第5話 忠義

 街で兵たちとやり合ったあと、カーリは屋敷で手当を受けていた。手の甲は火傷で赤く腫れ、ファラハから薬を塗られると傷口が刺すように浸みる。

「大丈夫ですか。痛みませんか」

 添えられる小さな両手は、ただ柔らかく白いばかりではない。掌こそ滑らかなものの、包帯をつまむ細い指は幾つもの罅に覆われていた。日頃から傷や薬に触れるため、そこだけ肌も目が粗くなるほどひどく荒らされている。

「気にしないで続けてくれ。焼けたのはほんの表の皮だけだ」

「しかし止めるのが遅かったばかりに、危ない目に遭わせて申し訳なく思います」

「元から危ないのを承知で受けている。ただ副王の取り巻きの他に、こんな力の持ち主がいるとは思わなかった」

 目を手元の傷とファラハから離し、部屋の隅に佇むヨガイラへ向けた。大剣を壁に立てかけ、椅子に深く腰を下ろし腕と脚を組んでいる。

「お嬢さまが襲われたと聞いて、つい頭に血が上ってしまった。しかも穴蜘蛛といえば、碌でなしと思いこんでたから」

「あながち間違ってもいない。もっとも都から追い出されずに、長く住まわせてもらってるがな」

 カーリは嫌味を受けながしつつも、この男が気に入らなかった。先ほどは間違いから傷を負わされたうえ、口先だけ詫びを述べておきながら物腰にいちいち棘がある。また見るからにファラハとは歳も近く、察するに主従があるとはいえ古い間柄なのが癪に障った。もっとも争いを止められたからには喧嘩は買わず、面は涼しげに装い鋭く睨みつけるのみに留めた。

 ところが奥から騒がしい物音が聞こえ、しばし保たれていた静けさが乱れる。およそ長屋で手当てを受けたと思しき、ところどころに包帯を巻いた召使いたちが入ってきた。余所者に知られてはまずいのか声を潜め、ヨガイラも傍に近づいた一人から耳打ちを受けた。はじめは一、二度と頷くだけであったのが、程なくして顔色を変え厳しく詰めよってくる。

「おい。まさかお前の仕業じゃないだろうな」

「いったい何かあったのか。話してくれなければ分からない」

「ここに賊が入ったらしい。ものは盗られなかったが、忍び入った跡があるそうだ」

「屋敷の中に入ったのは今日が初めてだ。それまでは軒先までしか足を踏みいれていない。俺のせいじゃないのは誰に訊いても分かる」

「一人でやったとは限らない。お前には仲間がいるはずだ。昨日でも一昨日でも、いつでも手引きをして侵入はいらせられただろう」

「親方から任されたのは用心棒だけだ。他に動きがあるとも知らされていない」

 たとえ穴蜘蛛の誰かが入りこんでいたとしても、カーリ自らは関わっておらず、ヨガイラの言い分はまったくの濡れ衣である。先ほどから強い口振りで責められつづけており、黙っているばかりでやり過ごす気はなかった。

 だが言いかえそうとしたところで、留守を預けていたイドワルが戻ってきた。外から帰って身づくろいも済ませておらず、衣の裾や靴などに埃がまとわりついている。

「これ、その方にあらぬ疑いをかけるでない。お客さまどころかファラハの恩人なのだぞ。お前が駆けつけるより早く、兵から守ってくださったのだ。ましてや早とちりで怪我を負わせておいて、不躾に騒ぐ暇があるなら茶の一つでも淹れてこんか。それからファラハ、お前も頼む。少しばかり大事の話をするからの」

 ふて腐れたヨガイラの肩を押し、手で人払いをしファラハにも席を外させた。召使いの一人は暗い部屋を照らすため燧石ひうちいしで火を点け、蝋燭に燃えうつらせてから後に続く。部屋にはカーリとイドワルの二人だけが残された。

「この度はありがとうございました。危ないところをお助けいただき、改めてお礼を申し上げます」

「ただで受けたわけではありませんから、頼みを果たすのは当たり前です」

「さすがもう一人の男とは、お答えからして違いますな。貴方がついていれば、安心してファラハを預けられるというもの。さあお疲れでしょうから、遠慮なさらずお掛けください。私もこちらに失礼いたしますよ」

