第4話 躊躇

 シナンは夜も遅い酒場の隅で、火酒ウイスキーをひとり勢いよく呷る。飲みほしざま杯を割れんばかりに卓へ置き、大声で給仕を呼び代わりを持たせる、その姿はすっかり変わりはて、首筋には小さな傷が、両の手足には縄の痕が刻まれ、頭から指先に至るまで垢にまみれていた。仕草からは大らかさが形を潜め、時おり苛立たしげに踵で床板を踏みならす。

 あれから物陰に身を隠したものの、すぐに見つかり根城まで連れていかれた。掟破りのうえ信を損なったとして、実に四半日のあいだ天井から逆さに吊されたのだ。おまけに容赦なく嬲られたうえ九尾鞭で打たれ、気を失わぬよう絶えず水をかけられた。そのせいで罰を解かれ三日が経ち身体は癒えたのに、何をしても一向に憂さが晴れる気配がない。いくら酒を喰らえどいいようには酔えず、知らぬうちに周りが気を逆撫でる噂を立て、客足が振るわないのが災いし、いつもは賑わいに掻きけされるそれらの声がやたらと耳に届く。

「少し前に俺も居あわせた、ぼろ市でのカーリは実に見事だった」

「穴蜘蛛は気に入らねえが、奴だけは別だ。頭が利いて口も回る」

「こないだなんかはイドワルの娘とも、仲良くいい感じで歩いてた」

「さすがに色男は違うね。あれは実の娘じゃなく、どこかから引きとったらしいが」

「名前はファラハだって聞いた。随分と育ちがいいと見たね」

「おまけに手を繋いでただけじゃなく、一緒に外で飯まで食ってたぜ」

「別の日はもう一人の奴とも歩いてたが、娘の顔つきがまるっきり違ったな。やっぱりどんなお家柄でも、美男と一緒なら嬉しいだろうよ」

 他愛のないはずの話も、痛いほど耳に障った。恋敵が知恵と力を称えられ、仲を囁かれるのとは裏腹に、己は暗に貶められては嫌でも腸が煮えくりかえる。町衆まちしゅうはカーリのみを褒めるが、穴蜘蛛に身を置くからには根からの聖人君子ではあり得ない。人の目耳めみみに隠れ手を血に染め、飯を食うため公に出来ぬ手段で様々に銭を稼ぐ。高らかに義を謳う影で誰かが汚れ役に回らねばならず、嫌われつつもシナンこそがそうした裏方を幾度となく買ってきた。ならず者が都に居つくためには褒めそやされる者がいる一方、誰かが陰に回らねばならぬのは仲間の誰もが心得ているはずなのだ。

 だが色恋にしくじっただけで、その仲間たちを束ねる親方のグレフから手厳しく叱られた。長いあいだ不実も下手もはたらかず尽くしてきたのに、親子も同じの間柄からいきなり罰を受けるのは我慢できない。仲間たちからも口汚く阿呆と罵られ、身の程を知らぬと散々に馬鹿にされた。しかしいかに剛直で名が通るといえど人であるからには悩み、男であるからには当たり前に女にも惹かれる。初めて目にした無垢な娘を求めるのに、強く咎められる由がいったいどこにあるというのか。

 もし責められるとすれば何事も力に任せる性分であろうが、それを存分に振るって幾人もの女を手に入れ、仲間を何度も助けてきた。他の術を学ぶ機はなく、教えようとする者も不幸にも現れなかった。恩あるはずの誰ひとり、力を捧げたグレフでさえもだ。

 シナンは、ますますやりきれず杯を傾けた。辺りをぼんやり眺めるうち、客に混じり兵ふたりの姿が目に止まる。鎧兜こそ着けてはいなかったが、長く垂れた外套の裾から腰に提げた長剣の鞘がちらついていた。

