第6話 密命

 空が闇夜に包まれる頃、城の門を二人の男が潜りぬけていく。一人は副王に仕えるラウーであり、もう片方は外套マントを羽織るシナン。仲間から半ばうち棄てられたせいで務めを投げだしても、知らぬ顔で街をふらついてもまったく咎められていない。屋敷の下に忍び入ってからというもの、謀を報せるため兵とたびたび通じていた。

 初めて足を踏みいれた城の中は、ところどころ火の灯される燭台に照らされている。外からも窺えるように、間口や高さは広く石組みもきわめて堅い。趣は古いが柱や梁に細かな飾りが施され、壁には色褪せ崩れかけた画が残されている。すでに明け渡されて久しいものの、かつてここに間違うことなき王が居を構えていたのだ。

 そして階段を昇る先には、王国から遣わされた副王が控えている。都で生まれてこのかた穴蜘蛛として育ち、法に背くならず者として貴族や兵たちとは間を置いてきた。元より傍まで近づくのはもちろん、顔を合わせるなど許されるものではない。しかし都の主を左右する戦を前に、副王みずからの計らいで城に招かれている。周りは剣や槍を携える兵で固められ、身の振りを誤ればすぐさま命を奪われるのは見えていた。

 腹の内で出方を勘ぐるうちに、番兵ふたりが護りを固める玉座まで辿りつく。厚い鉄拵えの扉が重々しく開かれ、顎をしゃくるだけで先へ進むよう促される。 導かれるようにラウーの後へ続くと、真ん中には幅の広い絨毯が敷かれていた。部屋の四隅には篝火が焚かれ、奥には副王の位に就くゴンドワヌが座している。肩から垂れる長い法衣ローブと、口や顎に蓄えた赤い髭が揺れる炎に鈍く光った。ラウーは薄暗がりのなか四、五歩ほどの近さまで歩み出、足下に跪き恭しく頭を下げる。

「殿下。仰せつかいましたとおり、例の者を連れてまいりました。こちらに控えております者が、穴蜘蛛のシナンにございます」

「二人とも面を上げよ。後ろにおるそなたが間違いないか」

 倣って首を垂れていたシナンは、すっかり乾ききった唇を開く。壁に跳ねかえって響く低い声は、骨の髄まで浸みるように重い。

「私が穴蜘蛛が一人、シナンでございます。本日、初めてお目見えいたしますこと、恐悦至極に存じます」

「堅苦しい挨拶はよいから近う寄れ。そのままではなりがよく見えぬ。まずはその鬱陶しい布きれを取れ。儂がまだ間近で目にしておらぬ、件の装いで参ったのであろうな」

 機嫌を損ねぬよう前に出て紐を解けば、外套の長い裾が輪となって床に落ちる。下からは胴衣ベスト脚衣ズボンをはじめ、穴蜘蛛の装束が露わとなった。先ほどまで身なりを隠していたが、今や不届者の形を御前に晒している。

「怯えるでない。儂は穴蜘蛛の形を眺めたいだけだ。なるほど町衆に混じっても一目で分かろうというもの。その方らはみな似たような装いでおるか」

「はい。人目を欺くときは別として、色などは違いましてもおおむね同じにございます」

「それは腰のものにも言えるか。穴蜘蛛に加わる者はその得物を差しておるものか」

 指をさされた腰の左右には短剣があったが、兵の目を盗み持ちこんだものではない。しきたりに従えば取りあげられるところを、あらかじめ腰に帯びてもよいと許されていた。

「必ずしも二本と限りませんが、私どもはみな短剣を携えます」

「よく考えぬかれている。路地裏など狭い中で振るう分に扱いやすかろう。都に根を下ろすため編まれた技を代々に磨いておるのだな。手強いのも頷ける。だが街中での争いに長けるのは、おそらく得物の腕前だけではあるまい」

「仰せのとおり、私どもには多数と相対する仕手が伝えられております」

「申してみよ。たとえば四人の兵に追われたとして、いかにすれば退けるか逃げおおせる」

「まずは背を向け走りまして、追手の足並みを乱します。次いではじめに迫る一人を仕留め、また逃げる振りをいたします。これを繰りかえして数を減らし、もし気づかれれば裏道などへ誘います」

