第8話 別離

 嵐に襲われた夜更け過ぎの大通りを、屋根つきの辻馬車が走っている。人気ひとけの失せた街には雨風と蹄、車輪の音が響くだけだが、幌に覆われたくるまの中ではカーリとグレフが途切れとぎれに言葉を交わしていた。

「早いうちに手を組めなどと言っておきながら、ゴンドワヌはいちいち何を迷っていたのか。互いに策を練らなければ勝てる戦でも落とすというのに。しかしひとまずは戦わずして都を追われなくても済みそうだ。話に応じておいて損はなかろう」

 足下には洋燈ランプが置かれ、小刻みに揺れながら互いの顔を薄暗がりに映しだしている。二人とも頭巾フードつきの外套マントを被り、激しく打ちつけた雨が幾つもの筋となって床に垂れていた。

 馬車は広場の前を通りすぎ、ひたすら北に聳える城を目指している。屋敷から急いで呼び戻されたのは、かねてよりの使いが寄越されたため。だが副王は思惑があるのか、名指しでカーリがたった一人だけ、それと分かる形で出向くようにと申しつけてきた。

「毎度お前にばかり危うい橋を渡らせて済まない。こればかりは他に担い手がないのだ」

「間もなくあちらも兵を挙げるはず。私が引き受けるしかありません」

「お前がそう言ってくれるだけで嬉しい。明日からファラハは部屋の外にも出ないだろう。ゴンドワヌもここにきて動くとは、今日あたり氏長どもが集まった噂でも聞きつけたか」

 昼過ぎの様子を思いかえしてみると、たしかにイドワルは屋敷を留守にしていた。兵を使って襲ってきたのも、蜂起の兆しを掴んだうえでの先手かも知れなかった。

「これからお前は、戦で力を貸すように迫られる。イドワルと親しいお前と直に話をつけ、奴らに揺さぶりをかけるつもりだ。今さら確かめるまでもないが、どう答えればいいかは分かるな。ここでの戦の行方はもちろん、外からいつどちらの軍が来るのかなど誰も見通しがつかん。街中の小競り合いならともかく、万に近い数どうしがぶつかる戦など、手駒に兵馬の心得がある副王も先が読みきれまい。奴らを潰すために少しでも助けを得たいはず」

「存じております。どのような求めにも応じればよいのでしょう」

 望みとあらばただの力添えに限らず、細かな指図にも従うつもりでいる。それぞれの出方や話の流れによっては、事が終わるまで人質にされてもおかしくない。城に足を踏みいれるのが危ういのは承知のうえであり、いかなる扱いを受ける心づもりも出来ていた。

 しかし戦が始まってから、ファラハの身がどうなるかだけが気にかかる。傍で守りにつけないときは軍と軍のせめぎ合いから遠ざけられるか、戦が鎮まってからも共にいられるかどうか、その二つだけが頭の底にこびりついている。

「お前はまだ迷いを残しているな。あの娘が気がかりで仕方ないのだろう」

「はい、お恥ずかしながら。申し訳ありません」

「難しく考えるな。お前は副王の前で頷いてさえいればいい。少しばかり話が違っても、俺に報せてくれれば何とかする。これからまた面倒な役を押しつけたりはせんから、あとは娘を案じる役に徹しろ。今日の役を無事に降りられるかどうかが、あの娘を手に入れられるか否かを決めると思え」

 グレフは膝を古傷に蝕まれ、馬車に乗るのにも手下たちの助けを借りていた。このときもしきりにさするからして痛みもあろうというのに、迷いを見抜きながら責めてはこない。叱られても文句は言えないのに励まされ、暖かく情をかけられるのを肌で感じた。

 やがて馬車が止まり、雨の打つなか外から扉が叩かれる。

「いいか。城では大人しくしていろ。間違っても命を投げ捨てる真似はするな」

「必ずよい報せを持ちかえりますから、これ以上のお気遣いはいりません」

「必ず無事に根城まで戻れ。俺からたっての頼みだ」

 背を押されるように立ちあがり、瞼を薄く伏せたあと背を向けた。後ろ髪を引かれる思いはあったが、言いつけどおり事を済ませ余計な心配をかけるまいと、腰を折り重く濡れた幌を潜った。

 嵐は刻を追うごとに激しさを増し、馬車から出ると頭巾の裾が上にめくれた。片手で押さえつけても、吹き飛ばされそうなほど風は強い。いつも空から注ぐ月の光は、空を覆う厚い雲に遮られている。カーリは襟元の紐を固く締め、雨風を凌ぎながら早足で門まで急いだ。