 イドワルは向かいで頬を緩めるが、カーリにとって気を許せる相手ではない。口元に作り笑いを浮かべる一方、黒い瞳で一挙手一投足をじっと捕らえた。雇い主とはいえ元は穏やかならぬ仲であり、腹の内ではおそらく良からぬ企みを抱いている。

 何せはじめ身を狙われるとの話が、先ほどの一件からしてどうも違うように思えた。慰みものにするつもりなら攫うだけでいいものを、兵は明らかな殺気をもって命を奪いにきていた。召使いから事を聞かされたであろうイドワルも、さして驚いているようには見えない。そもそも病持ちを見舞わせるとはいえ、危うい目に遭わせてまで街を歩かせるのはなぜか。もしかすると限りのあるはずの金を払い、用心棒をつけるのには他に狙いがあるのではないか。合間を窺い問いただそうとするも、逆にイドワルに先を制されてしまう。

「ところで貴方の名はカーリと聞きますが、穴蜘蛛としての渾名あだなですか。それとも生まれついてのお名前ですか」

「ここで拾われたときには、すでにカーリと名付けられていました」

「そうでしょうな。我々とも王侯貴族たちとも違う。他には何か覚えられていますか」

「実の親は北方の国の出と聞きますが、育てられた覚えはありません。商いにしくじったため、街に捨ておかれていました。すでに巷でも知られているでしょうが、穴蜘蛛の生まれは様々です。貴方がたから口減らしにされた者、手に負えず家から放りだされた者、また私と同じく置きざりにされた者、血筋だけは貴族、臣民の者さえいます。これらはまったく珍しくなく、互いを結びつけるのは掟」

「その掟というのもまた名高い。合わせて五つ、義を掲げる者として百年ものあいだ受け継がれている。我々とはやや違いますが、素晴らしいものと存じております」

 やたらと持ちあげてくる割に、厚い皺と瞼に覆われた眼は冷ややかでいる。務めを頭に留めおくカーリは煽てに乗らず、腹を割るまたとない機として素早く話を切りだした。

「お褒めの言葉はありがたく頂きますが、無礼を承知のうえでお伺いしたい。この用心棒の前にも殺しの頼みを受けましたが、貴方がたが始末をさせたのは、都に腰を下ろしたばかりの油卸しの商人あきうどでした。それに他に暴利を貪る者はいくらでもあったのに、あの商人を狙ったのには何かお考えがあったのですか」

「貴方がたも知ってのとおり、我々には魔力の持ち主がほとんど残されていません。かつてなら火を起こすくらいは、少し力を込めるだけで誰にでも出来ました。しかし今や暗がりを照らすのにも、寒い夜を凌ぐのにも燧石が要るのです」

「ではヨガイラのような者は、ほとんど残されていないと」

「そのヨガイラも兵の手が及ばない、余所の国で生まれ育ちました。母がセルクの血を引くためそれなりの魔力を備えてはいますが、数はたかが知れたもの。私たちの子や孫の代では、都で生まれた者に使い手はいません」

 つい今しがた召し使いが燧石を打ったように、炎の魔力をもつ者はほとんどないと見てよさそうである。ただかねてからイドワルにかけている疑いは、商人殺しの件が解かれてもまだ他に幾つかあった。

「それとファラハについてですが、兵に襲われると分かっているなら家に匿っておけばよいはずです。養女に迎えたのも血の繋がりはなく、お知り合いの忘れ形見であったためと聞きました。私たちに安くはない金を払ってまで、外を歩かせなくてもよいではありませんか。それとも無理をしても氏長の娘としての教えを守らせなければいけませんか。もしそうであれば、なぜそこまで情を注ぐのですか」

「貴方がたは血の繋がった親子でなければ、親愛の情も注ぎませんか」

「いいえ。私たちは互いに守る掟により、固く結ばれております」

「私たちも同じですよ。あれは田舎でもさして恵まれない家に育ちました。まず母は身体が弱く早くに亡くなり、歳の離れた姉も嫁入り前に兵から嬲り殺されたのです。娘が昼も通りを歩けないのは、昨日今日に始まったのでないのは貴方も存知でしょう。そのため残された実の父はファラハだけは守ろうと、まともに家からは出さず稀に外を歩かせるときもぼろ布を被らせました」