「では穴蜘蛛なら誰かれを問わず、さような真似ができると考えてよいか」

「いいえ。私はいつぞやの争いで四人を仕留めましたが、そこまで立ち合える者は多くありません」

「ならばカーリと申す者はどうだ。そなたに腕は及ばぬか」

 元はならず者の賊を城に招くからには、様々に企てる計らいは幾つもあろう。しかしその名を出されては、すぐに口を開けない。

「先ごろファラハを仕留めるため遣わした兵が、四人もろもとも街中で返り討ちに遭った。下賤の者どもはカーリの仕業と申すが、耳にするだけでは信じられぬ。果たして巷の噂が真実まことか否かを、この場でそなたに問うてみたい」

「おそらく誤りはございません。ファラハの傍にいたのはあやつにございます。そこまで腕が利く者は、仲間うちでも多くおりません」

「そなたも腕を高く買うものよ。しかしかほどの手練れを討ち取るにば、差しむける数も増やさねばなるまい」

 気に障っても、面と向かって迫られては素直に力を認めるしかない。思いあたる使い手は幾人かあるが、話から察するにカーリの仕業なのだ。副王もただものを訊ねるだけでなく、顔を斜めに傾けるなどして何かしら申し出るのを待っている。

「恐れながら兵を増やしたところで、手筈を変えなければ難しいかと」

「そなたはその故を存じておるな」

「あやつは私めと同じ、闇の魔力を備えております。油卸しの商人を館にて殺めたのも、夜の暗がりに乗じ密かに忍び入っての手口。たとえ街中で追いかけても姿を眩ましてしまいます。いえ兵が近くに現れただけでも、身を守るために素早く逃げ去りましょう」

 並のやり方では難しいと分かっても、いかにして隙を突くかが思いあたらない。ゴンドワヌはその先が出ないのを確かめ、脚を組み頬杖をついて宙を眺めた。

「力ずくで消すのは諦めた方がよさそうだな。むしろカーリ、もしくはファラハを敵に回さぬようにすれば、人手を割いてつけ狙わずとも用は済むか」

「何と。殿下はどのような思し召しで仰せられるのです」

「都の外から下賤の輩が来るのに合わせ、もうじきここでも奴らが兵を挙げる。百年のあいだ糸口さえ掴めなかっただけに、謀反を起こす手筈にぬかりはあるまい。烏合の衆を纏めるに他の何にも替えられぬ、旗印のファラハは是が非でも守りとおすはず。ファラハの周りを固めるのが身内だけなら手の出しようがないが、あの中にカーリが交じっているのなら話は別だ。聞けばそのカーリは、ファラハと想いを寄せあっていると聞くではないか。そこでそなたの手柄が役に立つ。ファラハが何者かは外に知らされておらず、下賤の輩の間でさえ幾人かを除いて伏せられたままでおる。だから儂がじきじきにカーリを呼びよせ、真実まことの謀を教えてつかわそう。ちょうどその方らの頭であるグレフには、戦を前に手を結ぶよう書状を送りつけてある。まさに絶好の機だ」

 カーリが穴蜘蛛に身を置くからには、必ずや城まで赴くに違いない。戦の勝ち負けが穴蜘蛛の行く末に関わるのも、ファラハが貧民の旗印では結ばれないのも分かろうというもの。それを説いたうえでゴンドワヌの意のままに動かそうというのだ。セルクの民が集まろうとしている旗印を奪いとれれば、おそらくは氏族どうしが纏まりきらずに勢いを失う。

「つまりカーリを使い、ファラハを亡きものにすると仰るのですか。しかし城に呼びつける手筈は整っているとして、果たして殿下に従いますでしょうか」

「むしろ儂から訊ねてみたい。カーリがどれほどファラハへ惚れ込んでいると見る」

「かつてあそこまで入れあげたのは覚えがありません。おそらく今なら、他のものなどほとんど目にも入らないはず。私はあやつがファラハを殺めよと命じられ、逆上しないかと案じているところでございます」

「何も儂はファラハを始末するよう強いるつもりはない。カーリを操ってこちら側に引き抜けば、貧民どもから旗印を引き抜いたも同じ。いくらウーゼルの血を引くと騙れど、あれも小娘に過ぎぬ。政を直には取りしきれまいし、愛しい者に説かれれば自ら旗印を降りるやも知れぬぞ。とかくカーリを通じてファラハを使い、奴らをかき乱しも骨抜きにもできる」