「このあいだ油卸しの商人が殺されたが、どうも穴蜘蛛の仕業だともっぱらの噂だ」

「お前は本国くにから来たばかりで驚いたろうな。ここでは賊が不届きをはらいても、すぐには捕まえられない」

「しかし探りも入れないのはいかがなものか。捨ておいては副王殿下のお名前にもひどく傷がつく」

「あの商人の金儲けは明らかにやりすぎだった。殿下も煙たがりこそすれ、惜しまれてはいまいよ。長居をしている俺から言わせれば、穴蜘蛛に目をつけられた方が悪い」

「だからといって、ならず者を許すのか」

「近ごろは外がやけに騒がしい。この属州では下賤の奴ら(セルク人)が、次々に謀反を起こしている。今はそれでも返り討てているが、長引かせると後々まで面倒になるぞ」

「大事の前だから目こぼしもやむなしか。しかしここで兵を挙げられたらどうする。あの紅玉ルビーの神殿を囲いこんで質にでも取るか」

「もしあれを壊しでもすれば、たがが外れて取りかえしがつかない。特に奴らの顔役であるイドワルらとは、表向きだけでもぎりぎりまで仲を保て。もっとも戦ともなれば話は別だ。殿下もよい策を案じればご褒美を下さるとのお触れまで出された」

 シナンは罰を解かれてからまともに形を改めもせず、腰に短剣を差し胴衣ベストを羽織り塒から這いでてきた。声を拾わんとするあまり杯を止めたせいで目立ち、顔を見合わせた兵から遠巻きに様子を探られる。素性を覚られたうえは逃げるかやり合うか迷う間にも、兵のうちの一人が酒瓶を手に近づいてきた。

「少しよろしいかな。さっきから見ている分に、随分と荒れていなさるようだ」

「分かってんなら、放っとかねえか。てめえは副王の犬だろ。こそこそと構うな」

「そう言わずにこれをってくれ。私からの一杯だ」

 穏やかに向かいへ腰かけるからして、店で騒ぎを起こすつもりはないらしい。剣に手をかけるどころか、空いた杯に指を添えてなみなみと酒を注いでくる。

「身なりからして、あんたは穴蜘蛛だな。私はといえば言いあてられたとおり、城に仕えるしがない兵だ。きょうここで会ったのも何かの縁、もしよければ話をしてくれないか」

「いったいどんなのを聞きてえってんだ。どれも胸くそ悪くなるだけだぞ」

「そうだろう。私が知りたいのは、どうしてその手首に痣がついたのかだから」

 怒りで握りしめた拳の上に、卓の下を通し冷たく重いものが載せられた。腕を手元に引いて覗くと、そこには余所の目を避けるように一枚の金貨が置かれている。

「せめて酒代は私から出そう。あんたの出方しだいで、もっと渡してもいい」

「ものの訊き方は知ってるみてえだな。だがここじゃちっとばかり無理がある。それにてめえらに従うどうかは決めてねえ。ひとまず話を聞いてやるだけだ」

 それまで黙っていた一人が目配せを受け、給仕とひと言ふた言を交わし何枚かの銀貨を握らせた。多くの客が出入りするこの場とは別に部屋を借り、階段の前から手招きをする。

「ならば上で構わないな。そこでなら気がねも要らないだろう」

 仲間から罰を下されたばかりであり、もし兵と勝手に会ったのを知られればより厳しい私刑に処される。白面しらふであれば迷う暇すらなく、とうに大声で誘いを突っぱねている。しかし酔いが回り頭は鈍り、逆さに吊るされた悔しさと傷の痛みに後を押され、腰を上げ誘われるまま兵の後についていってしまう。