 あらかじめ知らされているのか、番兵たちは四人とも槍を構えてこない。身振りで待つようにと引き留められ、程なくして鉄拵えの扉が内から開く。

「どうぞ、こちらへ」

 現れた一人は他より役が上と見え、肩当てからは細かな紐飾りを提げていた。カーリは手招きに導かれ、狭い庭を抜け庇の下で立ちどまる。

「ようこそお越しくださいました。貴方がカーリさまですね」

「間違いありません。副王殿下にお目通りいたしたく参りました」

 雨の滲みた外套を脱ぎ、一目でそれと分かる戦装束を現した。黒い不織布フェルト胴衣ベスト脚衣ズボンに加え、左右の腰それぞれに一振りずつ短剣を差している。名指しで呼びつけただけあり、年格好と照らして疑いを解いたらしい。

「申し遅れました。私は副王殿下の近侍を務めておりますラウーと申します。この嵐の夜にご足労をおかけしました。もし刻限が許せば丁重なおもてなしでお迎えするところではありますが、あいにく事が起こるまで差し迫っております。大変ご無礼ながら、このまま玉座までご案内いたします」

 カーリは外套を近くの兵に渡し、ラウーに続いて城の中を進んでいく。さして人の行き来が多くないせいか、靴で床を踏みしめるたびに音が天井たかくまで響いた。燭台の炎が風に揺らめくのに合わせ、壁へ二重や三重に張りついた影が蠢くように歪む。

「それにしても貴方は噂どおり見目麗しい。副王殿下もお喜びになるでしょう」

「身だしなみには気を遣っております。それなりに手間や暇もかけております」

「そのうえ心がけも素晴らしいともっぱらの噂。お年寄りやご婦人、娘さんを毎日のようにお助けしているのだとか」

「私たちの嗜みの一つのようなものです。何も私だけがそうした行いに励んでいるわけではありません。仲間たちも同じように人助けをしております」

「殿下はその謙虚さも気に入られるはずです。なぜ貴方を呼ばれたのが私にも分かります。きっとご用もすぐに済まされるでしょう」

 口先では痒いほどに褒めてくるが、耳にする側にしてみればそれも白々しく聞こえる。ならず者を主に会わせるにも得物を咎めないのは、逆らいようも逃げ道もないと見透かしているため。だからこそ戦の勝敗かちまけを決めるというのに、話の相手も一族郎党のかしらではない者を選んだ。そのくせ夜が遅い割に人の気配は絶えず、兵たちは数こそ少ないものの、しきりに声を潜めてはそこかしこを歩きまわっている。

 城の造りは大きいとはいえ、先を急ぐためか道のりは短い。入口から突き当たりの櫓まで真っすぐ向かい、あとは内壁うちかべづたいに伸びる階段をひたすら昇る。しばらくして再び分厚い鉄の扉が見え、十数歩のところまで近づくとラウーが足を止めた。

「この先に副王殿下がおわします。お一人でお進みください。作法に拘るお方ではありませんが、くれぐれも粗相をなされませんように」

 扉の閂が抜かれる間にも、務めを終えた後の憂いが頭に浮かぶ。戦がどちらのものとなるにせよ、果たしてファラハが思いどおりになるであろうか。副王が勝ちを収めたとなれば、近しい者たちから引き離さねばならぬ。親方の後盾はあっても、望みが叶えられるかどうかがどうしても心に残る。しかし戦に敗れて頼る者がなければ、死を免れないのは分かろうというもの。またイドワルのもとに置いたままでは、いつ身を守るためと称し家に閉じこめられるか知れない。やはり自らの手で解き放たんと、説けば必ずやついてきてくれると信じ、そのために是が非でも生きて城から帰ると胸に誓った。

 カーリは玉座の入口を潜り、一歩ずつ足を前へ踏みだしていく。奥では赤く伸びる絨毯の両脇に篝火が二本だけ焚かれており、部屋のほとんどが暗闇に包まれ、四隅はまったくの陰に隠れている。他に兵はおろか小姓の姿もなく、副王の姿だけが朧に照らされていた。