「そのようなことがあったとは存じあげませんでした。ですが本当にそれだけで」

 声高に明かせぬ成り行きがあったからこそ、はじめから全てを語らなかったのは分かる。対面してそれほど経たぬ間に、進んでならず者へ打ちあける話ではない。

「仰りたいことは分かります。実を言うと今でこそ独り身の私も、かつては妻がありました。ただ不幸せにも子が出来なかったものですから、あれが親なしとなったとき真っ先に名乗り出ましてな。だからこそ自ずと情も移り、遅まきながら外を歩かせているのです。私の娘として恥じないように、相応しい心得を教えながら」

「しかし用心棒を続けて四十日。手負いや病の方を見舞うのも十分な気がします。こんなにも長いあいだ、長屋に通わせる理由わけがあるのでしょうか。また私たちに用心棒を頼むのも同じです。お仲間にも腕の立つ方がいるのではありませんか」

 これにはイドワルがいちど黙り、ばつが悪そうに目を脇に逸らす。これまでとはうって変わって顔から笑みを消し、張りつめた手つきで俄に襟袖を正した。

「いや、これは大変なご無礼をいたしました。実のところ、もうファラハに長屋まで通わせなくともよいのです。ファラハが想いを寄せるのが貴方であるから、傍についていただきたく用心棒を続けていただいているのです」

 機を見て探りを入れたつもりが、今度はカーリが口を噤む番になった。ファラハから胸の内は告げられたも同じであったが、その親から話を切りだされるとは思いもよらない。

「貴方と外を歩くようになってすぐ、ファラハから聞かされて驚きました。生まれも育ちも大きく違いますから、何度か諦めさせようとしました。ですがあの件で部屋に閉じこもったとき、貴方の名を呼びつづけたのを目の当たりにして私も考えを改めました。思えばあれの実の父も私も、守り育てようとしながら娘らしさを奪っていたのです。そこで噂に違わぬ〝正義のカーリ〟を見込んで、どうか重ねてお願いをしたい。これまでの頼みとは別に、ファラハの傍にいていただけませんか」

 真っ直ぐに向けられた面には、偽りなどないように見える。声音こわねにも真摯な響きがあり、少なくともカーリには腹の底から滲みでているように聞こえた。とはいえ親方から任された務めは捨てられず、すぐに首を縦に振るのは憚られる。

「聞けば穴蜘蛛には『弱き者に手を出してはならぬ』と掟があるそうですな」

「たしかに手を出してはいません。ただし相手がただの弱き者であれば」

「いいえ。我々すべてが弱き者とは申し上げません。道の端に住まう者からすれば、私などはどれほど恵まれているでしょう。しかしもし貴方が明日からまた離れるなどしたら、あれは心細さのあまり何も手に付かなくなってしまいます。掟は自ら弱き者を虐げるばかりでなく、同じく弱き者を見捨てるなど無下な仕打ちも禁ずるものとお見受けいたしますがいかがですかな。もう副王から虐げられたせいで、私どもも将来さきがないのです。貧しい暮らしをしている他の氏族を助けようにも、その者たちに稼ぐあてがないため、たとえ幾ばくかを渡しても焼け石に水。現にいまお願いしている分のお金も、じきにお渡しするのも滞るようになるに違いありません。あれに釣りあう男も身内におらず、まっとうな暮らしもさせてやれそうにないのです。そのうえ私と貴方がたはもともと穏やかならぬ仲。いつ何が起こるとも分かりません。それならば娘が望みどおりにさせてやりたいと祈る一心ですから、是非にでも頼みたいのです」

 この先も用心棒を雇えぬほど蓄えが尽きかけており、碌な護りもつけずに外を歩かせればいつ襲われるか分からない。どこの馬の骨と知れぬ輩の慰みものになるよりは、娘の身をこれと決めた相手に差しだす腹を決めたのだ。だからこそ穴蜘蛛の心得をだし(・・)に、思うとおりの答えを引きだそうとしている。