「しかしすでに穴蜘蛛の誰かが掴んでいたとしたら」

「そのときは仕方あるまいが、容易く耳に入るとは考えにくい。万が一に聞きつけたとしても、カーリにだけは知らせぬよう周りが手を尽くすはずだ。気づいても大人しく旗印を手にかける、もしくは引き抜きにかかるとは限らん。どんな動きに出るか分かったものではない。グレフにしても儂に従うかどうかは怪しい。ファラハをうまい口実にして、強請でもかけてこられたら厄介だ。まず儂としては直にカーリと顔を合わせてみたい」

 シナンもファラハを亡きものとする限りは話に乗り、この玉座でカーリと顔を合わせようかとも考えていた。また情に付けいるのも、下手に力で訴えるより、さして手駒を減らさず貧民たちを骨抜きにできる良策であるとは思う。ただし副王が二人の仲を認めるとあれば、これほど酷い仕打ちはそう他にあるものではない。恋敵の睦まじい仲をグレフともども認められ、指をくわえ眺める羽目になるやも知れず、一人だけいいように間で踊らされ損を押しつけられてしまう。

「ならばカーリの出方によっては、二人とも生かされるおつもりですか」

「無論だ。儂の腹臣となった者を、どうして殺めねばならぬ」

「私は殿下の身を案じております。果たしてあの食わせ者を、うまく取りこめるかどうか」

「つまらぬ顔を見せるでない。まだあの小娘に未練があるのなら、下手を打った自らを恨むのだな。だいたいあれも目を引くところといえば、髪の色とウーゼルのものと騙る血筋だけであろうが。顔もあれより上はいくらかあろうし、身体もやせ細りもったいつけて碌に肌も表さぬと聞いておる」

「しかし私はファラハが惜しうございます」

「今さら何を申す。まだグレフが儂に書状の答えを出しておらぬ以上、心内こころうちはどうあれそなたは裏切りをはたらいておるのだぞ。儂に背くなど許されようがないはず。もし我らが敗れれば穴蜘蛛の一味は都で生きていけぬが、勝つか、争いそのものが起こらなければ今までどおり暮らしていける。策が功を奏せば罪は注がれるどころか、大手柄を挙げたとして手落ちなど帳消しにされる。儂からもそのように取りはからってつかわす。もっとも儂に逆らったうえ戦でもしくじれば、どうなるかは言うまでもなかろう」

 取りすがろうとしたシナンは、冷たい石の壁に響く声に怖気だった。罰を受けてひと区切りついたとはいえ、掟破りの烙印はすぐに消えるものではない。親方のためを思い陰ではたらくにせよ、何者かが告げ口しようものなら是非もなく消される。何処とも知れずいとまも与えられず、闇へ葬られ晒し者とされるのは目に見えていた。その刻というも戦が終わるのをいちいち待つまでもない。玉座の窓や出入口はラウーらにより固く閉ざされており、城にはごろつきを助ける者などいようはずがなかった。まさに己の生殺与奪がゴンドワヌのたなごころに握られている。

 とはいえ示された策は、あくまでも都を明け渡さぬのが狙いであった。目障りな旗印をシナンが奪えば、カーリを玉座に招かずとも戦の先手を取ることはできる。

「しかし殿下の身に何か起これば取りかえしがつきません。ファラハを秤にかけるとしても、カーリをお傍に近づけますからには何をしでかすか」

「儂みずからが何の力も持たぬと思いこんでおるな。一族より副王に選ばれたのは、それなりの由があるためよ。ちょうどよい機会であるから、そなたには見せておいてやろう」

 ゴンドワヌは玉座から腰を上げ、法衣の袖から白い手を伸ばした。すると程なくしてくうに巨きな炎が現れ、ほんの僅かだけ燃えあがりすぐ闇に消える。そのあいだ使い手は眉ひとつ動かさず、息も喉元で小さくつくかつかぬばかり。これほどの魔力を備えていれば、腕の振るいようで戦の向きを大きく変えられる。皮肉にも火の神を崇める民は、奪われたものと同じ力の持ち主によって虐げられていた。

「そのうえそなたが傍におれば、誰が儂に傷を負わせるのか。仮に叛意を表したところで、同じ闇の力をもって退けられるであろうから」

「ですが命を省みず襲ってきたとしたら、間合いを二、三歩まで詰めるだけで首のひとつは掻ききれます。私が脇から止めに入っても、果たしてお守りできるかどうか」

 命じられるとおり部屋の隅に控えたとして、暗闇に紛れるからには玉座から十歩は離れなければならぬ。他の者ならまだしも、カーリを咄嗟に仕留められるかどうかは疑わしい。ゴンドワヌは顔を横に逸らし、薄く瞼を伏せて再び玉座に腰を下ろした。