「近う寄れ。ここからでは口を利くにも遠かろう」

 躊躇いながら足を止めるうちに、副王から声をかけられた。後ろで扉が閉まり辺りがより大きな闇に落ちる中、入口と玉座の半ばほどまで進み跪く。

「かような光栄に与りますのは初めてでありますゆえ、どうかご無礼をお許しください。私めがお目通りを仰せつかいました、穴蜘蛛のカーリにございます」

「そう畏まらずともよい。儂がゴンドワヌである。申しつけどおりにそなたを寄越したこと、穴蜘蛛からの志と受け取りたい。まずは面を上げよ」

 ゴンドワヌは痩せて背が高く、髭に覆われた顔も細い。身に纏うのも紋章の描かれた法衣ローブであり、近くに剣や槍などは置かれていない。

「ところで今日こんにちは一人で参ったのか」

「いいえ。私たちの長であるグレフが、辻馬車で門の前まで参りました」

「すぐそこまで足を運ぶとは肝が太い。もともと我々とその方らは、このように戦でも起こらなければ相容れぬ間柄。儂の匙加減ひとつで、身が危うくなるとは考えなかったか」

「殿下は私どもの助けをお求めと存じております。都での謀反を鎮めようというのに、自ら首を絞める真似をされるとは思われません」

「そこまで分かっているなら話も早い。此度こたびの用がただの顔見世でないのは、頭目のグレフからも言い聞かせられておろう。事もさし迫っておるからして、挨拶もこのあたりで終わらせたい」

 カーリは音を立てずに息を呑み、喉の奥で親方からの言いつけを呟く。何を言われても、ただ頷いてさえいればこの場での用は済む。

「前に持たせたふみの返事はいかがか。戦ではいずれへつくか定まったか」

「些かも迷わず、殿下にお力添えをいたします」

「その方らの間で相違はないか。勝手に和を乱す不届者はあるまいな」

「一人たりとてございません。万にひとつ下賤の民に都を奪われれば、私どもも住処を無くすのは十分に心得ております」

「さすがは知恵が回ると噂に聞く穴蜘蛛らだ。儂の見込んだとおり。もし不甲斐ない返事であったらと困るところであったが、いちいち案ずるまでもなかったようだ」

 頭の上から向けられる濁った眼が、カーリはどうも気に喰わない。いくら副王の座にある者であっても、仕草や物言いがあまりにも不遜であった。それでもひとまずは手を組めたのに胸を撫でおろし、次に下される仰せを待った。

 ところが話がひと区切りつくと、ゴンドワヌは含みをもたせ立ちあがる。

「ときに儂はそなたに厚く礼を述べねばならぬ。今のところ下賤の輩など恐るるに足りぬが、どこからか探した旗印を掲げようとしておるらしい。その旗印というもウーゼルの血筋を騙り、その者の名において兵を挙げるという。ただの烏合の衆はたやすく蹴散らせても、あれだけの数が纏まれば兵たちも手こずるやも知れぬ。儂も策はないかと案じていたところで、そなたの噂を耳にしたものであるから、戦を前にして多少の差しさわりが取れた」

「穴蜘蛛でもおさや他の者ではなく、私めにでございますしょうか」

「いかにも。謀反を鎮めると申したからには、従ってくれるのであろうな」

「あの者どもを討ち取れるのなら、是非にでも力を尽くします。ですがその役を仰せつかうのに、何ゆえ私を選ばれるのか考えも及びません」

 いやらしく焦らされようと、苛立ちを表には出さずにいた。これまでと同じく都に住まうため、望みを叶えるためには平素を装わねばならない。たとえどんなに癪に障っても、首を縦に振りつつ場を切り抜けられればよい。

「聞けばそなたはイドワルの養女、ファラハと親しいというではないか。奴らの力を削ぐ手段として、かほどうまいやり方はおそらく他にない。傍にいたとて必ずしも懐くとは限らぬのに、娘の心をも捕らえるのは〝正義のカーリ〟でなくば出来ぬ業か」

「恥ずかしながらお耳に届いておりましたか。しかし殿下の策と関わりは」

 なぜその話を切りだすのか、街の取るに足らぬ噂を誰がいちいち報せたのか。何度となく外を歩いたからには城まで漏れたにしても、敢えてここで触れずとも済むはず。いや口振りから察するに、何かしらのよしがあるのではないか。胸騒ぎを覚え口ごもるのを、押しつぶすように遮られてしまう。