 いつもであれば、このような鎌かけに乗るところではない。理に適った申し出ではあっても、親方の許しを得られずイドワルと手を結ぶなど出来ようはずがなかった。

 だがこのときばかりは違う。いつしかたおやかな眼差しが背に注がれており、振りむけばファラハが扉を潜り部屋に入ってきている。おそらくやりとりを耳にしたのであろう、瞳は熱を帯びるように潤み唇には鮮やかな紅が差し、何も言わず立ちつくしていた。さらに恥じらう面を向けられたカーリは狼狽え、逃げるように目を逸らしてからイドワルへ向きなおる。

「私が傍にいるからには、誰もファラハに手出しはさせません」

「そのお言葉に偽りはありますまいな。そこまで大事に思ってくださるなら、親として嬉しい限りです。これ、ファラハ。こちらに来なさい。今の話を聞いていただろう」

 手招きをされたファラハが、おずおずとして足取りで歩みよってくる。俯きながら口を結ばれては、この場で頼みを断れはしなかった。

「貴方というよりファラハのため、たしかに頼みを承りました。すでに任されている務めのほか、今日からは出来うる限り傍に付き添いましょう」

「恩に着ます。ファラハのためと仰ってくださったのも、まさに掟に従う穴蜘蛛の、いや我々も見習うべき人の鑑。くれぐれも娘をお願いいたします」

 ひとまず頷くとファラハから右手を厚く握られ、イドワルからも掌を合わせられる。形だけは三人が結びついたように見えたが、カーリはまだ気を緩めてはいなかった。大方の疑いは解けても、兵がファラハの命を奪いに来たくだりは聞きだせずじまい。それから二人と話をする間も頭にはグレフの顔が浮かび、いかにしてこの約定が許されるかを考えていた。


 翌日、カーリは根城でグレフと朝食を摂っていた。イドワルからたっての願いは受けても、むろん黙って屋敷に入りびたるわけにはいかない。昨日の騒ぎも報せなければならず、無理を通して久々の会食を申し出ていた。

「昨日は危ない目に遭ったな。俺たちのなりは知っているだろうに、四人がかりで来るとは節操がない。それにしても本当に襲われるとは、用心棒をつけたのも取り越し苦労ではなかったか。お前も昼では力を振るいきれぬのに、よく無事でいてくれた」

「わざわざ人混みを掻きわけてきましたから、いちいち隠れる気もなかったのでしょう。それに居あわせたのも雑兵です。選り抜かれた手練れではありません。しかし気になるのはその兵たちです。ファラハを攫うのではなく明らかに殺しにきました」

 相変わらず具合の優れないグレフは、背もたれに深く身を預けている。ただし面持ちは引き締まっており、要とあらば肘掛けに手を突き胴を起こしたりもした。このときも腕を伸ばして椀を取り、渇いた喉を茶で潤し卓へと目を落とす。

「お前はその理由わけを訊いてみたか。イドワルに探りは入れたか」

「申し訳ありません。聞きだそうとはしましたが、機を逃してしまいました」

「まあよい。つい二、三日前までは、脅すだけなら得物をちらつかせるくらいやるから、お前の勘違いで済ませているところだった。しかし今の話で何となく掴めた。ついこのあいだ人づてに聞くところでは、都の外では貧民ども(セルク人)の群れが謀反を起こしているという。王国の軍は本土から引きまわされ、疲れの重なるうえに行く先々で嫌われ、悉く打ち破られているらしい。しかも外から迫る軍に応じて、ここでもイドワルたちが兵を挙げるとの噂だ。おそらく副王の耳にも届いているはず」

 百年も属州として治められてきたこの地で、戦が起こるとは俄には信じがたい。しかしあの兵たちを思いかえしてみると、なるほど事の次第もうっすらと読めてくる。城壁の中にはセルクの民が崇める神殿があり、必ずや互いの軍が激しく奪いあう場となる。どちらかが都を手に入れるかが、もとの国を巡る攻防を握るのは考えがつく。

「察しがいいようだな。副王としては、戦が起こる前に少しでも奴らの力を削ぐつもりだ。どれほど当たりをつけているかは分からんが、まずは氏長の娘でも血祭りに上げようとしたのだろう」

 ここでも争いが起こるとなれば、穴蜘蛛も日和見を決めこむだけでは済まされない。相争うのは副王ら王侯とセルクびとでも、どちらが勝つかによって行く末が大きく変わる。それに誰よりも重きを置くグレフは、煙管の先を向けながら問うてくる。

