第3話 同朋

 埃と小さな罅に覆われた荒屋には、床板で蓋をされた隠し階段があった。傍目からは持ち主などないかのように朽ちはてながら、床下の部屋には若者たちが集い盛んに賑わっている。天井ちかくの小さな窓と燭台に薄暗く照らされ、みな椅子に腰かけ回転盤ルーレットを回すか、或いは賽子さいころを振り紙札カードを引きかえあっていた。中には手元にめいめいぜにの山と杯を置き、怪しげな薬を煙草に混ぜて深く吸いやる者もある。外から遮られたそこは公に認められぬ賭場であり、商人あきうどや主に余所から来る出稼ぎたちがお上の目を逃れ楽しんでいた。

 元締めは法の網を潜る穴蜘蛛であり、稼ぎを守るために仲間たちを呼ぶ。カーリもまた用心棒の合間を縫い、見まわりを命じられていた。このとき卓を挟んで膝を突きあわせるのは、務めを任されるときによく手を組むシナンである。歳は同じながら髪は赤く瞳は緑、目鼻は彫りが深く身体は一回り大きい。見目のとおり常に威勢がよく、ほとんどの努めを力押しで片付けていた。

「カーリ。こないだは世話になった。務めを譲った俺を立ててくれたんだろ」

「親方に話を振られたから、得手不得手を考えて答えたまでさ。もし立場が逆の頼みが来たら、理由を付けてお前の方を推すつもりだ」

「ありがたい。お前はこれまでもそうしてくれた。何にも恨みに思っちゃいねえよ。そうそう、あのあと休みの日なのにぼろ市も行ってくれたんだってな」

「厄介者はどこにでもいるさ。いちいち気にしてたらきりがない」

「でもお前にばかり働かせちゃ悪いから、そのぼろ市の奴とは別だが、ふざけた真似しねえようにさっそく脅してやった」

「おい。親方の許しも得ずに、勝手な真似はするな」

「許しどころか、直々に命じられて睨みを利かせといたんだ。放っとくといくらでもつけ上がって、じきに手が付けられなくなるだろうからな」

 皿に載せられた羊肉の生地焼パイをつまみながら、時おり笑いを漏らしては水で喉を潤す。二人は外見そとみや仕草は大きく異にするものの、昔から互いにどことなく気が合った。陽の高いときに会えば道端で立ち話をし、夜であれば店で酒も酌みかわす。ともに若くして親方から大事を預けられ、町衆まちしゅうからは恐れられつつも力強さと粋で好かれていた。しばらくは二人で辺りを見守るはずが、おもむろに客たちが近づいてくる。

「噂は聞いたぜ。この間はやったな。よくあいつをへこませてくれた」

「ご丁寧に忠告までしてやるなんて、随分とお優しいじゃねえか」

「俺はあんたの仲間じゃないが、あの誤魔化し方は頂けないね。理屈で仕掛けて負けちゃ駄目だな」

 声をかけるのは穴蜘蛛ばかりでなく、何かにつけ金をむしり取られる行商の姿さえある。これまで何度も損を被ってきたにも関わらず、知恵と力を口々に褒めたたえた。また多くの男たちに混じり、若い娘と年増の女ふたりが隣に椅子を並べてくる。どちらも化粧と香の臭いを振りまき、肌も露わな装いに甘い声で媚を売ってきた。

「貴方がカーリね。噂どおりのいい男。今日は少しお暇をよろしいかしら」

「あたしもご一緒するわ。こないだも派手に大盤振る舞いをしてたじゃない」

 両隣から迫られて悪い気はせず、左右の腕を肩や腰に回す。だがいつもは誰を塒に連れこむかすぐ選べるのに、この日は口説き文句がうまく口から出てこない。女ふたりからあからさまに色仕掛けで誘われているのに、どうしても手間をかけて落とす気がしなかった。

「カーリの隣はこの私よ。乳くさい餓鬼は場ちがいだわ。貴女みたいな小娘ごときに、彼の良さが本当に分かってるの」

「皺が寄ってたるんだ婆のくせに、あんたこそ不釣りあいじゃないの。カーリにはあたしの方が相応しいに決まってるわ」

 娘と年増が言い争いをはじめる一方、カーリは小さな窓から差す薄明かりに目をやる。いくら華やかに褒めそやされても、陰ばたらきに関わると知って、なお寄り添ってくれる女がどれだけいるか。務めのうち少なからぬ数が殺しを占めており、嫌が応にも隠される生業が忌まわしく感じられる。しばらくけたたましい騒ぎ声を聞きながしていたが、野太い怒鳴りが部屋に響きふと我に返った。