「そなたに並ぶほどの手練を近寄らせるのは、たしかに危ういかも知れぬ。ウーゼルの血筋を絶やすか奪うか、手筈はどうあれ用が済むのなら儂はどちらでもよい」

「ありがたきお心遣いに存じます。では私めがカーリの首級しるしを挙げ、ファラハを葬るかこの城へ連れてまいります」

「あくまであの小娘にこだわるか」

「奴らの勢いを削いでおけば、戦は必ずや殿下のものとなりましょう。度を越して抗うときは刃を突きたてますから、うまく事が運んだ暁にはどうかファラハをお与えください」

「あい分かった。そなたには幾人かの手兵をつける。ファラハもみすみす奴らの手に渡さぬ限り、城の地下牢に囲い好きなようにせよ。たとえ世を儚み自害しようがそなたに靡こうが一向に構わぬ。見せしめにして怯ませるのに使えるかも知れん。ただし兵も暇も限りあるゆえ許すのは一度きりだ。しくじれば大人しく引きさがり、儂のもとに戻ってまいれ」

 シナンは胸を撫でおろし、右手を短剣の鞘に添え片膝を突いた。今しがた副王に申し出たとおり、カーリとは腕前にほとんど差はないといってよい。助太刀を得ても返り討ちに遭う恐れは大いにあったが、黙ってファラハを引き渡すよりはましであった。話も終わるかと退がりかけたところで、ゴンドワヌから思い出したように呼び止められる。

「最後に遅ればせながら、そなたには褒美・・を与える」

「私にでございますか。まだ手柄は挙げておりません」

「いいや。奴らの旗印をファラハと突き止めたばかりか、カーリごと引きこむ手がかりまで掴んでくれた。謙遜せずに受けとるがよい。出来れば心持ちを変えてくれればありがたい。それとラウー、そなたがすぐにでも手配をいたせ。時と場を追ってシナンに報せよ」

「畏まりました。ではこれにて失礼をいたします」

 ラウーが再び歩み出、足下で深く頭を垂れる。倣うようにその後へ続くが、何を与えられるかは知らされていない。ただ二人のやりとりを訝しみながら、兵に囲まれ玉座から回廊へ連れだされた。


 十日後、シナンは褒美を受けとるために、ひとり大通りを歩いていた。昼だというのに人気ひとけがやけに少なく、多くの者は家々に隠れて時おり窓の隙間から顔を出すのみ。近ごろは兵と町衆まちしゅうの小競り合いがはじまり、騒がしさと静けさを一日おきに繰りかえしていた。このときも見せしめに殺されかけた、貧民二、三人ほどの声が遠くから聞こえる。

「不滅のウーゼル王の一族ばんざい」

 槍で身体を貫かれ息絶えるのに目を背け、城からほど近い宿の扉を潜った。穴蜘蛛の仲間たちは見放したのか、根城に顔を出さなくなったというのに塒を訪ねてもこない。今さら装いを隠す気もなく、馴染みの胴衣と脚衣のまま番台の前に立つ。人の姿は見あたらなかったが、どこからか気配だけが漂っていた。

「誰か。誰かいないか。今日、ここに部屋が取られてるはずだが」

 長卓カウンターに肘をつけて人を呼ぶと、宿番が急ぎ足で出てきた。誰の名で部屋が取られているか訊ねようともせず、指に唾をつけて宿帳を開いた。

「シナンさまでございますね。どうぞ、もうお連れがお待ちです」

「他に泊まる奴はいないのか」

「いらっしゃいません。城壁の外では戦が起こったと聞きますし、ここでも間もなく始まるともっぱらの噂です。余所からお越しのお客さまが、すっかり途絶えておりました」

「都への出入りがないのでは、商いもまともにできんな」

「もちろんです。私どもも、しばらく店を休もうとしたのですよ。そこへ来て貴方さまがいらっしゃいましたので、少しばかり潤いました」

「では上がるぞ。部屋はどこに取っている」

「二階の突き当たりになります。ごゆっくりとお寛ぎください」

 部屋代は前もって払われていると見え、奥へ進むよう差ししめされる。中はいたるところに埃が厚く積もり、床などは踏みしめるたび音をあげ軋んだ。階段の手すりは木材がささくれ立ち、壁や天井もそこかしこがすり切れている。

 二階に上がると、それと思しき部屋があった。この先に誰かしらが待っているのであろう、扉を拳で叩きもせず取手を回して引く。ところが目に飛び込んだのは一人の女、いやおそらくは窓際に佇む娘であった。