「ところでお前、もし戦が起こるとすれば副王と連中のどちらにつく」

「迷うまでもなく副王の側と決めております。誰に聞いても答えは同じかと」

「しかし数だけを比べれば、俺たちに利はないぞ。副王の兵は近くからかき集めても九千。連中の数は女子供や年寄りを除いて、戦に出られるのはおよそ一万二千」

「数だけなら副王の側は劣るでしょうが、兵は剣、槍を備え稽古も積んでいるでしょう。対して貧民たちは碌に得物も持たないばかりか、少なからぬ数が飢えに苦しんでおります。寡数が多数を破った例しはいくらでもあります」

「その通りだ。見た目の頭数に騙されてはならん。だいいち奴らに国を建てられては、俺たちが真っ先に住処を失くす憂き目に遭う」

 穴蜘蛛は副王や貧民のいずれにも属さず、付けいる隙のある、金の臭いの漂う方へ靡き都に根を下ろしてきた。少しのあいだ手を組むことはあっても、片方を完膚なきまでに滅ぼす愚は一度も冒していない。副王が勝てば同じように下々を虐げるだけであるが、逆であれば王侯や兵は都から追いだされてしまう。穴蜘蛛としては貧民を生かさず殺さず飼うのが良策であり、戦でどちらの味方をするかは端から決まっている。

「そうともなれば洗いなおしだ。お前は昨日、イドワルの屋敷に入ったと言ったな」

「はい。屋敷の中は見渡してまいりました。あそこではファラハが手当てを施した、病持ちや手負いが働いています。見目はいくらか崩れていても、荷運びなどに使われていました。長屋に見舞われているのも無駄ではなく、少なからぬ数が癒えているようです」

「これまでは氏族どうしで争っていたのに、戦を前に手を結びにかかったな。いや戦で少しでも手勢を増やすためだろう。あの娘を長屋まで通わせるのも、身内かわいさではなかったわけだ。他に目についたものはあるか」

「はい。召使いは燧石で蝋燭に火を点けていましたが、奴らの中にヨガイラと名乗る魔法の使い手がおります。私が負った傷も、その男とやりあったときにつけられました。もっともファラハとは馴染みであったため、すぐに止められましたが」

 カーリは両手を差しだし、傷口を覆う包帯を卓の上で外した。火傷はまだ癒えておらず、皮もところどころが赤く毟れている。グレフは傷に触れぬよう手首を軽く掴み、より近くで見せるようにと促してきた。

「それほど深くはなさそうだ。もう何日かすれば痛みは消えるだろう。しかし傷はてっきり兵から逃げるときについたと思っていた。まだ奴らに魔力の持ち主がいるとは、もしやすると他にも使い手がいるのではないか」

「イドワルから訊いたところによれば、都ではヨガイラの一人だけ、余所にいたとしても数えるほどしかいないとのこと。親方の仰るとおり、厄介な力をもちそうな者は始末されているのでしょう。あの商人を狙ったのも、代々に伝わる力の使い手が減ったために火を起こすのにも油が要るようになったとの話です」

「なるほど言い分に筋は通っている。ただし嘘か真かはまったく別だが。魔力がなくともそれなりの油があれば、都の一帯を火に巻くのに十分だ。他にはないか」

「あちらからの動きではありませんが、私が手当を受けたときちょっとした騒ぎがありました。ヨガイラから、私たちの誰かが屋敷に侵入はいったのではないかと疑われたのです。私は知りませんが、ご存知でしょうか」

「初めて耳にする。どこを破られたというのだ」

「そこは口を割りませんが、焦ってはいました」

「聞きづてでは分からんが貧民ども、とりわけ氏長の屋敷にはどこかに隠し部屋があるらしい。副王たちが魔力の持ち主を始末しても、なお生きのびているのはそこに匿うためかも知れない。外からでなければ、おそらく床下あたりだろう」