 貸し部屋には間もなくして通され、兵は先ほどのように片方が椅子に座り残りが外に立つ。辺りを何度か窺ってから扉を閉められ、卓を挟んで腰かけた一人が口を利いてきた。

「申し遅れた。私はラウーという。失礼だが名前をお伺いしたい」

「さっきはここに来て長いと言ったな。シナンの名前くらいは耳に入ってるだろ」

「貴方があの名高い穴蜘蛛の一人なら、さっそく話に入らせていただく。その縄の痕はどうしてついた。噂どおりなら、穴蜘蛛は仲間を逆さ吊りで罰するとか」

「その通りだ。こないださんざん吊るされて、鞭でしこたまちまわされた。あまりに痛ぶられ方がひどいんで、ここに来るまで三日も寝込んだよ」

「しかし貴方ほどの名の通る方が、仕置きを受ける訳でもあるのか。決して余所には漏らさないから、よければ教えてくれないか」

 シナンは金を貰った後ろめたさもあり、事の顛末を余さず打ちあけた。はじめは軽く躊躇ったものの、憎い恋敵を罵れるだけで気が晴れていき、ついには用心棒を任されたこと、カーリと言い争ったこと、また強く迫った挙げ句に断られ告げ口されたことを呂律の回らない舌で喋った。一通り語り終えたあと、ラウーは息をつき窓の外に目を向ける。

「とんだとばっちりを喰ったな。よくもまあそんな仲間に尽くしてきたものだ」

「そうだろう。皆には恩があるけどよ、今度ばかりはひどすぎる」

「ところでこれからどうするつもりだ。また元のところへ戻るつもりか」

「穴蜘蛛から抜けられた奴なんて、俺は今までに聞いた覚えがねえ。だいたい秘密を握らせたまま、逃がしとく馬鹿がどこにいる。もういちど逆さに吊られるどころか、今度こそ本当に殺されちまう。まずは根城に戻ってから、しばらく様子でも見とくつもりだ」

「呑気だな。大人しく帰れば許されて、前の暮らしができるとでも思うのか」

 もちろんしばらくの間は、他の誰よりも下に置かれる。使い走りとまではいかずとも、明らかに軽んじられ蔑まれるであろう。再び親方に取りたてられるには、かなりの功を挙げるか月日が経つのを待たなければならぬ。

 はじめはしばらく耐えしのぼうとするも、兵ふたりを前に思惑を揺るがされる。顔を前のめりに突きだし、声を太く低く沈めて追いうちをかけてきた。

「よりによってセルクの長老の気を損ねたんだ。逆さ吊りだけで許したら、戒めを吹いて回る穴蜘蛛の沽券に関わる。あんたの親方も他の者たちも、二度と人並みには扱うまいよ」

「俺に親方を裏切れってのか。育ての親も同じなんだぞ」

「私は細かな指図はしない。だが元に戻れば、何につけてもあのカーリの下に置かれるだろうな。表では義を掲げながらあんたを蹴落とした、女も仲間からの信も根こそぎ独りじめした奴に。よく考えてみるがいい。お前を切り捨てたうえに、恋敵の肩を持つ賊の頭目からこき使われるか。それとも私の話を受けて、うまく日陰者の身から抜けるか」

 いかに親方へ恩はあれど、無下に低い位へ落とされては黙っていられない。こののちどれほど悔いてみせたとて、果たして心から許されるであろうか。いや澄ました表面おもてづらを装いファラハを奪った、あの妬ましいカーリに従うなど考えただけでも胸にむかつきが走る。

「なるほど。やられっぱなしなのは馬鹿らしい。だがてめえが持ちかける話も、俺はまだ聞いちゃいねえぞ」

「まだあんたの耳に入っているか分からんが、近ごろ下賤の輩に不穏の動きがある。城壁の外で次々と謀反を起こし、少しずつ我が国の軍を打ちやぶりはじめた。しかもまことしやかに流れる噂によれば、今はそれぞれに分かれている氏族を纏め、都でも貧民どもが兵を挙げるつもりらしい。もちろん武器は取りあげてあるうえ、数を頼みにしたところで力はたかが知れたものだ。しかし束になってかかられては、戦でも少なからず手を焼きかねん。副王殿下からもその旗印を見つけ、いち早く厄介な火種を消すようにと仰せだ」