「これは失礼、間違えた」

「お待ちください。貴方がシナンさまでしょうか」

 シナンは部屋を出ようとするも、名を呼ばれて足を止め、与えられるものを知らされなかった理由わけに気づく。これがコルヴナバからの褒美なら、城に出向いたときに渡されなかったのも頷けた。

 歳の頃は二十歳そこそこ、長い金色の髪が窓から吹きぬける風に揺れている。目は大きく鼻筋は通り、とりわけ肌が際だって白くきめ細かい。装いは絹の礼服ドレスと胸紐に、宝石のあしらわれた金の腕輪など贅の凝らされた品で固められていた。いずれも娘の艶やかさを引きたてており、その姿は寂れた部屋の床や壁から浮かびあがるようであった。

「ああ。たしかに俺だが。お前も副王から命じられて来たのか。ここで誰と何をすると知らされたのか」

 だがシナンが訊ねても、首を縦には振らない。事細かに探りを入れるまでもなく、身内から売られて来たのだ。頼み主の名などはじめて聞いたのか、顔はひどく強ばり、両肩を抱く腕は大きく震えている。

「たしかにうちは昨日、どこかからご褒美を貰いましたけど、あたしは父と兄から言われて連れてこられただけなんです。そうしたら兵士たちが宿の前に立ってて、これに着がえて貴方を待つようにと。この話がそんなとこから来てたなんて知らされませんでした」

 誰からも恐れられる無法の身であれば、女ひとりを買うのにいちいち躊躇いはしない。しかしこのような経緯いきさつで売られた娘を、勧められるまま慰みものにしてよいものか。シナンが迷ううちに、いつの間にか娘の方から歩み寄ってくる。

「お願いですから、どうかあたしとしてくれませんか。はっきり聞かされてませんが、何をされるか大体は分かってます」

「なぜだ。見たところ、男と寝るのは初めてじゃないのか」

「正直に言うと、恐いんです。あたしはまだしたことがありませんし、男友達ともたまにしか顔を合わせてません。でも家は前からお金を借りてて、貰った分でようやく返しただけなんです。もししてくれればまたご褒美が出て、父も兄ももっと楽ができるんです」

 娘を買うのが家の支えとなるならば、むしろ拒む方が情に欠ける行いのように思えた。敢えて望みどおり抱いてやるのが、弱き者を助ける穴蜘蛛の掟や心得にも適う。ただし買うなり思うさま事には及ぶ真似はせず、それとなく椅子に掛けるよう促した。

「さっきまで構えてたってのに、身の変わりが早いんだな」

「皆が前から噂してた、穴蜘蛛の人と知らされたから。逃げたら殺されるとも脅されて、さっきまでは恐かったんです」

「別に間違いじゃない。俺は誰からも煙たがられる、鼻持ちならないならず者だ」

「だからすぐ襲われると思いこんでました。でもこうしてみると話とずいぶん違います」

「ひどい嫌われようで参ったな。だがそこだけは堅気より厳しく躾けられてる。無理はしないから安心しろ」

 向かいに座り優しく労ううち、シナンもほのかな嬉しさを覚えた。名や力ずくで押しとおすのでなく、娘を慰めるのにこれほど胸を焦がされようとは。酒場や賭場に出入りする女にはない恥じらいが何とも微笑ましく、身振りから気がほぐれる様子も窺える。だが指一本を触れるのもまだ早い。日頃から男と顔も合わせていないからには、少しでも手ほどきを授けておかねばならなかった。

「それにしても急な話で落ち着かなかっただろう。俺からは食うに困るようには見えないが、よっぽど家が貧しかったか。親兄弟はどうやって暮らしてるんだ」

「とりあえず煉瓦焼きをしてます。でも重い税をかけられたせいで、土や薪を買うお金もなくなりました。まともに食べられるのはあたしだけ。父や兄は野良犬や猫を捕まえて飢えを凌いでます。こないだは油売りが襲われたけど、うちには何の助けにもなりません」

「お前はセルクびとか。だとすると周りも苦しいんだろ」

「同い歳の子はもっと早く売られてます。あたしは祖父が氏長だから遅かっただけで」

「氏長の孫ならこうなる前に、誰かから助けが入りそうだが」

「大きい氏族なら別みたいだけど、力のないところは見向きもされません。だいいち祖父も蓄えが尽いて、うちに差しいれる分もないんです」

 いかに打ち棄てられた民といえど、氏長の血を引く娘まで売られるとは憐れであった。かねてより噂に上っていても、直に耳にすると尚更である。シナンは気を紛らわせるべく、娘の身なりに目を移した。

