第7話 計略

 陽が西に傾きかける頃、ヨガイラは屋敷で大剣の手入れをしていた。仲間うちでは同族が敵軍を破り近くに迫ると噂され、都でも戦の兆しが強まりつつある。ファラハは三日前から外へ出るのを止め、部屋の中で日を過ごすようになった。周りにも数人の召使いを代わるがわる番につけており、そう易くは兵たちを近づけさせないよう護りも固めてある。

 だがその中で一人、昼と夜とを問わずファラハの隣に佇むカーリにだけは鋭い目を向けていた。近く争いが起きるからには、屋敷を出入りするのにも何かしら企てがあるはず。街で出くわしてから二十日の間、何事もなく一つ屋根の下で暮らしていても、いつ刺客に早変わりするか知れたものではなかった。

 わざわざカーリを手元に置く狙いは、かねてから聞かされていた。副王らと刃を交える前に様々な知恵を借り、穴蜘蛛の動きを探るためであるという。それでも戦が明るみに出、お互いそれとなく話に上るようになってなお、負けたときはファラハを一身に託すとイドワルがカーリへ頭を下げたときは、ヨガイラもその考えを図りかねた。表向きは力を貸す振りをしながら、壁蝨だにのような賊がいつまでも味方でないのは誰の目にも明らかなのだ。

 召使いもこれまで散々な目に遭わされてきたのに、ファラハとともにカーリをもてなしている。誰もが前から知る顔であるのに、外から帰っても名を呼ぶのは余所者の方が先になっていた。椅子を勧められるのも茶を出されるのも、決まってついでのように後回しにされる。どちら馴染み深いか、ものの順がまるで逆ではないか。都を離れるまでは一目を置かれたのに、戻ってみればいつの間にか二の次、三の次に扱われている。ほんの少し留守を空けただけで、盗人ぬすびとから居所を奪われたのに等しい。不埒者が幅を利かせ我が物顔で居すわるというのに、誰も追い出そうとしない。どれだけ周りに媚を売ったか知れないが、金で雇われただけの用心棒に、身内の多くがうまく手懐けられている。

 正体を暴こうにも、尻尾を出す素振りが窺えなかった。むしろ会うたびに立ち居振るまいは穏やかさを増し、果たして無法の輩かと疑うほどであるだけに余計に迷う。ヨガイラは剣の柄を確かめる傍ら、少しまえ偶然に目にした街を歩く二人を思いだした。


 都のとある薬屋で一人の老婆が、なけなしの金を手に薬を乞うていた。店主みせぬしは忌々しそうに追いはらうが、通りがかったカーリが財布を手に声をかける。

「親父。忙しいところ悪いが、ひとつ薬を買いにきた」

「どの薬だい。今は慌ただしいが品は揃ってる。言ってくれりゃすぐ棚から出すぜ」

「さっきの病持ちが欲しがってたのだ。いくら出せば売ってくれる」

「くれてやってもいいが、どうしてあれを欲しがるのかね。効き目があるのはほとんど死に損ないのばばあだよ」

「店をやってる割には分かってないな。俺が買って高く売りつけるか、恩を着せて貸しをつけてやるんだよ」

「じゃあ金貨二枚でどうだ。悪どく稼ぐにしては手頃なあたいだろう」

 顔見知りの店主みせぬしを言いくるめ、金と引き換えに薬を受けとった。他の賊であればやりとりの通り、稼ぎのため薬を取り引きするところではある。だがカーリは薬屋を去ったあと、ファラハが引き止めていた老婆に惜しげもなく渡した。

 他にも二人でいるとき、向かいから子供が駆けてきたことがあった。碌に前を見ていないのか、横に避けるファラハを掠めるようにぶつかる。いちど倒れ石畳に膝を突き、再び走り出だすところへカーリが声をかけた。

「おい。少し待て。そこのお前だ」

 子供の歳はおよそ十くらい、裾や袖はどこもすり切れ、肌はどす黒く垢に覆われている。一度は逃げようと試みるも、上下とも黒づくめの衣装と腰の短剣を前に立ちどまった。

「先を急ぐのは分かるが、大事なものを忘れてないか。行く前に大人しく置いていけ」

「何を言ってるか分かんないな。お願いだから言いがかりは止めてよ」

 それなりに度胸はあると見え、しらを切り通すつもりらしい。小さな右手を固く握りしめ、なかなか脚衣の衣嚢ポケットから出そうとしない。もっとも少し睨みを利かせただけで、小さな顔が紙のように白く染まっていった。