「つまり、俺に何をしろと」

「奴らが氏族の間で諍いを見せている烏合の衆ならいい。しかし聞いたところによるとイドワルが動きまわって、言い伝えにあるウーゼル王の末裔を旗印に据えるつもりだという。俺たちも手当たり次第に探しているが、向こうもなかなか尻尾を出さん。そこであんたの力が役に立つ。私には聞き覚えがある。穴蜘蛛は都の地下に通じ、家々に侵入はいる術を備えているとな。イドワルもまさか穴蜘蛛が用心棒を受けておいて、探りを入れてくるとは思うまい。あんたにはイドワルの屋敷に忍び入り、謀反の兆しがあるかどうか、旗印を立てるなら誰かを調べてもらいたいのだ」

「つまり何か。親方の許しも得ずに、蜂起をあらかじめ知らせろってのか」

「もし奴らが戦に勝とうものなら、どうなるのかは分かっているだろう。あんたたちは色々に間を取りもったのに、すぐさまお払い箱にされる。散々に力を尽くしたのに捨てられ、用済みとしてここを追いだされるんだぞ。もっともグレフぐらいなら、とっくに分かりきっていると思うが。今ごろはどう立ちまわろうか考えているはずだ。うまくいった暁には見直されるかも知れんな」

 戦が起こったときどちらにつくか、腹は諭されるまでもなく決まっている。貧民に都を陥とされれば穴蜘蛛は住処を奪われるに違いなく、たとえ親方のもとを離れてもそれを避けたとなればまたとない手柄となる。うまく信頼を取りもどした暁にはカーリを追いおとし、頭を下げて乞えばファラハを与えてくれるかも知れぬ。シナンは疑いを半ば解き、兵に左の掌を広げて差しだした。

「いいだろ。代わりにただじゃ動かねえぞ。それに様子見にしたって、こんな端金はしたがねじゃ安すぎる」

「よかろう。互いに得な話なのは、あんたもじきに分かってくれると思う。これが持ちあわせの全てだ。前金として今のうちに取っておけ。何か分かったら城に来て報せろ。私の名を番兵に告げれば、門を開けるよう指図をしておく」

 渡された袋ははち切れるほど重く、中に金貨がぎっしりと詰められていた。これだけの手つけが懐に入れば、あえて掟に触れる甲斐も少なからずあろうというもの。あれだけ飲んだのに店を出る頃には酔いが醒め、金で引きうけた頼みを果たす術を探っていた。


 ラウーに会ってから二日の間、シナンは都を巡る地下の道に籠もっていた。辺りは足下の洋燈ランプで照らされ、三人の人足が入れかわりに鶴嘴を振る。鋭い鉄は塗りかためられた壁を崩し、奥深くまで広がる黒い岩肌を何度も穿った。

「シナンの兄貴。本当にこっちでいいんですかい」

「別のところへ繋げるには、どうも向きが違うようですが」

 腕を動かしながら問われても、シナンは目も合わせず岩の屑を蹴る。鍛えられた体躯が揺らめく炎に映され、灰色の壁にいっそう大きく浮かびあがった。

「つべこべ言わずに岩を削れ。俺は親方の言いつけどおり、地下の道を広げてるだけだ」

 穴蜘蛛が地下の道を縄張りに出来るのは、余所者の出入りを許さぬように労を割いているのが大きい。外からは姿が隠れるのをいいことに、勝手に立ちいる者を不文律で葬ってきた。おかげで寄りつく者もなくなり、賊だけが我がもの顔で足を踏みいれている。また何者かが見まわりを避けて道筋を暴かぬよう、万が一に入られても全てを知られぬよう、穴蜘蛛の男たちが手を入れ道を塞いでは別の所へ繋げるなどしていた。

 シナンが地下を掘るよう、親方から命じられたのは嘘ではない。殺しと比べれば取るに足らぬ、前ならば別の者が任された端役である。むろん三人を雇うからには金を払うが、仲間から投げて寄越されたのは小銭が少々。自ら懐を痛めるところをラウーからの前金で賄い、安くはない三人の日雇い銭に充てていた。