「はじめ私は探りを入れるよう、親方からシナンにでも命じられたのではと思いました」

「あの馬鹿の名は口に出すな。何度か会ったが碌にものも言わず、俺を睨みつけるばかりで変わらん。地下の穴掘りを言いつけたが、まったく別のところだ。あの屋敷ではない」

 カーリは再び包帯を巻きながら、シナンの身の上に思いを馳せた。頼み主に不義理をはたらいたとはいえ、自らと同じく親方に欹てられたのに、ここまで低く扱われるのは不憫でもあった。ましてファラハに近づいたのが引き金であるからには、かつて友であったカーリはなおさら後ろめたく思われる。

 いっぽうグレフは眉を潜め、煙管の火皿に新しい灰を入れた。胴を前のめりに倒したまま、煙を大きく吸っては口を歪めて吐く。

「それにしても副王は何を考えている。戦が近いのに俺たちにも手を出すとは、勝つつもりが端からないのか。兵が勝手に斬りつけてきたのか、それとも俺たちの力がいらないとでもいうのか」

 苛立たしげに呟いたところで、部屋の扉が叩かれる。カーリが戸口へ向かい外へ顔を覗かせると、仲間の一人が立っていた。

「いま親方と大事な話をしている。急ぎでなければ後にしてくれ」

「俺たちじゃないが、ついさっき兵士が来てこれを渡すように置いてった」

 受けとった状袋じょうぶくろは、副王の紋章で封が押されている。ひと目では本物か否かは疑わしいが、ものがものだけに突きかえしてはおけない。

「これをどんな奴が持ってきた。背格好は。誰それと名乗ってなかったか」

「ただの兵士たち三人だ。大して目立った格好はしてなかった。誰も名前は明かしていかなかった。ただ親方に渡すよう強く念を押してきた」

「分かった。俺から渡しておく。わざわざ報せにきてくれて済まない。それからあまり騒ぎたてないでくれ。これを見た奴もいると思うが、あまり余所に漏れないように頼んでおいてほしい」

 静かに扉を閉め、取手が回りきったのを確かめてから向きなおった。グレフはすでに手に握るものに目を移している。

「どうした。どいつがそれを寄越してきた。差しだしたのは誰と書いてある」

「表に名前はありませんが、まずはこれをご覧ください」

 卓の上に置いただけですぐに分かったらしく、懐剣ナイフで封を解き中から一葉のふみを抜きとった。左右の手で皺がつくほど固く両端を握り、何度も貪るように見返している。

「つい昨日さくじつなどは傍にいた私ごと襲ってきたのに、これをどう取ればよいのでしょうか。いつ出されたのかお分かりになりますか」

「その件を含めて、昨日付けだ。中も印顆いんかが押されているからして、本物と受けとって間違いなかろう」

 逆さに返された文には印顆のほか、直筆で副王ゴンドワヌの名が記されていた。ただの兵が勝手に、ここまでの偽物を作るとは考えられない。もし副王が宛てたのであれば、目を通すのだけでも親方の許しが要る。

「私にも読ませていただけますか。それともこの件は他の者に任されますでしょうか」

「いいや、お前こそ読んでおけ。ついに副王めが動いた」

 手に取らされた文は、質のよい紙でしたためられていた。はじめ回りくどい挨拶から入り、歯の浮くような讃辞の後に短く用件が記されている。


──近々に起こる戦に先立ち、その方らの力添えを求める。ついては我が城で話をつけたく、日は追って知らせるゆえ、あらかじめ諾否を決められたし。


 長いあいだ外に出しては気分がよくないのか、終わりまで読んだグレフは再び状袋へ入れる。卓の上や棚にも置いてはおかず、口を閉めて胴衣ベストの懐深くにしまった。

「副王も手を結ぶのに迷いはないな。相手が烏合の衆とはいえ、数では奴らに大きく劣る。少しでも俺たちの力を借りたいのが本音だろう。お前がいるにも関わらず兵が狙ってきたのは手違いだ。俺たちがどちらにつくか、とっくに判って話を持ちかけている。でなければこうも早く詫びてはこないはずだ。もう戦も近いのだろう。すぐ外を見てみろ」

 促されるとおり窓の下を眺めれば、たしかに道ゆく者の数は大きく減っている。思いかえせばファラハと歩いた昨日も、用心棒を始めた日より人通りは少なかった。このときも通りを人がすれ違っていても、兵と町衆まちしゅうは互いに触れあわぬよう間を置いている。そのくせ街のどこかからは人の気配が感じられ、何事が起きるか探ろうと誰かが息を潜めているようにも見える。