「今ならただで許してやろう。往生際が悪い奴は損をする」

 声色が穏やかなうちに諦めをつけ、程なく刺繍つきの財布を差しだした。金貨でも詰まっているのか、やたら重そうに五本の指で掴んでいる。カーリは取りあげてから口を開いて中を覗き、怯え惑う子供へ戯れに目をやった。

「下手にこんな真似はしない方がいい。どうしてものときは相手を選べ」

 財布を閉じると子供は聞きわけよく場を立ちさり、二人とも急ぎ足で遠のく背中を見送る。カーリはすぐに歩きだしたが、ファラハは子供が姿を消してもしきりに後ろを振りかえっていた。

「助かりました。でもあの子が何をしたか、どうして分かったのですか」

「俺も前は同じように、ああして掏摸すりをさせられてた。俺たちの仲間でも年端のいかない餓鬼が、使い走りからよく言いつけられる。もちろん手ぶらで帰ったりしたら、少しは痛い目に遭わされるだろうが」

「どんなことをされるのですか。もしかすると怪我をするかも」

「あの歳じゃ、拳骨か張り手を喰らうだけで済む。そんなにひどい仕打ちは受けない」

「でも可哀想だわ。さっき少しでも渡してあげれば良かったのに」

「お情けでくれてやったところで、さしてありがたがらないな。逆に相手からお恵みを施された方が恥だ。だいたいあの顔からして、また誰か狙うに決まってる。むしろ手違いで仲間に手を出しといて、ただで済んだだけでもかなりの儲けものだ」


 ヨガイラはこのような行いを、遠くから何度か目にしてきた。相手は何も病者びょうしゃだけと限らず、道ゆくあいだ様々な者を折に触れては助けている。あるときは手負いを見かねて家まで届けたり、家に押しいる金貸しを諦めさせた。またあるときは貧民どうしの争いに割って入り、それぞれの非を糺すこともあった。他にも用心棒の務め如何に関わらず、似たような施しを欠かさず続けていると他の者からも聞く。

 しかしいかに義が篤いと謳われるといっても、ただのならず者がここまで形振りを装えるであろうか。声高に叫ばれる弱き者への労りなど、形ばかり掲げられるだけのはずである。破落戸ごろつきたちは裏でそれらを踏みにじっており、真心から掟に従うとは考えにくい。カーリがかような真似をするのは、ファラハと仲を深める下心の為せる業とも受けとれ、親しく語らう二人を前にすると疑いを解くのは危ぶまれた。カーリがかような真似をするのは、よりファラハと仲を深める下心の為せる業に違いない。互いに意を通じさせるだけでなく、身体も我がものにしようと企むのであれば頷けた。はじめは屋敷に出入りするだけであったのが、寝泊まりを許され部屋まで与えられている。見張りを解こうものなら何をしでかすか気が気でならない。

 問いただそうと機を窺うと、カーリが回廊を一人で歩くのが見えた。ファラハは変わらず別の部屋におり、召使いたちに囲まれ話を続けている。二人が離れたのを見はからい、ヨガイラから近くに歩みよった。

「お務め、毎日ご苦労だな。ひと休みしてるところ少しいいか」

「このままで良ければ構わない。お前も息をつく暇もないだろう」

 澄ました振りは気に入らなかったが、いちいち声を荒だてるのは控えた。何日も続けて顔を合わせたおかげで慣れている。カーリもそれなりに意を汲んだか、辺りの気配を探りややあってから立ちどまった。

「いったい何のつもりで、わざわざあんな真似をした」

 ヨガイラが老婆と子供の件を持ちかけても、さして気を張るような様子はない。話を打ちきろうとするどころか、両手を後ろに組み斜向かいに壁へ寄りかかる。

「お前も知ってのとおり、戒めに従ったまでだ。俺はファラハの傍にいても、親方や仲間と結んだ契りを反故にする気はないんでね。もちろん看板も守りとおすつもりだ」

「さっそくお決まりの禅問答ときたか。だがお嬢さまがいなければ違ってたはずだ」

「たしかにその通りかもな。知らずしらずのうち心得を疎かにしてたのを、はっきり気づかせてくれた。感謝もしている。遭わずにいたら後々まで悔やんでるところだ」

「本音が出たか。やけに素直だ。早くも開きなおったな」

「戒めには『嘘をついてはならぬ』ともある。偽っては定められた戒めに悖る」

 下手に筋が通るだけに、ヨガイラはすぐには切り返せない。相手は無法者であるのに卑しさや疾しさは覗えず、自らの方が無理矢理に因縁をつけているようにさえ思える。それでも迷いはすぐに振りはらい、押しきられまいと話を続けた。

