第7話 祖父を説得せよー下

 私は祖父から近衞家の荘園でのキカラスウリ栽培と商家への天花粉の販売を認めさせることが叶った。

 祖父は私との遣り取りで少し疲れた様子である。祖父と二人で真剣に話す機会など、そうは無い。良い機会なので、白粉以外の話をすることにしよう。


「祖父上は庶子とは言え、近衞家の子としてとおっしゃいました。私が庶子であることは存じておりますが、何れは叔父上たちの様に仏門に入らねばならないのでしょうか?」


「そうなるであろうな」


 私は近衞家の庶子として、仏僧にならなければならないのかと問うと、祖父は肯定した。

 しかし、私は仏僧になんてなりたくない。私は、仏僧になりたくない意思を祖父に示すことにした。


「祖父上、私は仏門に入りたくありませぬ」


「うぅむ……。そう言われてものぅ……」


「私は武士になりとうございます」


「何じゃと!?其方は武士になりたいと申すのか?」


 私の仏僧になりたく無いと言うと祖父は困惑する。

 そして、私は武士になりたいと言うと、困惑した祖父は驚きを隠せずにいた。


「如何にも。応仁の乱以降、日の本は乱れるばかりにございます。公家衆は荘園を武士たちに押領され、困窮するばかり。荘園を守るには下向して武士にでもならねば叶いますまい。土佐国の一條氏や伊予国の西園寺氏などが良い例では無いですか」


「うぅむ……。土佐国の一條氏や伊予国の西園寺氏はあくまでも、分家であり、本家の荘園を預かっておるに過ぎぬ。当家は他家よりも家臣が多いため、その者たちを食わせねばならぬ。故に、其方に分ける様な荘園は無い」


 私は、応仁の乱以降、公家たちの荘園の押領が増加していることを指摘し、下向して武士にでもならなければ荘園を守れないと指摘する。

 例として、土佐国の一條氏、伊予国の西園寺氏を挙げた。

 土佐国の一條氏は、摂家一條家の分家であるが、宗家の当主自らが下向して荘園を経営をした過去がある。その後、土佐一條氏からは、宗家を継承する養子を何人も輩出していた。

 伊予国の西園寺氏は清華家の西園寺家の分家であり、現地の国人たちの押領を防いでいる。

 両家とも、京の宗家と繋がりが深く、荘園収入で宗家を一応は支援しているのだ。

 土佐一條氏や伊予西園寺氏の例があるため、祖父は困惑する。しかし、近衞家は家臣たちが多いため、家僕たちを養うために、私に分ける荘園は無いと答えた。

 確かに、現在進行形で国人たちに荘園を押領されており、この先さらに押領されたならば、近衞家の財政は益々逼迫していく。

 近衞家の食事は一族でさえ質素であり、家僕たちを養うために多くの収入が使われている。この時代は食えるだけでも、他の公家衆に比べて近衞家は豊かだと言える。

 戦国時代、江戸時代以降も近衞家は公家衆の中では最も収入が多かったが、養う家臣が多いため、食事は質素だったと言う。大名家から嫁いできた女性は、実家で贅沢暮らしをして育ってきたのに、近衞家に嫁ぐと質素な暮らしに啞然としたと言う。

 現状を考えれば、私に分け与える荘園なんて無いと言う祖父の言葉は正論である。


「では、国司として下向して、武士になると言うのはどうでしょう?伊勢国司の北畠氏や飛騨国司の姉小路氏などの例がございます」


 私は、国司として下向出来ないか、伊勢国の北畠氏や飛騨国の姉小路氏を例に問う。


「はぁ……。伊勢国司の北畠氏や飛騨国司の姉小路氏は、建武の政や朝廷が北と南に分かれて争っていた世であれば叶ったやもしれぬ。朝廷は一つになったものの、力は建武の頃よりも衰えておる。足利公儀も応仁の乱の後は衰え、地方の守護や国人たちになどの武士の力が強くなっているのだ。当世では国司として下向するなど叶うまい」


 祖父は溜め息を吐き、伊勢北畠氏や飛騨姉小路氏は建武の新政やその後の南北朝時代だったからこそ可能であったと言う。

 南北朝時代が終わり、朝廷は北朝方に統一された。しかし、応仁の乱から戦国時代に入り、足利公儀の力が大きく衰えてしまう。

 そして、地方の大名や国人領主たちが力を付けた戦国時代では、公家が国司として下向するなど無理だと諭されたのであった。

 飛騨国司の姉小路氏は飛騨守護の京極氏に敗れて勢力を落とし、飛騨国で細々と分家同士で争っている始末だ。


 公家の分家として、地方の荘園に下向することや国司として下向し武士になることなど、最初から無理であることは分かっていた。

 あくまでも、本命の案を提示し、飲ませるために無理のある案を段階的に出したに過ぎない。

 では、本命の案を提示させていただくとしよう。


「ならば、美濃国の鷹司氏の様に、地方の守護や国人と縁を結び、知行地を与えられて、国人となるのは如何でしょう?当家の分流である摂家鷹司家が為したのですから、当家でも為せるのではないでしょうか」