「どちらも、おそらく戦の備えにかかっておるわ。副王も話をすると言ってきたからには、俺たちの力を借りるつもりだ。それには策を練ればならんが、まずはお前ならばどう動く」

 カーリは窓の板戸を閉め、椅子に腰を下ろして目を落とした。今しがた相争う互いの側に差はないと口にはしたが、兵は日頃から鍛えられていても戦慣れなどなきに等しい。都では百年もの間、まともな争いもなく下民たちを従えている。また貴族を含め多くが故郷くにから掻きあつめられた者ばかりで、根を下ろして住まう者はきわめて少ないとも聞く。力で勝ると言いきれぬのは副王らも同じであるからには、穴蜘蛛からも何かしらの知恵を巡らせ力を貸した方がよい。

「いくら私たちが殺しに長けていても、ただ戦に加わるのでは大した助けになりません。まずは相手の動きをいち早く読み、下手に纏まられる前に氏族どうしての諍いを起こすのです。放っておいても勝手に始まるかも知れませんが、こちらから火種を撒いて損はないかと。地下道を使い家々の下にでも忍び入れば、流す噂の元も程なく掴めるはずです」

「悪くない手だが惜しかったな。気づかれては元も子もない。イドワルはもう氏長たちに家に余所者を入らせぬよう指図しているだろう。動きを探る手は他にもあるとして、直に刃を交える段となればどうだ。もし俺たちが先を取れたならば、仲間や兵をどう動かす」

「あちらの方が数は多いのですから、兵をむやみに広いところへ集めるべきではありません。そのためにも見張りや早馬を立てておく方がよいのでは」

「それが適わなかったときのことを訊いている。俺が副王の身になれば、相手より先に炎の神殿へ向かわせる。愚図どもは数と勢いに任せるため、きっと拠り所に群がるに違いない。他にもあそこを選ぶ訳があるが、もうお前もすぐに分かるな」

「いいえ。申し訳ありませんが、私はそこまで及びません」

「神殿の面している広場も数の利を活かすのに向いておる。だがあらかじめ先を打てるなら逆だ。囲み込めばしめたもの。あとは焼き討ちにでもして燻り殺してやればいい。それこそ奴らが溜めこんでいるやも知れぬ油を奪いとってな」

 次から次へと案を求められても、カーリには戦に当たっての立ちまわりが思いつかない。頭には諳んじられるまで都の筋道が焼きついているのに、軍と軍のぶつかる様を描くまでにはどうしても至らないのだ。無理に策を巡らそうとすると、旋毛から耳にかけて痛みまでもよおしてしまう。

 その理由わけは改めずとも知れた。どんなにグレフの問いに耳を澄ませたところで、頭に浮かぶのはファラハの顔ばかり。戦を交えるとなれば、手当てを受け身体の癒えた者を傷つけ、多くを殺めねばならない。住処を守るため術を惜しまず誰とでも手を組むなど、主から属州を任された王侯は当たり前として、義を謳う穴蜘蛛がそれと同じ真似をしてよいものか。いかに金で請け負った頼みとはいえ、すでにイドワルから受けた頼みを反故にするのは掟にも悖る。だからこそカーリは話を持ちかけようと試みるも機を逃し、問いにもうまく答えられずにいた。

 だがグレフは全てを見透かすように、両肘を膝に載せ前かがみに顔を突きだしてくる。真正面から穏やかに質されたカーリは、目を逸らしようがなかった。

「お前はファラハを想うあまり、戦に加わるのを躊躇っているな」

「何を仰います。私は少しも迷ってはいません」

「隠すな。顔に書いてあるうえに、さっきから歯切れも悪い。屋敷で何かあったな。きょう俺との話を申し入れたのも、ひと悶着を報せるだけではないんだろう」

 ファラハへの想いは伝えていても、面と向かって言いあてられては誤魔化しきれなかった。何より隠し立てをしたからには、厳しい叱咤を飛ばされて当たり前である。にも関わらず咎めるどころか素振りもなく、これ以上は親方を欺くまいと意を決して口を開く。