「しかしその腕輪、着け方がよくない。ものの分からない奴が形だけ繕ったんだな」

「こうなってるのが正しいのか変かなんて、あたしもぜんぜん分からないんです」

「宝石の見せ方がおかしい。左だけ内側にひっくり返ってる」

「でもきつく嵌ってるわ。こうすればいいの」

「いちど緩めないと肌が傷つく。俺が直してやるからじっとしてろ」

 外し方も知らず金具をいじる娘を止め、二の腕にそっと右手を添える。指先で腕輪の口をいちど開き、向きを変えてから音を立てずに嵌めた。捻れた首輪も飾りをつまみ、元のあるべき姿へ戻す。そのあいだシナンの気遣いが伝わったか、何度か直に触れても娘は怯えるような仕草を見せない。

「綺麗になっただろう。着け心地も前よりいいはずだ」

「はい。でもどんな風なのか、ここじゃ確かめられなくて」

「部屋に鏡さえあれば見せてやれるんだが」

「いいんです。今までは男の人に会っても、どうすればいいか誰からも教わりませんでした。それなのにこんなに優しくしてくれて、恐い人じゃなくて良かったと思ってます」

 娘は椅子から離れ、覆いの掛けられた寝台ベッドに腰かけた。覚悟を決めたらしく、瞼を伏せては大きく息を吐き、首筋にうっすらと汗を浮かべている。シナンも頃合いを見はからって隣へ座り、傷ひとつつけぬよう肌の露わな肩に腕を伸ばした。

 しかしその指先が直に触れることはなく、掌は空を切って寝台の上に置かれる。たしかにこれまでは周りから恐れられるばかりであったのに、優しさを認められたのは初めてでもあり嬉しく思う。親方からの教えが血肉となって流れているのも確かめられた。だが別の娘からそれを見出された男が、よく知る者の中にすでにいる。カーリが噛みしめたであろう喜びは味わえても、いま交わろうとしているのはファラハではない。忘れようと努めても嫌でも蒸しかえされ、瞳に映る娘の顔は水面みなもに石を投げたように歪んでいく。

「どうしたの。今さら止めるの」

「悪いがそうさせてくれ。今日はどうも気が晴れない」

「あたしを汚いと思うの。そんなに嫌なの」

「いいや。お前ほどの娘はそうはいない。でも無理だ。どうしても出来ないんだ」

「家はどうしたらいいの。貰えるはずのお金を取りあげられてしまうの」

「お前が損をしないように、俺から城の連中に伝えておく。しばらく経ったら家に帰って、褒美が届くのを待っていればいい」

 シナンは引き留められながらも、腕を振りほどいて部屋を出る。娘がなお追いすがり扉を叩くのを、外から固く閉ざし背で押さえつけた。

 この娘が褒美として選ばれたのは、ファラハを思い起こさせるためであろう。言葉づかいこそ粗いものの、生まれや育ち、金色の髪、顔立ちなどはどれも通じるものがあった。加えて娘の身の上も近いにも関わらず、家や縁者が貧しいせいで無下に虐げられている。もしやすると貧民たちが担ぎあげようとしている、ファラハの下敷きにされたのかも知れなかった。苛立ちを紛らわせるためとはいえ、慰みものなどにしては穴蜘蛛の心得にも背く。

 ようやく戸を叩く音が消えてから、シナンは宿の外へ向かいただひとり悔いる。

 やはりゴンドワヌと手を結んだのは、取りかえしのつかぬ誤りであった。褒美にそれなりの計らいはあっても、欲したのはただの似姿などではない。望みを解さぬ主にいくら仕えても、ありがたくもない見返りを寄越されるに決まっている。そもそも城に足を踏みいれたとき、四方を数に任せて脅し抗えぬよう仕向けてきた。階段を降りる間も、ひどく荒れ果てた壁や手すりが先ほどにも増して寂れて映る。

 もはや力ずくでもファラハを取りもどし、カーリを亡きものとするのみが残された望みとなった。まずは手兵を率いて護りの隙を突き、戦が始まる前にファラハを奪いさる。それが適わなければ城へ招いたとき、叛意を見せるようゴンドワヌへはたらきかける。そして願わくば終わりなく胸を苛む、男としての心得、掟が報われるよう心から祈った。

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