「それにしてもここまで目隠しされるなんて、いったい何をするかと思った」

「裏道で覆われた布を解いたら、いつの間にか石畳の下だもんな」

「俺が前に二度ほどやったときは、地下に入るまで同じだったぜ。しかしいま立ってるとこまで布を解かないなんて、少し念を入れすぎじゃありやせんか」

 合間に無駄口を叩かれても、いちいち声を荒だてる真似はしない。虫の居所が悪いと言わんばかりに、後ろの壁を拳で苛立たしげに叩く。

「お前たちは初めてだろうが、俺がやらせるときはいつもこうだ。他の奴のやり方はともかく、地下の道はどれも外に知られちゃまずい。どうしても目隠しを外すなら、かくのはひと汗どころじゃねえぞ。頼みが最後まで済んでから、別のもんを身体から流してもらわなきゃなんねえ。そりゃあ嫌だろ。しばらくは物乞いを止めて、飯が食えるだけでもましだとは思えねえか」

 地下をいじるときは、表へばれないよう様々に知恵を絞る。息の根まで止めるのは稀にしても、表と行き来する間に目隠しをかけるのは珍しくない。ただしこうも用心を重ねるのは、親方から受けた指図とは別の道を掘るためであった。

 しばらくして人足が鶴嘴を止め、手拭いで汗を拭いてから呟く。

「妙だな。さっきまでは細かかったのに、ここらからやけに石の固まりが大きい」

「おかげでひと突き入れただけで、すぐに剥がれてくれやがる」

「ああ。半歩だけ前へ行くのにも一苦労だったのが嘘みてえだ」

 シナンも掌に載せてみれば、手触りからして先ほどとはまるで違う。これまで積まれた石のほとんどは小さく、おかげで進むのにもひどく手間がかかった。しかしいま足下に転がるのは、どれもが平たく厚い塊ばかり。断りもなしに休みを入れる人足を咎めもせず、息を整えるのを見はからって言いつけた。

「ひとまず頭の上よりも、試しに一点だけを突け」

「へい。こうでようござんすか」

 人足はそれまで上から下に振るっていた腕を、言われるまま後ろから前へ突きだす。すると岩に細かくひびが入り、二、三ど打っただけで穴が空いた。もし勘が正しければ、あと少しで目指すところまで辿りつける。

「ここは何だ。もしかすると、誰かが先に入りこんだのか」

「間違いない。地下道の隣へ、とっくの昔に手が入ってやがった」

「よく地下道にぶつからなかったな。うまいとこをすり抜けたもんだ」

 拳大に開いた隙間から奥を覗き、押しひろげるように鶴嘴で壁を穿つ。元から脆かったのか踵で蹴るだけで崩れ、すぐに屈めば通れるほどになった。人足は奥行きの深さに驚きながら、右左を眺めまわし先へと進む。

「すごいな。ここは石切場だったんだ」

「でもすっかり荒らされて、目星はほとんど残っちゃいねえ。向かい側はきっちり塞がれて、行き止まりになってやがる」

「ぼやくなよ。俺たちは先を掘りすすめればいい。楽できるだけめっけもんじゃねえか」

 後に続いたシナンにも、この場が石切場としては打ち棄てられているのが分かった。間口がやけに広いものの高さはそれほどなく、洋燈に照らされた壁は一面の黴に覆われている。だが隅には古い長梯子が立てかけられ、上からわずかに光が差しこむのに気づく。頭上もまったく閉ざされているのではなく、煉瓦が緩く填められるだけのところがあった。しばらく辺りを検めたあと、再び鶴嘴を握る人足へ声をかける。