「すでに受けている用心棒とは別に、これからもファラハの傍にいるようイドワルから頼まれました。我々とイドワルはどうなるか分からないから、くれぐれも守ってくれるようにと。本日ほんじつ親方のもとにお伺いしたのも、実はその話を打ち開けるためです。騙したり、嘘を申しあげるつもりはありませんでしたが、どうしても遅くなってしまい」

「もういい」

 カーリは半ばで申し開きを遮られ、厳しく縛められるものと身構えた。イドワルが目論見をもって近づいたにせよ、少なくとも形は掟に背いたと捕られても仕方がない。かつて務めを任されながら私情に奔り、誤りを犯し罰された者は幾らもあった。

「この間は俺が後押しをしただけだ。今度はイドワルにも仲を認められたと見ていいのか」

「腹の内は分かりませんが、ファラハも心を寄せているからと頼みこまれました」

 頬には熱く血が上り、乾いた舌はひどくもつれた。長く共に過ごした間柄であり、悩みや罪科を明かしたことは何度となくあっても、こうも身体が固く強ばった覚えはない。グレフが笑みを表すにつれ込められた力は抜けていき、続いて首が縦に振られるのに合わせ喉からは息が漏れる。

「でかした。よくぞ懐に入った。これからはうるさく言わないから、お前は昼、夜を問わずファラハにひたすら寄り添え。逆にこれが俺からお前に任せる大事な務めだ」

「つまりイドワルの頼みを受けてよろしいのですか」

「言うまでもない。イドワルめ、戦を間近に見え透いた汚い真似をする。奴はお前を使って俺たちの動きを掴むか、お前の力を借りるつもりだ。だがその手には間違っても乗るな。奴がお前を取りこむ前に、是が非でもお前がファラハを手に入れろ。イドワルに預けられたとはいえ、日が浅いからどうにかなろう。そうすれば俺たちの方が奴らの動きを抑えられる。いかに血の繋がらぬ養女といえど、娘の身を握られては下手な真似はできまい。都が奴らの手に落ちれば、お前たち二人は嫌でも引き離される。仮にお前が耐えられたとしても、果たしてファラハが堪えられるかどうか。氏長の家に留めおかれては鳥の籠に戻され、そのうちつまらない男と一緒にさせられる。繰りかえして言うが、間違っても言うなりに乗せられてはならん。戦がどう転んでも思いどおりになるよう、ファラハを虜にして手元から離すな」

 咎められるどころかまたも背を押され、カーリの胸から喜びが湧きでた。ファラハを身も心もものにできるとしたら、勝てば仲間たちと都に残ったまま、負けてもどこか余所の土地で暮らしていける。何よりグレフの声にはこれまでにないほど暖かく、親しい響きが込められていた。

「これで私も覚悟が決まりました。しかも戦の勝ち負けが絡む策であるのに、行く末に関わらずよいように計らってくださるとは」

 仲を認められるのも策の一つとはいえ、住処や食い扶持はおろか生き死にを賭けた中で、かくも慮られるとはありがたさに言葉が見つからない。声を詰まらせるうち、グレフがいっそう顔を崩してきた。

「そう畏まらなくていい。俺にとってお前は息子も同じだからな。歳をとって口も緩くなったから教えるが、ちょうどお前と同じくらいの頃、俺にも忘れられない女が一人だけいたんだ。相手は貴族の娘で、街で襲われてたのを助けてから人目を忍んで遭うようになった。ところが親に咎められてどこかへ行かされたらしい、ある日を境に姿を消してしまった。俺は数え切れないほど女を作ったが、あの娘ほど入れ込めなかったせいか、誰との間にも子は出来なかった。だから同じように育ったうえに、あの娘に惹かれたお前が他人と思えなくてな。おまけに穴蜘蛛に相応しい男にもなったから、少しの後押しで結ばれればこれほど嬉しいことはない。あの娘にしても我が息子が見とめた相手なら、なおのこと生かしてやりたいんだ。無事に戦を終えたら、俺の手でお前たちを祝いたいと思っている」

 拾われてから二十年あまり経ち、生い立ちを語られたのは初めてであった。カーリが驚きに身をうち震わせつつグレフを眺めれば、静かに向けられる眼の光だけで偽りがないのは分かった。ましてや息子とまで見込まれてはとても疑う気など起こらず、やはり育ての親にこそ従うべきと改めて胸に決めた。

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