「ならばこれにも答えてもらおう。お前は頭目のグレフから、俺たちを見張るように言いつけられているな。戦を前にただ用心棒を続けるはずがない」

「たしかに頼みを受ける代わり、お前が言うとおりの指図は受けた」

「お嬢さまを取りこめ、ともか。それとも近づいたのはお前の考えか」

「どちらもさ。親方に打ちあけたら仲を認めてくれた。イドワルから託されたように、戦がどちらに転んでもファラハを守れと。副王が勝てばファラハだけはお前たちの中から救いだし、負けてもどこかへ落ちのびればいいとのお許しまでいただいた」

 口振りに嫌味はないのに、やたら耳障りに聞こえる。周りから知らされていたものの、直に伝えられるといっそう鼻持ちならなかった。ヨガイラは悔しさを紛らわせようと、脇目も振らず食いさがる。

「しかしお前たちは副王の側につくのだろうが、それこそ掟に背きはしないのか。副王が勝てばお嬢さまが悲しむくらい分かるだろう」

「必ずしもお前たちが『弱き者』とは限らないし、何があっても親方に従うだけだ。どちらも苦しまなければどんなにいいかと思うが、俺ひとりではうまい考えが思いつかない。だからファラハには出来ることをするつもりさ」

「だったら戦で力を貸すようお嬢さまから乞われたとしても、グレフに背くつもりはないんだな」

「直に刃を交えてから出来るかは別として、今のうちなら喜んで手足になろう。何をしてほしいか、もう伝えられているのか」

「俺たちは頭数だけなら多いが、一人ひとりの力はずっと弱い。副王とぶつかる前に何ができるか、知恵を貸してくれと頼まれたらどう答える。もしお前が副王とやりあうとして、どんな策を立てて挑む」

 鋭く向けてくる眼つきから察するに、問いをかけた側の腹づもりを見抜いている。さすがに答えを濁すかと思いきや、腕を組み浅く顎を引きながら辿々しく口を開いた。

「俺なら真っ先に城門を塞ぐ。都にある五つのうち東寄りの三つだ。城の外では互いに何度もぶつかったらしいが、まだどちらが勝つかは分からない。門を開けはなしておいたままでは、下手をすれば挟み撃ちに遭って終わりだ。だったら外での戦とはあらかじめ切り離しておく。これまで得物も振るったことがないお前たちなら尚更だ。余計な噂に惑わされずに済む。ここでの戦から気を散らさないよう、生きるか死ぬかの覚悟を決めさせる」

 時おり躓く話しぶりなどからしても、まやかしや嘘偽りを弄している様子はない。伝えられた策は理に適っており、戦が起こっても十分に使えるように見受けられる。ただし未だにファラハを引きこもうとしている以上、素直には聞きいれられない。策も明かして差しつかえないものであろうし、それをもって欺き穴蜘蛛の都合にいいよう導く恐れがあった。

 ところがヨガイラが考えを巡らせる一方、カーリは壁から離れて回廊を歩きだす。左手を腰の得物に軽く当て、そこかしこをしきりに見回した。

「静かに。声を潜めろ」

 短い叫びに従い気配を探ると、外から幾人かの息づかいがかすかに伝わる。ヨガイラは元の部屋に置かれた大剣を取り、身構えながらファラハたちに促した。

「お嬢さま。早くお逃げください。いつものように地下へではなく、天井の隠し部屋へ」

 召使いも奥へ行かせた矢先に、不意に扉が音を立て大きく揺れる。中の動きに気づいた相手は力ずくで来た。細い錠はさしてたず脆くも折れ、甲冑を纏った兵たちが扉を蹴破り押し入ってくる。

 そこへカーリが懐剣ナイフを抜き、真っすぐに先陣を切る兵へ投げつけた。刃は喉から血を噴かせ、身体を勢いよく床に這わせる。

 ヨガイラも遅れを取るまいと柄を握りしめ、前から迫る兵へ突きを繰りだした。槍のように長い大剣の刃は、重い物打ちで帷子ごと背まで深々と貫く。続けて兵が襲いかかるも退かず、蹴りで骸を刃から引きはがしざま再び突きを喰らわせる。狭い部屋では攻めるにも得物を取りまわさず、並べられた卓や転がる骸で両脇の隙を埋めた。