「存じておらぬか。ファラハこそ奴らが担ぎあげる旗印だ。どこまでまことかは分からぬが、裏ではウーゼルの血を引いておるとさかんに触れまわったらしい。すでに氏長のうち幾人かは、言い伝えのとおり王が舞い戻ったと崇め奉りおった。しかし妙な巡り合わせよ。ただのイドワルの縁者と思われた小娘が、奴らの錦の御旗であったとは、しかもそなたと深い仲であったとは」

 果たして何と口にしたか、カーリは耳を疑った。氏族を纏める旗印にしても、ウーゼルの末裔を名乗る者は他にいるのではないか。どこかに誤りがありはしないかと分を忘れ、目を大きく見開き近くまで擦りよる。

「いま何を仰せられました」

「今いちど教えて遣わす。奴らはウーゼルの末裔として、ファラハの名において兵を挙げるつもりだ。よくぞ飼い慣らしたとそなたを褒め称えておる。手の内に入れておけば、生かすも殺すも思いのままであろう。奴らを引き裂くのに、まことこれほど頼もしい者は他におらぬ」

 ゴンドワヌは冷たい瞳で、真上から見下ろしてきた。驚くのをはじめから見通していたのか、その様がまだ飽き足りないのか、痩せた頬に影を浮かべ唇の端を吊りあげる。

「気づかずいたとはそなたも鈍い。むしろイドワルを強かと言うべきか。氏長でもとりわけ力をもつ顔役が、血の繋がらぬとはいえ娘を賊に与えるはずはなかろう。早くから戦の始まりと我らの動きを見越し、下心を餌に釣りあげたのだ。頭数だけの有象無象を奮いたたせるための、大事な旗印を守らせるついでにな。用が済めば手元に置くつもりなどはない。国を建てた暁にはファラハを女王に就け、そなたとは有無を言わさず引き離すに決まっておる。それにしても昼と夜を問わず傍に付き添わせておきながら、頭が切れるはずのそなたを今の今まで謀った。見事な知恵は褒めてやらねばなるまい。おそらくはグレフも同じ腹だ。承知のうえでそなたを泳がせておいたのであろう。教えてやらぬとは何ともむごい話よ」

「では殿下の軍があやつらを破れば、いったいファラハはどうなります」

「イドワルをはじめ周りの者から、上に立つ者としての教えは嫌というほど授けられていよう。このまま戦を交えて敗れれば、むざむざと生きながらえはしまい。もしくは都から何処かへ去るか、いずれにせよそなたの前から消える。むろん儂も楯突かれたからには生かしておく気はない。名もない雑兵は別にして、謀反を煽りたてた氏長、取り巻きは残らず根絶やしにしてくれる。あのファラハとて小娘だからと容赦はせぬ。下らぬ言い伝えなど二度と持ち出さぬよう、見せしめのため散々に嬲らせ、存分に辱めたうえで腹から臓腑を引き抜いてやろう」

「止めろ。ファラハに手を出すな」

 思わず鋭く叫んだあと、カーリは慌てて目を落とす。あれほど釘を刺されたにも関わらず、煽りに乗せられ嵌められた。たとえ汚いやり方にせよ、下手を打ったのには落ち度がある。場を切りぬける術を探るも、血は波立つように脈打ち頭もうまくはたらかない。

「その言葉はグレフを裏切り、奴らにつくと取ってよいのだな。もしくはごろつき風情が揃って儂に刃向かうと申すか。そのように口走るのであれば、もう儂はその方らに信を置けぬ。このままではそなたを城に留め置き、ファラハを亡きものとするよう穴蜘蛛どもに申しつけねばならぬ」

「お願い申しあげます。どうかファラハだけはお助けください」

「小娘の生き死には儂の機嫌ひとつで決まる。兵や穴蜘蛛どもを使えば、あれだけを葬るのは難しくはない。ただしさきの振るまいは本意ではなかろうから、一度だけ慈悲を授けて進ぜよう」

 期せずして救いの手が差しのべられ、カーリは一縷の望みに縋った。犯した過ちを取り返し、許しを得られるのならと頭を起こす。

「まずそなたは力に訴えてでも、ファラハを身も心も我がものとせよ。謀反を起こす前に引き抜いてくれれば、奴らが足並みを乱した隙に儂が兵を率いて潰す。それが適わず儂の方が戦に敗れたときも、付かず離れずファラハの傍におればよい。月日をかけてでもファラハを取りこみ、儂の家臣たちやそなたの仲間を再び都へ招きいれるよう手引きせよ。奴らが戦で勝ちを収めたとしても、後から骨抜きにして裏から儂の思うとおりに操るのだ。元よりそなたが許されるのは、グレフを裏切るかファラハを手放すかの二つに一つ。それをせずどちらも手に入れられるとは、そなた何とも恵まれた果報者だとは思わぬか。もっともファラハが首を縦に振るかは、これからのたらし込みようにかかっておろうがの」