 私は本命の案として、美濃鷹司氏の例を挙げ、地方の大名や国人領主たちと縁戚関係を結んで、国人領主になることを提案した。

 美濃鷹司氏は、摂家鷹司家の一門である鷹司冬基が、美濃国守護である土岐頼忠の息女を正室としたことで、守護・土岐氏の縁戚となる。

 その際に、美濃国の大野郡長瀬村を知行して長瀬城主となったのだ。その後は、国人領主として、美濃国守護の土岐氏に仕えている。

 近衞家の分流であり、摂家の鷹司家でも可能だったのだから、近衞家としても実行のハードルは下がるはずだ。


「美濃鷹司氏か……」


 祖父は、私の提案を聞き、悩み始める。実行可能であるが故に、悩んでいるのだろう。

 地方の大名たちとしては、中央の有力な公家と縁を持つことで、中央での便宜を図ってもらうことを望んでいる者が多い。主に、中央の名門公家から妻を迎えることであるが。

 中央の威光は地方に行けば行くほど効果があり、地方の大名や国人領主に箔を付けることとなるのだ。

 地方の大名や国人領主の力が強くなった戦国時代では尚更であろう。

 中央の貴種の子息と縁を結び、知行地を与えて家臣にすることで、箔を付けることも出来るはずだ。

 斎藤正義の場合も、出家してから、勝手に還俗して斎藤道三の養子になったのでは無く、近衞稙家が道三に交渉して、養子に迎えてもらい領地を与えられたと言う説もある。養子関係と言う縁でも、箔を付けることは可能と言えるだろう。

 ましてや、京の日野氏庶流である松波家の更に庶流の松波庄五郎が、西村、長井、斎藤と言った美濃国守護の土岐氏の重臣の家名を名乗るのだから、養子に貴種を迎えた方が他の国人領主たちに対して効果的である。


 祖父はかなり考え込んでいる様子なので、別の案も提示してみる。こちらの方がまだ現実的な案かもしれない。


「祖父上、私が武士になるのが難しいのでは、他の公家に養子入りするのは如何でしょう?」


「他家への養子じゃと?」


 考え込んでいた祖父は、私から新たな提案をされたことに驚く。


「松殿家は嫡男が早世し、跡を継ぐ者がいないと聞いております。私が松殿家へ養子になるのは如何でしょうか?松殿家は零落れたとは言え元々は摂家でございます。ましてや、近衞家と同じく藤原北家嫡流の家でございましょう」


「松殿家か……。確かに、跡を継ぐ者はおらぬ。元々は摂関を出した家ではあるが……」


 私は元摂家である松殿家への養子入りを提案した。松殿家は近衞家と同じく藤原北家嫡流の家なのだ。

 松殿家は有力な摂関を二代輩出したものの、その後は零落していき、木曽義仲に与して大きく衰える。その後も出世の機会を活かせず、南朝方に与してしまったため、再び衰退し、多くが参議、出世しても権大納言がやっと言った状況で、何とか堂上家として残っていた。

 現在の当主である松殿忠顕は、正三位参議に叙せられている。嫡男であった家豊は、従五位上左近衛少将に叙されたものの、早世していた。

 史実では、松殿家は嗣子無く断絶した後、江戸時代に摂家九條家の子息が再興したものの、嗣子無く再び断絶する。その後も九條家が清華家として再興するものの断絶してしまう。

 現在の松殿家は何とか堂上家として保っているものの、後の世では九條家が摂家や清華家として再興を試みる家なのだ。

 庶子とは言え、近衞家の子息である私が養子入りするのは問題無いと言えるのでは無かろうか。


 祖父は、私の提案に更に深く考え込んでしまったが、結局は結論は出なかった様だ。

「まだ三歳の子が深く考えることでは無い」と諭され、私と祖父の真剣なお話し合いは終わりを告げたのであった。

 しかし、美濃鷹司氏の様に地方の有力者と縁を結んで武士になる案や松殿家を継いで公家になる案など、祖父の頭に楔を打つことは出来た。

 今後は祖父や父が考えていくことになるだろうが、私が打った楔が機能してくれ、上手く事が運んでくれることを祈るばかりである。

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