 ただ兵たちは数で上回り、さらにもう一人が後ろから現れる。三人目ともなれば迂闊には飛びこむのは止め、落ち着いて間合いを見計らってきた。得物の刃が長いだけに護りで後手に回り、魔力を用いようにも集まりが遅く、出方を決めあぐねる間に少しずつ間を詰められていく。

 しかし危ういかと半歩だけ退いたところへ、横から助太刀が入る。カーリが椅子を蹴って兵の脚を挫き、体が崩れるのを逃さず後ろから頭を割った。最後の一人が倒れたあとも構えは崩さず、静まりかえった部屋の隅々まで眺め回している。死骸と横たわる六人のほか兵はいないのに、しばらく得物をしまおうとしない。

「どうかしたのか。傷でも負ったか」

「いや、今しがたどこかへ消えたようだが、さっきまで外に誰かがいた」

「もういないか。皆を呼んでも平気か」

「大丈夫だ。ここまで戻る様子もない」

 二人で言葉を交わす間に気配は消えたらしく、短剣はようやく二本とも鞘に収まる。倣って大剣を立てかけたヨガイラは、大きく息をつき荒れはてた床に目を落とした。もし刃を振るえる者が一人だけであったなら、生き延びられたかどうか分からない。分が悪いながら兵たちを討ちとれたのも、二度にわたるカーリの助けがあってこそ。つい先ほどはきつい口を利いたが、命を救われたとあらば頭を下げねばならなかった。

「礼を言う。さすがに今のは危なかった」

「危なかったのはお互い様だ。それよりなぜ兵が襲ってきたかが気になる」

「戦を前にイドワルさまを狙ったんだ。もちろんお嬢さまが見つかれば、ただではおかなかっただろう。目当ての者がいなくても、縁者を人質にするつもりだったかも知れない」

「違うな。外に出ていたときは兵が遠くにいても勘づいたのに、今日は屋敷の傍まで近づくのを許してしまった。俺に気づかれないよう気配を消していたんだ。それだけの手練れなら、いま外に出ているイドワルを消すのも難しくはない。ここが氏長の家なのは前から分かっているだろうから、今日になって襲われたのもおかしい」

 互いに考えを巡らせるうち、ファラハが二階から降りてきた。床に倒れ伏す兵を見とめるなり、床の上にしゃがみそれぞれの死骸を覗く。実の父とイドワルからの教えが身に染みついており、命を奪いにきた者も救おうとする。しかし触れてすぐ息絶えたのが分かったのか、傷口に当てた掌を静かに引いた。

「悪いがたしかにとどめを刺した。もう手の施しようもないはずだ」

「助けられたのは私なのですから、気に病まないでください。でも助からなくても痛みだけでも和らげばと思って、どうにかしようとしただけですから」

「ならせめて亡骸だけでも、少しは綺麗にしてやろう。血で汚れたまま捨て置くよりは、死んだ奴もいくらか浮かばれる」

 カーリも隣で屈み、自ら刃を下した手で屍を弔う。幾人か召使いの助けも借り、四方に投げだされた手足や捻じまがった首を伸ばし、目立たぬよう傷を繕い汚れを拭った。留守役を預かるヨガイラを除いては皆が輪となり、死してなお辱められぬよう亡骸を厚く布に巻いた。

 だが程なくして、開けはなたれた扉の前に一人の男が現れる。格好からするに穴蜘蛛であったが、ヨガイラが近づいても無理に押し入ってはこない。

「ここにカーリが来ているはずだ。すぐに呼んでもらいたい」

「今は少し立てこんでいる。しばらく待ってくれないか」

「一刻を争う急ぎの用だ。早くしてくれ」

 寄りそう二人を見守りたく思うも、相手の様子はただごとではなかった。息は荒く、都のどこかから必死に駆けてきたようである。ヨガイラは入口で待つように命じ、いちど奥まで足を運んで声をかけた。