「おい。お前たち、そこまででいい。今から片づけを済ませて帰れ」

「えっ、いいんですかい。今日はもうお開きですか」

「今日じゃなくこれきりでいい。てめえらの足で今すぐ出てけ。ただしここのことを間違っても外にばらすな」

 右手で金貨入りの袋を投げやり、脅しとばかりに左手で鞘に指をかけた。人足たちは中身も確かめず首を縦に振り、慌てて荷物を拾い立ちさっていく。

 シナンは足音が消えるのを待ち、梯子を壁に掛け上へと昇った。顔を天井に近づけるにしたがい光や音が間近に迫り、すぐ上が人の住まう家であるのが窺える。

 ラウーの頼みを受けてから、ここまで辿りつく道を頭に浮かべていた。地下の道を使えと助言は受けたが、狙った屋敷の下に入るのはほとんど手探りといってよい。都のそこかしこにある入口を知りつくすとはいえ、長く暗闇にいては行き先が朧にしか掴めないのだ。だが図らずも勘が当たったのみならず、そこが石切場として開かれていたなど誰が思いつくであろうか。おそらく屋敷が建てられた後は、隠し部屋か物置に用いられていたのであろう。隅には幾つもの樽が並べられている。

 煉瓦を少しずらせば、言葉の一つひとつまではっきり聞きとれる。床に厚い絨毯が敷かれているおかげで、息を潜めるだけで姿も気配もうまく隠しきれた。さらに耳を澄ませると上から声が漏れ、そのうち一人はイドワルのもののように聞こえた。

「ファラハはどうだ。前のように取りみだしはせんようになったか」

「襲われてしばらく怯えていましたが、一昨日から昨日からは随分と落ち着きました。先ほどなどは、カーリがいつ来るのかとお訊きになっていましたよ」

「ならばよい。グレフが目を光らせる限り、もう無闇に手出しをする馬鹿は出るまい。何より穴蜘蛛にファラハの頼れる者がいたとはな。そのうえ同じく惹かれておるのは、儂たちにとっても都合がよい」

 ここまで来て二人の仲を噂されては、シナンは嫌でも頭に血が上る。しかし次にはイドワルの声が低く沈むのを耳にし、憤りを露わにするまいと口を固く閉じた。

「ところで先ほど城の外から使いが来た。ついに都の外で兵が起こったとの報せだ」

「兵はどこから、いかほどでしょうか」

「旧セルク領のほぼ全てだ。数は十万をゆうに越えるという。しかも老若男女を問わず、五体満足の者は残らず武器を取り立ちあがった。一個の力は弱くともみな士気が漲り、敵を破ながらこの地を目指しておる」

「では我らも狼煙を上げる刻が。イドワルさまの広めた噂が、同志たちを奮いたたせたのですね」

「いかにも。ウーゼル王の名は滅びず、未だ我らの間に生きつづけておる」

「ならば都でも誰の名において兵を挙げるか、旗印を決めておきませんと。戦で矢面に立たせるのであれば、ヨガイラが相応しいかと存じます」

 屋敷の下に侵入はいって間を置かずして、思いもよらず二人の話が肝心のところに及んだ。もし誰か名だけでも掴めれば、カーリを差しおいて代わりにその位を占められるかも知れない。だが続くイドワルの溜め息が、シナンの見出しかけた望みを裏切った。

「副王の軍を倒すだけなら、決して悪い策でなかろう。しかし戦で勝ちを収めた後は、我らの手で都を守り、新たに国を築いていかねばならぬ。ヨガイラは我らと同じ血も引くが、父が他国の者のうえ母親もそこへ嫁いだ身である。王の位に就くのが余所で生まれた者ではまずい。またあれほどの使い手が後ろで護られるより、直に刃を振るわせた方が理に適う。力を尽くさせて申し訳ないが、やはり別の者が望ましい」

「では誰にされるのですか。イドワルさまではいけませんか」

「他の氏長を差しおいて、果たして皆がついてくるかね。やはり旗印が務まるのはファラハをおいて他にない。百年の時を経て国を取りもどすのに、内輪揉めで相争う愚を繰りかえしてはならぬ。玉座に就く者は、ウーゼルの血を引く者こそ相応しい。だからこそ多くの者に顔を拝ませ、名を売らせているのだからの」