 もしファラハを助けられるのであれば、いかな責めにも耐えるつもりであった。だが出会ってから築かれた間柄は、欲に任せ謀に用いる卑しいものではなく、また決してあってはならない。ましてや口汚く貶められては、大人しく頷いてなどいられなかった。

「愚かな。それが答えか。娘をむざむざ手放すとは」

 怒りを露わに睨みつけるというのに、ゴンドワヌは逃げるどころか身構える素振りもない。逃げ道を塞ぎ外には兵も置き、刃向かわれぬものと多寡を括っている。だが玉座に焚かれる篝火はふたつだけで、あとは雨の打ちつける窓と板戸の隙間がうっすらと見えるのみ。カーリは左右の腰から得物を抜き、闇の力を呼びおこす呪文を唱えた。

──月夜よ癒せ、全てのものを。闇夜よ隠せ、煩いを。

 ファラハへの想いを踏みにじる者は、誰であろうと生かしておけない。煩いを手ずから消すべく、左右の拳を強く握りしめる。暗闇が夜霧のように立ちこめ、わずかに残っていた一切の光を断った。

 ようやく身が危ういと勘づいたか、ゴンドワヌが後ずさるも遅い。辺り一帯は魔力の闇が漂い、相手の瞼の上に覆い被さっている。いっぽうカーリは影に身を隠しつつも、玉座の前が全て見えていた。あとは二、三歩ほど足を踏みいれるだけで、刃をどこにでも突きたてられるまでにじり寄った。

 ところが飛び込もうと床を蹴りあげた矢先に、後ろから迫るわずかな気配を感じた。脇に仰けぞりかわしたつもりが、背の皮を薄く斬られている。

 振り向けばいつ忍び入ったか、シナンが二本の短剣を手に構えていた。魔力の闇に身を置いて目が利くのは、同じ力の使い手しかいない。初めから元の暗闇に紛れ隅で息を潜めていたのだ。

 しかも不意を打たれ怯む隙に、すかさず間合いを詰めてくる。いつもならばいなせる太刀筋も、このときはうまく流しきれない。ゴンドワヌも手を翳し、音を頼りに魔法の炎を放ってくる。繰り出される攻めの多くは勘で避けるものの、二人を相手にしては分も悪く浅傷ながら肘と肩に刃を受けた。

 ひたすら後手に回るカーリは、勝ち目がないのを覚った。玉座の扉は固く閉ざされ、よし開かれたとしても兵が待ちかまえている。ならばとシナンの突きをかわしざま、素早く胴を翻し一目散に壁際へ走った。扉のほかに残されたのは厚い板戸の張られた窓しかなく、その前で外に背を向けるや身を後ろへ投げだした。

 足下は宙へ落ちていくも、階下には幅の狭い庇がかけられている。さらに強い風が吹きぬけ、地面に叩きつけられるところを城の内側へと押し戻された。カーリは咄嗟に庇へ手をかけてぶらさがり、階ひとつごとに勢いを止め順に順にと下へ伝っていく。遅れて次々と呼子が鳴ったときには、足音を殺し石畳の上に降りたっていた。

 外はまだ嵐が収まらず、窓から漏れる灯りでは居所を掴まれるには至らない。松明や洋燈を持ちだそうとも、火種はどれも雨風ですぐにかき消える。四方を高い壁に囲まれていたが、再び魔法の闇を呼び起こして周りの目を眩ました。兵の足音がせわしなく響く中、カーリは暗闇を隠れ蓑に人知れず城の門を抜けていった。


 街中の裏通りをひた走りながら、血の滲むほどきつく歯を食いしばる。名指しで夜に呼ばれたのは、闇の魔力を侮ってのものではなかった。揺さぶりをかけて怒りを誘い、影から隙を突く狙いがあったのだ。まさかかつての仲間が密かに副王がたと手を結び、罠を仕掛けてこようとは思いも寄らない。しかも副王に面と向かって逆らったからには、穴蜘蛛たちへの締めつけは嫌でも強まる。裏切りまではたらかなかったとはいえ、かくも大きな過ちを犯したからにはただでは許されない。もはやどのようにして親方へ顔向けできるか、それさえもしかとは考えつかなかった。