「カーリ、お前に客だ。後にしてもらうか。どうする」

 カーリは部屋から顔を出し、扉の方に目を向けた。男の形を確かめると、やや急いで戸口を潜り外へ出ていく。

「申し訳ないが、少し外してもらえないか」

 ヨガイラは黙って首を縦に振り、大人しく扉を閉めた。わざわざ訪ねてきたからには、よほど急ぎの報せを持ってきたのだ。盗み聞きをはたらく真似はせず、用が済むのを待つ。それからさほど経たずして、カーリが部屋まで戻ってきた。

「済まない。親方から直々の言いつけが下った。どうしても外せないから、少しのあいだここを空ける」

「また兵が来るかも知れない。お前に行かれては俺たちが困る」

 屋敷に留まると踏んでいたヨガイラは、血の気の薄い痩せた頬を見た。裏切りや心変わりではなく、何かしらの止むにやまれぬ情が窺える。

「頼む。出来るだけ早くここに帰る。心許なければ代わりの者を寄越してもいい」

 なお引き止めようと答えに詰まっていると、話を聞きつけたファラハが後ろに立っていた。小走りに歩みより間近まで歩みよる。

「分かりました。お待ちしています。だから他の方が来なくてもいいように、すぐに帰ってきてください」

 後を押されたカーリは、頷きかえしただけで背を翻した。ファラハは後を追って短い回廊を抜け、直には手を触れず戸口に立つ。身が危ういのも省みず軒先から注ぐ眼差しは、深く澄みわたるだけでなく潤んでもいる。ヨガイラも頼みを託されては拒みようがなく、姿が消えるまで二人でその背を眺めた。


 陽は落ち夜が訪れても、ファラハは部屋の奥に戻らなかった。二階の縁側から顔を出し、雲の立ちこめるなか遠くを見やる。わざわざ口にしないなでも、誰を待ちわびるかは屋敷の皆が知っていた。近ごろ一人では落ち着かなかった仕草が、このときはどうにかなりそうなほど目につく。ヨガイラは時おりその姿を見とめては、溜息とともに階段を降りた。

 これまで実に長い間、想うがゆえに尽くしてきた。我が身を盾として役人や兵士たちから守り、寂しさを訴えられたときには手を取り慰めもした。周りから仲は認められずとも、変わらぬ情を注いでいると胸を張って言える。

 しかし幼い頃から焦がれ慕った者を、どこの馬の骨ともつかぬ輩に掠めとられたのに、今や悔しさなどはつゆも胸に湧いてはこない。あれほど追い求めた輝く瞳、儚くも白い肌、甘く響く声もいずれもが、憎むべき恋敵の手に渡るのにも関わらずである。

 省みればファラハと結ばれるのに、相応しい行いを取ってはこなかった。ともに身を守る務めを任されながら、気に入らない一心で事あるごとに喰ってかかった。また二人が睦まじく語らうのを妬むあまり、兵が屋敷の傍に来ていたのにも勘づけなかった。いっぽうカーリは命を救ってくれたばかりか、いちいち恩を着せようともしなかった。こうまで自らの恥を思い知らされ、潔さを見せつけられては奪われても悔しさなどない。ファラハの全てを自らの手で、惜しげもなく譲り渡せる。

 だが燭台の炎が揺らめく中、回廊の板張りに影が差した。薄暗がりから杖を突き近づいてくるのは、昼に留守を空けていたイドワル。外での用を済ませ、少し前に屋敷へ戻り休みを摂っていた。

「もう話し合いは終わったのですか」

「ああ。誰ひとり異を唱える者はなかった」

 この日に氏長の集まりが開かれ、何を決めるかをヨガイラは教えられていた。一人でいるところに話を持ちかけてくるからして、何を言わんとするかは窺える。

「ヨガイラ。ついに蜂起の刻が来た。早ければ明後日、遅くとも五日のうちにはついにここでも兵を挙げる。お前には戦の術を知らぬ皆を率いてもらいたい」

「では忌病いみやまいに冒されていた者も、ともに立ちあがるのですね」

「ファラハをはじめ、氏長の娘たちはよくやってくれた。かつてはあの者たちも打ち棄てられていたが、医術を施した甲斐もあってかなりの数が動けるようになった。あの商人あきうどを消して手に入れた油も、どこからも嗅ぎつけられていない。我らが国を取りもどすのにまたとない好機だ」

 これまで虐げられていた同胞たちが、ついに反旗を翻すのだ。屋敷に召使いとして出入りするのも、姿形こそ変われど深傷ふかでや重い病から救われた者が多い。他の氏長のもとでも頭巾フード外套マントを被った男たちが、荷運びや水汲みなどの力仕事を任されている。その数は実に二百五十を超え、おそらく副王も勘定に入れていない。

