし、私の中で、大宮家・壬生家共に小槻氏の印象が悪くなったのは確かであった。



 今年も私の周りでは色々と出来事があったが、唯一の慶事と言えるのは、妹の花屋玉栄が生まれたことだろう。父の近衞稙家が、家女房に手を出して生ませた子供だ。

 将来は、慶福院花屋玉栄として、叔母の跡を継いで尼僧になる。源氏物語の注釈書として『花屋抄』を書くことになる人物だ。

 叔父の聖護院第25代門跡道増やまだ生まれていない弟の大僧正法務准三后道澄など源氏物語を研究する環境にあった様で、初心者向けの注釈書である『玉栄集』という著作も書いている。

 妹は、豊臣秀吉とも関係があった様で、『源氏物語』について継続的な指導を受けていたらしい。源氏物語の研究家になる素質のある妹が生まれたのであった。



 西国では、シルバーラッシュが起こっている様だ。博多の豪商の神谷寿貞が石見銀山の鉱脈を発見し、採掘を始めたとの報せが届いている。

 石見銀山の発見は、鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)、周防国の大内弘幸が石見に来訪し、北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣によって、銀を発見したという伝説があるそうだ。

 その後、大内氏が何らかの理由で採掘を止めることとなったのだろう。

 噂話だと、神谷寿貞が海上から山が光るのを見たらしい。そこで、石見銀山の地域を領有する大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主である三島清右衛門の協力を得たそうだ。

 そして、今年の3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出し始めたとのことである。こうして、神谷寿貞が、再び石見銀山を発見し、本格的に開発を始めることとなったのであった。

 日本有数の大銀山である石見銀山の採掘が始まったことで、日本の銀の生産量が増えるとともに、石見銀山を巡る争いは激化するだろう。西国はどんどん平穏とは遠くなりそうな状況へと進んでいくな。



 関東においても、北條氏で動きがあった様だ。

 昨年の2月に北條氏綱は、扇谷上杉家との和睦を破り、岩付城を奪還していた。

 しかし、扇谷上杉朝興は、宿敵だったはずの山内上杉憲房・憲寛父子と協力して逆襲を行っている。そして、昨年から今年にかけて、武蔵国の諸城を奪い返したのであった。

 その後、扇谷上杉家の軍勢は、相模国玉縄城にまで迫っている。

 加えて、扇谷上杉朝興が手を組んだのは、関東管領である山内上杉家、古河公方、甲斐の武田信虎だけでは無かった。伊勢宗瑞(北條早雲)の代に伊勢(北條)氏と友好関係にあった上総国の真里谷武田氏、小弓公方、安房国の里見氏と手を結んで、北條包囲網を形成したのである。

 その結果、北條氏綱は四面楚歌に陥ってしまったのであった。

 今年の11月12日には、鶴岡八幡宮の戦いが起こる。そして、里見氏の軍勢が鎌倉を襲撃し、鶴岡八幡宮は略奪の末、焼失してしまった。

 この出来事に、里見義豊は戦いの結果以上に、鶴岡八幡宮を炎上させたと言う失態による非難を受ける。

 鶴岡八幡宮は、源氏及び鎌倉の守護神であり、里見義成の末裔である里見氏歴代当主にとっても崇敬の対象であった。

 また、里見氏が盟主として擁立している小弓公方は、鎌倉を拠点とする関東公方の継承者を称している。小弓公方である足利義明自身が、元々は鶴岡八幡宮の別当である「雪下殿」だったのだ。

 この結果は、小弓公方陣営の不協和音に繋がるかもしれない。関東の情勢は北條氏とって有利に進みそうである。



 日本の東西では、相変わらず不穏な空気が漂っているが、畿内でも戦乱の火蓋が切られようとしていた。

 先だって、細川尹賢の讒訴を信じた細川高国により、香西元盛は上意討ちされた訳であるが、私が懸念していた通り、細川京兆家の中で不穏な動きが始まってしまった様だ。

 香西元盛の上意討ちの原因が細川尹賢の讒言であると知った波多野元清と柳本賢治の二人の兄弟が激怒する。そして、それぞれの居城である丹波八上城と神尾山城の両城で反旗を翻したのであった。