 まさか旗印がどこぞの男でなく、あのファラハとは間違いではないか。シナンは頭の中で数えきれぬほど繰りかえし呟き、我が耳を幾度となく疑う。腕の筋は呆けたように緩み、震えた足で梯子を降り岩場に腰を下ろす。

「ヨガイラはこのことをご存知でしょうか」

「他言は無用、王族の血を引く者の一人とだけ伝えてある。幼い頃より傍につけて身を守らせておるのもそのためだ」

「もし聞けばさぞ悲しみますでしょう。しかしそうと決まれば皆に報せませんと」

「待て。機は一度しかない。急いて仕損じた後では取りかえしがつくまいぞ。このところ副王の手先が近くを嗅ぎまわっておるが、何があっても守りぬくのだ。広く正体を明かすにしても手段を選びぬき、まずは他の氏長を説き伏せねばならぬ。そのうえファラハも街へ出てさほど刻が経っていない。再び取り乱さぬよう見はからい、蜂起の話を切りだすのだ」

「承知いたしました。ではこれで長らく人目を欺いてきた、あの者たちの力も生きるというものです」

「近ごろは足を運べぬが具合はどうだ。手当てを続けた甲斐はあったか」

「もちろんです。ただ働くだけでなく、かなりの数が力仕事まで任されています」

「しかし兵を相手にするからには、我らが幾らか力を増しても分が悪い。かといって外で軍を起こした同胞はらからも、我らを助けるどころか勝ちを収めるかも分からぬ。おそらく都での戦を決するのは、何かしらの策がかなめになろう」

「その策はもうお考えなのですか」

「いいや。兵ひとりにも刃向かえぬ今の儂らでは難しい。そこで借りたいのが穴蜘蛛の知恵だ」

「ですがグレフたち一味は、我らと芯から手を結んではいません。むしろ体よく金を巻きあげ、隙あらば副王に寝返る腹づもりでは」

「分かっておる。頼みの引きうけ代も、すぐさまに値を釣りあげてきたわ。しかし一口に穴蜘蛛といっても、当てにするのはグレフではない。ファラハに心を傾けているカーリをうまく使うのだ。あの若者は頭も切れると聞く。策をもたずとも賊の動きを掴むのに使えるはずだ。引き入れれば必ずや我らの力になる」

「ファラハさまは、果たして喜ばれるでしょうか」

「儂とてあまり気は進まぬが、皆の受けた苦しみや嘆きには替えられぬ。もはや一人の情のために迷い、事を遅らせるいとまはないのだ。この件ゆめゆめ覚られぬよう、カーリを屋敷に入れたときは気をつけよ。あくまで奴は我らと相容れぬ穴蜘蛛の一人だ。じきに少なからず探りは入れてくるはず。こちらも何を問われてもよいよう、いくらか備えておかねばなるまい」

 どんなに願ったところで、一向に話が覆る気配はなかった。ずらした煉瓦も元に戻さぬまま、遠のく声を背に屋敷の下から立ちさる。ラウーからの頼みは半ば果たしても、素直に事を報せるか否かを決めかねていた。

 親方のもとへ帰るにせよ副王に従うにせよ、白羽の矢が立った者の命は奪わねばならぬ。見ぬふりをすれば来たる戦で後れを取り、仲間が住処を追われる恐れは大いにあった。しかし話を受けたのはファラハをものにするためであり、このままでは自ら望みを断つ羽目になる。さりとてイドワルに与するなど今度こそ仲間への裏切りに他ならず、ましてやかような卑怯者の思うさまに任せてよいはずがない。

 貫くべきは果たしてかそれとも義か、頭の中で巡らせるほど迷いが増していく。たれかこの苦しみから解きはなて、そのためにははらわたでも抉れと願うも、外から隔てられた地下の道に響くのは自らの足音のみ。シナンは顔に表れる悲しみを隠し、暗闇の中を当てもなく走りつづけた。

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