「ではこのまま皆に呼びかけるのですか。刻と場を定め集まるように報せるのですか」

「むろん勢いだけに任せる真似はせん。だからカーリから知恵を引きだすよう、お前に頼んでおいたはずだ。今日は帰ったようだが、うまくいったか」

「ファラハの名を挙げて、ひとまず策を聞きだしました。もっともその通りに動いて、罠に嵌まらないかは怪しいところです。穴蜘蛛の動きまでは探れませんでした」

「よい。使えるかどうかは追って諮ろう。まやかしにせよ、何も聞きださぬよりましだ」

 そこで話をいちど切るのが、ヨガイラはどことなく腑に落ちない。策を採る、採らないの前にいかにして皆を纏めるのか。たとえ数だけを集めてもこれまで啀みあっていた氏族が蟠りを捨て、力を携え気勢を上げなければ間違いなく負ける。少なくとも軍を導く身にしてみれば、それが決まらなければ勝てるとは思えなかった。

「お待ちください。まだ他にあるのではありませんか。戦を始めるにも誰の名において皆を集めるつもりです。どの者を頭に据えるか、今日の集まりで決められたのでしょう」

 イドワルは答えを避けるのか、眉に皺を寄せて黙りこむ。その様を目にするだけで背に悪寒が走ったが、そこから先をヨガイラは言いあてられない。答えを促すより早く、白い髭に覆われた口が重々しく開かれた。

「ファラハだ。ファラハの名において我らは兵を挙げる。氏長たちも口を揃えておる」

「それは何ゆえでございますか。何ゆえファラハが選ばれたのでございますか。ファラハがウーゼルの血を引くとでも仰るのですか。仮にそうであるとしても、他に誰もいなかったのでしょうか」

「そうだ。儂も散々に探しまわったが、他に血を引く者はついぞ見つけられなかった。あれを預かる前から半ば決めていた。事をうまく運ぶために、昔から馴染みのお前には伏せておいた。いいや、お前が想いを寄せるのに付けいって、傍で護りにつかせた」

 話は受けいれがたかったが、顧みるとこれまでの経緯いきさつにも合点がいく。兵に襲われるのに病者びょうじゃを見舞わせたのは、他の娘と同じように傷などを癒すためだけではない。外を歩かせ町衆まちしゅうに顔と名を売り、戦にあたって崇め奉らせる狙いがあった。カーリを近づけさせたのもファラハを手放すつもりがないために他ならず、グレフとまともに綱引きをするとは端から考えていない。イドワルからなぜ仲を喜ばれなかったのかも判った。

「どのようにして血を継ぐと説いたのですか。証となるものがあるのでしょうか」

「左肩に浮かぶ羊の紋章だ。屋敷に招いた氏長たちに見せ、誰もが間違いないと認めた」

「しかし言い伝えの痣だけでは。それをもって末裔と騙るのは、偽りではありませんか」

「口を慎め。あれをこそ聖痕せいこんと呼ばずして何と呼ぶ。他の氏長たちもそのように信じておるし、広く知らしめると皆が諸手を挙げて引きうけてくれた。戦に勝った暁には古くからの慣わしに則り、夜に篝火を焚いた紅玉石ルビーの神殿でファラハが冠を戴くことも決まった。今になって覆せば、纏まりかけたそれぞれの氏族は四方に散ってしまうぞ。この機を逃せば我らはいつまでも虐げられる。再び国を建てるため迷いは捨て、皆が歩を揃え立ちあがらねばならぬ」

 すでに事は翻せぬところまで進んでいる。ファラハが言い伝えにある王の血を引くかを問うのではなく、その者として祭りあげると氏長たちから定められた。今さら我が儘を押しとおすために、訪れた好機を台無しに出来ようはずがない。

 何よりヨガイラが幼い頃から、何度も辛い目に遭わされている。都から遠い田舎や小さな街では、かなりの家が食うのにさえ苦しんだ。医者はなく流行り病に手がつけられず、冬は碌に身に纏うものがなく多くの者が凍えて過ごし、不作の年は赤子や年寄りが何人も飢え死にをしていった。役人たちも鞭を振るう手を緩めず、歳が同じほどの友、親代わりの兄、また弟妹と可愛がった者たちが苛め殺された。