 10月23日、波多野元清と柳本賢治の蜂起に驚いた細川高国は丹波国に討伐軍を差し向ける。柳本賢治の籠もる神尾山城には、総大将の細川尹賢軍を送り、波多野元清の籠もる八上城には、瓦林修理亮・池田弾正等の軍勢を向かわせた。細川高国が送った軍勢は、それぞれの城を包囲する。

 加えて、10月28日には、将軍足利義晴の名で、若狭守護である武田元光に救援を要請する使者を送っていた。

 その後、両陣営では小規模な戦闘が続くこととなる。しかし、波多野元清に同情的であった丹波守護代の内藤国貞は、11月5日に神尾山城の包囲軍から離脱してしまったのだ。

 更に、11月30日には、黒井城主である赤井五郎が3,000の兵を率いて神尾山城包囲軍の背後から攻撃する。その戦いでは、赤井軍にも損害が出たものの、神尾山城包囲軍を破ることに成功したのであった。

 この頃、京の都では、丹波守護代の内藤国貞が敗北したとの噂も流れている。しかし、都の公家衆の間では、南方牢人や四国衆などが蜂起しなければ、大したことにはなるまいという楽観的な雰囲気が漂っていたのであった。

 その後、神尾山城包囲軍の敗報を知った八上城の包囲軍は、翌12月1日に囲みを解いて退却することとなる。

 八上城包囲軍は退却の途中において、細川六郎方と密かに通じていた池田弾正が、瓦林修理亮らに矢を射かける。こうして、細川尹賢率いる討伐軍は京へ逃走することとなった。


 その頃、都では、足利義稙の元側近である畠山順光と河内国の畠山義堯が数千騎で渡海したとの噂が流れている。

 細川尹賢率いる討伐軍が撤退したこともあり、細川高国の軍勢は弱すぎると、都で囁かれていた。

 この様な状況下で、細川高国方は徳政令を出したり、足利義晴の比叡山への避難なども検討されるなど、事態は差し迫っていく。


 この間、足利義晴は御内書を発給して、六角定頼、朝倉孝景、赤松政村・浦上村宗、斯波義統、山名誠豊などの各地の大名に上洛要請を出すなど、細川高国を支援する姿勢をとっていた。

 加えて、足利義晴は自身の側近である一色種充、伊勢貞辰、種村刑部少輔に御内書を発給して、細川高国方に付いたことへ感謝を示している。

 一色種充と種村刑部少輔は、元々は足利義稙の側近であったため、細川六郎方へ寝返ると思われていたのだろう。両名は都の情勢が不穏になると、誓紙を出して、足利義晴への忠誠を誓っている。

 両名への足利義晴の御内書は、誓紙を出したことに対しての感謝を示したものだった様だ。しかし、種村刑部少輔は結局は裏切ることとなるが。

 

 波多野元清から、報せを受けた細川六郎は、三好長家・三好政長に畿内への出陣を命じる。

 そして、三好の軍勢は阿波国から堺に上陸すると、12月13日には中嶋の堀城を占領した。


 一方、細川高国方では、12月29日に若狭の守護の武田元光が軍勢を率いて入京する。足利義晴と細川高国の救援の要請を受けて、それに応じたものであった。

 しかし、足利義晴と細川高国が、若狭武田氏と同様に支援を要請していた六角定頼、朝倉孝景、赤松政村・浦上村宗、斯波義統、山名誠豊などの諸大名は上洛に応じる様子はみられない。


 このまま、三好の軍勢と細川高国方が戦うと、細川高国方が不利の様に思える。細川尹賢の討伐軍が波多野兄弟に敗れるなど、細川高国の軍勢は噂通り強くなさそうだ。

 再び京の都が戦場にならないないことを祈るばかりである。

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