 だが追手の気配も次第に消えていくうちに、腹の奥底からは激しい恨みの念がほとばしる。怒りに奔ったのに非はあるが、それも知らぬ間にイドワルから弱味を植えつけられていたゆえ。省みれば兵に追われる養女に外を歩かせたのも、ウーゼルの末裔として顔と名を売るため。他の娘たちはともかくファラハにだけは別の務めも任せ、少ない蓄えを削ってまで用心棒を頼んできた。長く虐げられてきた同胞はらからを救う言い分はあっても、情に付けいるさもしさはゴンドワヌといささかも劣らない。

 カーリは身を切る痛みに耐えかね、何者でも我が命を奪えと幾度も願った。だが声なき叫びとは裏腹に、いつしか都を巡る地下の道へ入りこんでいた。穴蜘蛛らのみ出入りの許されたそこは、いくら足音を立てようと誰も気づきようがなかった。

 当てどなく走るつもりが再び石畳に出、気づけば馴染みのある屋敷の傍まで近づいている。恩を仇で返されたからには、差し違えてもイドワルへ恨みを晴らさねばならぬ。何よりファラハへの望みがただ一つだけ残されており、それを確かめるまでは諦めるわけにはいかない。

 カーリは風に煽られつつも、拳で突き破らんばかりに屋敷の扉を叩く。すぐに中から慌ただしく物音が鳴り、大剣を提げたヨガイラが姿を現した。雨は止んでも月明かりのないせいか、互いの顔は暗闇に隠れている。

「城まで呼ばれたと聞いたから、昼はただごとじゃないのは分かった。兵士も外を走りまわってたから心配してたところだ。でも帰ってきてくれて良かった」

 知らぬ振りを装ったところで、謀の片棒は担いでいよう。これまでは小さな蟠りなど捨てていたが、むしろうち解けられただけに、ただで済ませては収まりがつかない。乾いた喉を擦るように、低く嗄れた声を吐きだした。

「ふざけるな。ついさっきは殺されかけた。そのうえよくも騙してくれたな」

「何の話だ。ゴンドワヌは俺たちの敵以外の何者でもない。しかしどうして」

「そのゴンドワヌから聞かされたぞ。ファラハをウーゼルの末裔として担ぎだし、この俺は用が済んだあと切り捨てるとな。俺は頼みを果たそうとしたのに、お前たちから俺を裏切るのか。裏では破落戸などと陰口を叩くくせに、その破落戸より下衆な真似をして戦に勝ちたいか」

 憤りをぶつけると、さすがに隠しだては適わぬと覚ったらしい。胸ぐらを掴んで強く揺すっても、得物を鞘にしまいされるがままでいる。

「落ち着いて聞いてくれ」

「では俺の話はただのでっちあげか。それとも偽りはないのか」

「待ってくれ。俺からでなく」

「はっきり言え。今すぐにだ。間違っても嘘の上塗りはするな」

 カーリは襟首をねじ切らんばかりに捻りあげ、ヨガイラを屋敷から引きずり出した。だが地面に引きたおして蹴りを浴びせようとしたとき、ふと赤々と燃える炎が闇夜に灯る。松明を手にした男たちが左右から、屋敷の中からは供を連れたイドワルが歩みでてきた。

「俺が邪魔になって、消しにきたか」

「ゴンドワヌから知らされたのだな。儂もお前を見込んでいたが、残念ながらここまでだ」

 凄んでも戸惑いや恐れは表さず、厳しい顔つきで少しずつ迫ってくる。騒ぎを聞きつけただけでこれだけの数は湧いてはこず、はじめから用済みとなった者は消すつもりであったと見える。相手の頭数を三十と計ったカーリは、やりあって勝ち目はないにも構わず、腰の抜き身を二本とも晒した。

 そこへ男たちがざわめき、その間を掻きわけファラハが現れる。

「お義父さま。お待ちください。言いつけに従う代わり、私からもお願いを申しあげたはずです。どうかカーリとお話をさせてください」

 その姿を目にしたカーリは怒りを収め、一度は握りしめた拳を緩めた。傷を押してまで屋敷まで赴いたのは、イドワルの首を狙うのみではない。ゴンドワヌの話が嘘か真かはともかく、ファラハの心までが同じか否かを確かめるためであった。