 そして自らはそれらを目の当たりにしつつ、稀な力を生まれ持つがために難を逃れている。仲間から庇われて生を得たからには、なおさら無念を晴らす責を負っているのだ。そのためには何を引き換えにしようと、己ひとりだけなら諦めはつく。

 だがファラハの傍にはカーリがおり、互いに想いを通わせている。先ほど兵の屍を前にしたときも、すぐ隣で肩を抱きよせて慰めていた。ファラハもやり場のない悲しみに耐えてはいても、久方ぶりに人目も憚らず甘えていた。

「カーリはいかがいたしましょう。ファラハの身を二度も守ったばかりか、頼みどおり昼と夜とを問わず付き添っております」

「我らの妨げにならぬなら、終わるまで手元に置いておきたい。あまり間はないが、どちらにつくか決める暇だけは与える。これまで繋ぎとめておいたのだから、グレフと縁を切ってくれるかも知れぬしな。だが事が全て済んだ後でファラハを手放してくれるか。妙な気を起こすようであれば、それなりの犠牲を払ってでも始末しなければなるまい。それにしてもお前は、なぜそのように問う。まさか」

 ヨガイラは口元をきつく閉め、深く頷いてみせる。痛みを覚える胸の内は、まさしく言わんとする通りであった。

 虐げられる民の頭に立ったからには、勝ちを収めた後は玉座に据えられる。傍目からは羨まれる王の位も、就かされたとなれば多くのものに縛られるであろう。しかも否応なしに担ぎあげられた上に、民へ全てを捧げるよう求められる。余所者との交わりなど跡も残さず断たれ、見ず知らずの者と無理矢理に結びつけられるのだ。ようやく身も心も預けられる者を見出したのに引き裂かれ、娘としての幸せを再び奪われるのである。

 いや時が経てばファラハは務めを果たすうち、いずれ痛みは忘れるやも知れぬ。血を流した身内を秤にかけては、手を切れと迫られて首を横には振れまい。しかしたとえわずかの間だけでも、心を尽くした者への報いとしてはあまりに酷い。ようやく妬みを捨て二人を祝えただけに、言いつけに従うのはなおのこと躊躇われる。

「お前には辛い役を押しつけてしまった。そのうえカーリと啀みあうのを止めていようとは、儂も目を離す隙に気づかなんだ」

「私は進んで傍に仕えたのですから、お恨みなどいたしません。しかし私たちの勝手で二人を引き離すのが悔やまれるのです。あれほど破落戸ごろつき、ならず者と蔑んでおきながら、そのならず者が忌み嫌う卑しい行いを我々がはたらくのですか。私の代わりにファラハを幸せにしてくれたのに、どうして恩を仇で返す真似など出来ましょう」

「やはり気が咎めてならんか。儂も勇んで人に誇りたくはない。誰からも非道と誹られて当たり前の仕打ちだ。これではどちらが人非人か、聞いた者にさぞかし呆れられよう」

「せめてカーリが心卑しければ、迷わずに切り捨てられるのに。どうして破落戸の群れにあのような者が混じっていたのでしょうか」

 溜息をつき肩を落としてみても、いたずらに時を費やしてはいられなかった。カーリを気の毒に思いはしたが、やはり仲間たちを救うためには仕方なく思われる。あとはいかにしてファラハへ明かすか、取りもどした笑みが再び失われると知り、これから長きにわたり重い務めを負わせると誰の口から告げるかが気にかかった。

 だが幸か不幸か頭に浮かべる顔が、不意に扉の間から覗く。

「お義父さま。今のお話は本当なのですか」

 いつしかファラハも階段を降り、部屋に足を踏みいれていた。顔は見る影もないほど青ざめ、力をなくした脚を支えるように細い指で戸を掴んでいる。

「どこから聞いていた」

「もうすぐ兵を挙げられると。あとカーリをどうされるのかも」

 色を失った唇は、弱々しげに小さく震えていた。吐かれる息も糸のようにか細く、喉から血が滲まんばかりにひどくかすれている。

「私は実の父に常日頃から、左肩の痣を隠すよう申しつけられておりました。お義父さまに引き取られたのもただの縁故ではなく、氏長の方にしるしをお見せしたのも何のためか存じております。ですから皆に尽くすのは今さら迷いませんが、カーリを裏切るのはお止めください。任されるお務めも承知のつもりです。決して投げだしたりはしませんから、どうかお願いですから、カーリの命を奪うのだけは」

