第33話 東国と西国の戦乱
大永4年(1524年)
年が明けて、私は数え年で9歳となった。
昨年は、11月15日に叔父が「着袴の儀」と「深曽木の儀」を終え、祖父から武芸の鍛錬をすることを許されている。叔父は、私と鍛錬をしたいと申したため、近衞家の屋敷で過ごす時間が増えることとなった。
叔母は叔父を構う時間が減ったことで不満そうにしている。
しかし、叔父は近衞家の嫡出の子であるため、祖父から武芸の鍛錬の時間は多くは与えられていなかった。手習いや教養の修練を重点的に教育させるつもりの様だ。
そのため、叔父は不満気にしていたが、私にはどうしようも無いので、致し方あるまい。
そして、11月の吉日には私の「帯解きの儀」が執り行われる。子供としての一連の儀式が終わり、大人とほぼ同様に扱われる様になるのだ。
これまで、儀式の度に行動の自由が徐々に認められているので、「帯解きの儀」の後に期待しており、早く儀式を迎えたいと思っていた。
11月になることを待ち望んでいると、京の都に遠国の噂が届いてくる。
1月13日に相模国の戦国大名である北條氏綱が、武蔵国の江戸城を攻略をしたそうだ。
後北條氏は、大永3年(1523年)までに武蔵国南西部の久良岐郡(横浜市の西部)一帯を経略し、更に武蔵国西部・南部の国人を服属させていた。
また、この頃に北條と家名を改めた様である。北條氏綱の正室の養珠院殿は、執権北条氏の末裔とされる横井氏の出身であった様だ。そして、養珠院殿は永正12年(1515年)に嫡男の北條氏康を産んでいる。
それだけで無く、北條への改名は、単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであった様だ。後に、伯母が北條氏綱の継室となったことを考えると、父の近衞稙家が関わっているのかもしれない。
北條と名乗ることを朝廷に認められたことで、家格においても、今川氏や武田氏、上杉氏と同等になっている。
そして、北條への改名は、北條氏綱による一種の敵対宣言であり、これをきっかけとして、北條氏綱は小机への進出に踏み切ったと思われる。
危機感を持った扇谷上杉朝興は山内上杉家と和睦をして、扇谷・山内両上杉家の反北條同盟の成立に至り、江戸城の攻略へと繋がった様だ。
そして、今年の正月に北條氏綱は、武蔵国に攻め込んで、高輪原の戦いで扇谷勢を撃破すると、太田資高を寝返らせて江戸城を攻略する。
また、北條氏綱は、江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取っている。加えて、2月2日に太田資頼の寝返りにより、岩付城を攻撃して落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取ったのだ。その後も、蕨城を攻略している。
そして、毛呂城(山根城)城主の毛呂太郎・岡本将監が北條方に属したため、毛呂~石戸間を手中に収めたため、両上杉方の松山城~河越城間の遮断に成功させた。
この江戸城攻略の際に、北條氏綱の軍勢の別働隊が、関東の名族である渋谷氏が治める渋谷城を攻め、落城させている。以後、渋谷氏は行方不明になってしまった様だ。
更に北條氏綱は、4月10日には伝馬制を整備している。こうして、支配地域の連絡網を強化したことで、関東支配を着々と進めていったのであった。
西国では、5月に尼子経久が伯耆国へと攻め入ったそうだ。
大永3年(1523年)に、重臣の亀井秀綱を通じて、傘下の安芸国人である毛利氏に、大内氏の安芸経営の拠点である鏡山城を攻めさせていた。
毛利氏当主・毛利幸松丸は、まだ9歳であったため、後見人を務める叔父の毛利元就が毛利勢を率いることとなる。
6月13日、毛利軍は吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始した。一方、大内方は蔵田房信と副将として叔父の蔵田直信が鏡山城に入り、尼子軍を迎え撃つ。奮戦する蔵田房信は、尼子軍を容易に城へ寄せ付けなかった。そして、戦線は膠着状態に陥ってしまう。
そこで、毛利元就は一計を案じる。何と、蔵田家の家督を継がせることを条件に蔵田直信を寝返らせたのだ。そして、蔵田直信が守備する二の丸に尼子軍を手引きさせてしまう。
尼子軍の侵入を許した鏡山城内は、大混乱に陥った。城将の蔵田房信は、本丸に籠もって最後の防戦を一昼夜続けたものの、28日には落城したのであった。なお、蔵田房信は、妻子と城兵の助命と引き替えに自害している。
鏡山城の落城後、尼子経久は蔵田房信の申し出を承認した。しかし、蔵田直信の寝返りについては、非難して処刑を命じている。
毛利元就は計略の約定を反故にされたのであった。更に毛利氏の戦功は全軍で一番であったことは明らかであったにも関わらず、尼子経久は、毛利氏へ恩賞を与えなかったのだ。
鏡山城の戦いが終わり、尼子経久は毛利元就を警戒し、毛元就は経久に不信感を抱くこととなった。
毛利元就を警戒した尼子経久は、同年に毛利家当主の幸松丸が病死した際には、家臣の亀井秀綱に命じて、毛利家の家督相続問題に介入している。
尼子氏は毛利元就の弟である相合元綱を擁立させるべく画策したのだ。しかし、機先を制した毛利元就が相合元綱とその支持勢力を粛清してしまう。
斯くして、毛利元就が当主となったことにより、尼子氏の毛利氏への家督相続介入は失敗に終わったのであった。
尼子経久は、毛利氏の家督相続介入には失敗したが、今年の5月に軍勢を率い、西伯耆に侵攻する。
まずは、南条宗勝を破り、更に守護・山名澄之を敗走させたのだ。こうして、一晩にして西伯耆を手中に収めたのである。
敗北した伯耆国人の多くは因幡国と但馬国へと逃亡し、南条宗勝は但馬山名氏を頼ることとなったのであった。
西国では尼子経久が勢力を拡大しているものの、毛利元就がその謀才を発揮し始め、毛利家当主に収まっている。
西国は大内氏と尼子氏で争っていくことになるだろうが、毛利元就が加わることで、益々厄介なことになるだろう。
東国の関東では、北條氏綱が勢力を拡大し、西国では尼子経久が勢力を拡大している。京の都や畿内から遠いほど、強大な勢力を築きやすいのかもしれないな。
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