「ファラハ。ひとつだけ答えてくれ。今の話は本当なのか。それとも他の奴が勝手に仕組んだだけなのか」

 周りは担ぎあげるつもりでも、ファラハは固く拒んでいるのやも知れぬ。もしくはすでに受けたとしても、この場で首を横に振ってくれさえすれば、まだ救いの道が残されている。祈りを捧げるように炎の差す顔を仰ぐが、託された望みは細い声に打ち砕かれる。

「偽りはありません。私はウーゼルの血を継ぐ者として、戦では皆を奮いたたせる役を仰せつかっております。またそののちは、新しい国のために力を尽くすと誓いを立てました」

「するとファラハも騙してたのか」

「たしかに嘘をつきました。訊かれないのをよいことに隠しとおしました。貴方の仰るとおり恥ずべき行いです。しかしウーゼルの血を守るために、多くの方が命を落としました。私はその願いに背けません」

 カーリは再び短剣を取りあげ、切っ先をファラハへ向けた。やはり捨てられるのであれば、むざむざ生かしてはおけない。男たちが得物を向けてくるも望むところであり、一人でも道連れにせんとして足を前に踏みだしかけた。

 だがその男たちの目が、ふと遠くへ向けられる。後ろを振りかえると、グレフが四十の手下を引きつれ立っていた。

「何をしている。そいつはお前を欺いた憎い敵だ」

 先ほどからやりとりを耳にしているはずなのに、顔色ひとつ変えず物言いは固く冷たい。わずかに情をかける素振りは覗いても、まだ血の滲む傷を労ろうとはしなかった。

「副王の使いから事の次第は聞いた。シナンが裏切ったのも、玉座で何があったのかもひとつ残らずな。そこのイドワルも弱きを騙りながら俺たちを謀るとは、むろん黙っては見過ごせぬ。ただお前の仕業もまた、何の咎めもなしには許しておけぬのだ」

 取り交わしを反故にしたからには、ゴンドワヌはあらゆる言いがかりを突きつけてくる。指図に逆らっておきながら、罰を免れるほど穴蜘蛛の縛めは緩くなく、少なくとも落とし前だけはつけねばならなかった。

「いかがすれば許されますでしょうか。いえ掟に照らし合わせて、どのような刑を下されますでしょうか」

「その小娘の首をれ。それだけでお前の罪は俺が解く」

 相手の男たちは奥から斧や鎚を持ちだすが、穴蜘蛛の一味も得物を取り身構える。そのあいだカーリはグレフへ向きなおり、両の腕を垂らして俯いた。

「どうしてもでございますか。他の罰には替えられませんでしょうか」

「なぜ迷うのだ。そこの小娘とイドワルは芝居を打って、お前を弄んだのだぞ。この場で討ちとれば怨みも晴らせようし、機嫌を損ねた副王への手土産にもなる。お前の腕をもってすれば難しくはなかろう。恩を仇で返す人非人だ。さあ、心の臓に刃を突きたてろ」

 はじめは促されるがまま、再び怒りを噴きあがらせる。ファラハの澄ましかえったつらの皮を剥げば、その下はどれほど醜かろうと睨みつけた。だが二本の短剣を振りあげても、身じろぎひとつせず目を見開いている。決して開き直るのでない、それでいて慎ましい立ち姿を前に、形ばかり土を蹴りだしたのみで力は失われた。

「畜生」

 カーリは溢れる涙を抑えきれず、手から得物を離し膝を折る。両の肘で深く地を突き、ファラハの足下に跪いた。いくら無理を強いても、もはや臓腑から四肢にいたるまで、どこにも憎しみは残されていなかった。被さるようにファラハにから肩を抱かれると、ところどころ痛んだ胴衣の上から暖かさが伝わった。

 もし用心棒の話が舞い込まなければ、何事にも惑わされず楽に暮らせたであろう。争いが起こっても謀が企てられなければ、シナンも袂を別たずに済んだかも知れない。しかしファラハのおかげで、無法、無頼と誹られていた魔道から救われた。人並みの情は得られぬはずであったのに、それを身をもって教えられたのだ。そのファラハへどうして刃を突きたてられよう。二人はともに静かに涙し、イドワルらも相争うのを忘れた。