 涙に濡れた面を掌に伏せ、嗚咽を漏らす頃には声も消え入っていた。その打ちひしがれようたるや、傍からでも嘆きが滲みるほどに伝わる。ヨガイラは少しでも痛みが和らげればと、どうにかして慰めようとした。

 いっぽうイドワルはその場から動かず、顔じゅうに険を走らせ眼を鋭く窄ませる。握り拳に力を込め杖で床を突き、声音も荒々しく責めたてた。

「そうまでして命を乞うのは、カーリを愛するためであろうな。だがお前を守るために散った者たちは顧みぬのか。みな国が蘇るのを願って命を落としたのに、この機を逃しては我らは再び虐げられる。名のある氏族などは根絶やしにされるやも知れぬのだぞ」

 ファラハは幼い頃から聡くはあれど、慈しまれるばかりにひどく脆くもあった。ヨガイラの知るかぎり、面と向かって怒りをぶつけられて抗えるたちではない。ところが上を向く顔は悲しみに暮れる代わり、瞳を脇へ逸らさず真正面へと突きつけた。

「お義父さまが私をここに迎え、もてなしてくださったことは感謝しております。実の父をはじめ多くの方々にも、言い表せないほどのご恩を感じております。しかし私はもう十分にカーリを騙しつづけてきました。それを悪びれもせずにまた騙すのですか」

「切り捨てられると知って、大人しく引きさがると思うか。カーリに邪な目論見や下心はなかろうが、後ろにはグレフらの一党がおる。お前を取りこんだうえで身柄を押さえ、我らの動きを封じるつもりだ」

「決してあちらの思惑には乗りませんし、お義父さまの元からも離れません」

「間もなくお前は素性を明かさねばならん。さすれば必ずや奴らの耳に入る。決して結ばれぬと覚られれば、どうなるかは目に見えておろう。必ずや怒りに任せここまで押し入り、儂はもちろんお前を手にかけにくる」

「カーリはそのような方ではありません。話せばきっとお分かりになるはず」

「穴蜘蛛の輩が裏切られたと取って、力に訴えずにいると思うか。カーリにその気がなくとも、周りが黙ってはおるまい。今度こそ辱められるどころか、刃を突きたてられるのだ。命を落としてはお前の務めは全う出来ぬ。我らの願いよりカーリの心を取るつもりか」

 激しく詰めよられても、頬に涙を伝わせながらその場に踏みとどまる。青ざめていた頬には血の気が戻り、両手が壁から離れても二本の足で立っていた。唇の縺れや震えは止まり、声はくうを貫くように淀みなく響く。いつぞやと違い情に浸るのみではなく、このときこそ罪を償わんがために祈るのだ。

「ではカーリの命を奪った私たちが、果たして都を治められるでしょうか。恩を仇で返す真似をして、多くの方を導いていけるでしょうか」

「いくらお前が愛するとて所詮はならず者だ。さして多くは強く咎めまい」

「ここでの争いが終わった後も、私は皆を束ねなければならないのでしょう。しかしどんなお務めを任されたとしても、一人では何も立ち行きません。お義父さまをはじめ、戦に出た多くの方のお力添えを仰ぐことになります。そのとき人の心を掴まずに国を築けるのですか。政を仕切る氏長の中にも、おそらく一族の名に拘る方が出てきます」

「和を乱す者は是が非でも取りのく。お前を知らぬ者は、儂が手を尽くして顔を繋げよう」

「そのようにお互いが譲らなかったために、かつて私たちは相争ったのではありませんか。これまでのやり方では再び国が割れてしまいます。裏切りを礎に一度は纏まっても、必ずや同じ過ちが繰り返されるでしょう。カーリに真心で応えられずして、見知らぬ方から力をお借りできるとは思えません」

 ファラハは足を前へ踏みだし、両の掌を合わせ胸に当てる。その身振り、立ち居振るまいからは賢さと志の固さが溢れていた。

「私はカーリを信じています。私たちの行く末が分かっても力を貸してくれます」

 イドワルは喉の奥で低く唸ったあと、ややあって首を縦に振った。ついにファラハの想いが勝り、カーリの命を救う望みを繋いだのだ。だが一たび道を決めたとなれば、別れを告げねばならぬ。よもやこの短い間に、強くも儚いえにしが結ばれようとは。ヨガイラはせめて二人が救われるのを願うとともに、その巡り合わせを呪った。

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