 しかし穴蜘蛛の一味は、険しい顔でカーリを見下ろしている。中でもグレフは目元に濃い影を落とし、頬に深い皺を刻んでいた。

「それがお前の答えか。その小娘を取るために、俺たちと縁を切るというのだな」

「はい」

 心苦しくはあるものの、迷いはなかった。しっかと腰を上げ両の足を土に打ちつけ、鋭く突きささる眼差しを真向かいから受けとめる。

「てめえ。黙って聞いてりゃ、さっきから虫のいい事を」

「おまけに下手を踏みやがったうえに、そのざまとは恥を知れ」

「こうなったらファラハとそこらの奴らともども、てめえの首をやって示しをつけるしかねえ」

 かつての仲間たちから罵られても、カーリは足に根が張ったように踏みとどまる。この期に及んで縁を切るなど許されるはずはなく、死をもって償うのが穴蜘蛛の習わしであった。グレフも同じ腹づもりなのか、喧しく騒ぎたてる手下を鎮める。

「黙れ。話をしているのはこの俺だ。勝手に喚くな」

 はじめカーリは同じ殺されるのでも、勢いにまかせるのを止めるだけだと胆を据えた。だが様子を窺うに違うらしく、腕を伸ばして横槍が入るのを防ぎ、たった一人ですぐ傍まで進みでてくる。

「たしかにお前の罪は、ただでは解いてやれない。ただし俺もうすうすはファラハを疑っておきながら、泳がせるようにけしかけたのも確かだ。それに逃げれば命だけは助かるのに、お前は無様な真似をせず今ここにいる。その意気を汲んで落とし前はつけさせてやろう。お前が俺たちの間から去るというなら筋を通せ。文句のつけどころがないよう理由わけを説いてみせよ」

 カーリはグレフを前に、声には出さぬ情を読みとった。先ほどと違い面から怒りや激しさは消え、眼は燃えさかる炎を穏やかに映しだしている。親と子さながらの長い付きあいから、骨の髄にまで染みわたった心得を試そうというのだ。間違いなくこれが親方と交わす最後のやりとりとなる。不意の問いであるにも関わらず、胸の奥深くからは淀みなく答えが湧きでた。

「いずれも穴蜘蛛の掟に定められております。まず一つ『仲間を裏切ってはならぬ』と。これゆえに黙ってお傍を離れるのでなく、許しを得てからお別れをするのでございます。また『親方の命に逆らってはならぬ』とありますが、親方を戴くのは穴蜘蛛に身を置く者のみです。続いて『嘘をついてはならぬ』とあるよう、私は自らに嘘はつけません。さらに『人を妬んではならぬ』とあり、イドワルが卑しい行いに出ようとも私たちが蔑む筋合いはありません。そして『弱き者に手を出してはならぬ』のですから、都を治める副王については掟に悖ります。これらの教えに従うからこそ、今日こんにちにて縁を切らせていただくよう、お願いを乞うものでございます」

 情けに礼をもって応えんがため、与えられた限りの知恵を振り絞った。息を吐くなりグレフは頷き、両の肩に優しく手をかけてくる。

「見事である。さすが義に篤いと音に聞こえたカーリの名に恥じぬ答えだ。穴蜘蛛として契りを交わした者は多くあっても、これほど固く掟を守った者を俺は他に知らない。さあ顔を上げてくれ。今いちどお前の顔を、この俺に見せてくれ」

 続いて大きな掌に頬を覆われ、カーリもグレフを見つめる。年老いて姿形は変わっても、温もりは幼い頃と少しも変わらない。

「かつて捨てられていたところを拾われてから、この日まで傍に置いていただきました。まるで血の繋がりがあったかのように、育てていただいたご恩を忘れはしません」

 これだけ口にすると、グレフは顔を隠すように身を翻した。

「さらばだ。息子よ」

 遠のく痩せた背を見送るカーリの頭には、かつての思い出が蘇る。初めて務めを任されたとき、病を見舞われたとき、厳しくも心篤く叱られたとき、手柄を認められたとき、そして親方みずから身を挺して辛くも命を救われたとき。去りやるときも引きずる足は、未だ痛みに苛まれている。

「お前たち、引き上げだ。カーリは奴らに匿われた。副王には、もう手の届かないところまで逃げたと伝える」

 手下たちも胸の内を測ったか、みなグレフに続き屋敷から退いていく。もし相見あいまみえることがあるとすれば戦場いくさばであり、どちらに転ぼうとも再び手を取りあうことはない。慣れ親しんだ姿と足音が消えても、カーリはしばし暗闇を眺めつづけていた。

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