「ふざけんじゃねえぞ。不正インチキを仕掛けやがって」

 別の卓では六人の客たちが、壺振ディーラーに激しく詰めよっていた。むろん店そのものがもぐりであり、金を稼ぐための如何様いかさまは常日頃からある。出入りする者は半ば承知のはずだが、おそらくは分を弁えぬか余所から来た一見いちげんの博徒たちであろう。すぐに奥から主がひとり駆けより、ごたごたの中へ割って入った。相手がそれなりに凄んでも腰は引かず、むしろ唾が飛ぶほど威勢よく嘲る。

「俺が切り盛りしてる店で、あんまり騒がれちゃ困るな。何があったか聞いてやるから、ひとまずここで言ってみろ」

「俺たちが多く金を賭けたときに限って、決まって回転盤が外れやがる。あっちでやってる紙札もそうだ。どっちも金を巻きあげるために、壺振が手を加えてるに違えねえ」

「言いがかりは困るな。やった証拠ねたはあんだろうな」

「だから教えてやったように、俺たちが負けたのが証拠ねたに決まってんだろ」

「話にならねえな。お前さんたちが金を擦ったところで、俺たちが責められる筋合いがどこにあるってんだ。賭場に入って寝言ぬかすんじゃねえ。ここはお客さんに楽しんでもらって、代わりに少しばかりのお代を頂戴するとこだ。嫌ならさっさと出ていくこった。誰も止めてやらねえぜ」

「ああ。だが金だけは返せ。騙しとられた大事な金をよ」

「勘と運のなさを人のせいにするなんざ、まったくもってどうしようもねえな。くだらねえ因縁つけやがって。今ならこのまま何もしねえでお家に帰してやるよ」

「うるせえ。つべこべ言わず金を出しやがれ」

 幾度か問答を繰りかえすうちに博徒の拳が飛び、殴られた主は背中を強く壁に打って尻餅をつく。連れも客が身を遠ざけるのをいいことに、寄ってたかっていたぶりにかかった。

 仲間が袋叩きに遭うのを前に、二人はすかさず助太刀に入る。カーリは一人の襟首を掴んで引き、足をかけ床に倒しざま踵で顔を踏みぬく。砕けた歯を床に散らして気を失わせると、残りの五人も手を止め揃って振りかえる。

「てめえ。いきなり何しやがる」

「貴様らが足蹴にしてるのが、誰だか分かってやってるのか。ここで穴蜘蛛(俺たち)に手を出して、まともに帰れると思うな」

「このちびが。群がらなきゃ何も出来ねえくせに」

 別の一人が啖呵を切ったところで、シナンが横からしたたかに顎を殴りつけた。またも仲間が仰向けに寝そべるのを目にし、残された博徒たちがいっせいに襲いかかる。

「やっちまえ。如何様の罰を喰らわせてやれ」

 数は四人に減ってもなお頭数で劣るため、カーリはシナンに目くばせをして互いに離れ、相手を二手に分けたうえで近くに誘きよせる。案の定、博徒は椅子を蹴りだし動きを封じにくるも、部屋での喧嘩には穴蜘蛛の方に慣れがあった。後ろへ退きつつ押される振りを巧みに装い、狭い卓と卓の間で一人だけと相対する。先を制そうと突きだされる右拳をかわし、肘で鳩尾を貫き息を詰まらせ足下に転がした。

 しかし出遅れた片方は固く構え、罠には乗らじとうまく間合いを取ってくる。頭ひとつ高い胴を前に傾け急所を腕で守り、両脇を塞いでは僅かずつ詰めよってきた。組みつかんとする左右の手を逃れ脛を蹴るもさして効かず、横から顔を狙うも軽く払いのけられてしまう。そのくせ向けられる拳や掌は、どれも風を切るほど重い。舞うような身のこなしで避けるが、丈と目方に差があるために殴り合いでは分が悪い。

 ならばと攻める術を変え、伸ばされた腕を手で掴み動きを止める。次いで懐に入り相手の肘を自らの肩に乗せ、足を払うや胴を背に負って放りなげた。さらに巨躯を勢いに乗せ高々と宙に翻し、床に落ちる前にこめかみを思いきり蹴りとばす。博徒は投げざまに骨を折られ頭も打たれ、うつぶせに倒れ血と泡を口から吹いた。

 ちょうどシナンも同じ頃に、他の二人を拳骨でのしていた。椅子は横に転がり皿は割れたものの、回転盤は傷つかず店はさして荒れずに済んだ。喧嘩が終わるのを見計らい、一度は逃げた客もすぐに舞いもどる。

「数では負けてたのにすげえ。あっさり勝っちまいやがった」

「やっぱり穴蜘蛛の若衆ふたりだ。おかしな客が来ても何も恐くねえ」

 男も女も再び二人を囲み、手を取りあるいは肩を叩く。彼らは腕っ節だけで慕うのではなく、得物を抜かずに片を付けたのを潔しと称える。穴蜘蛛の中にはいちいち抜き身を振るう者もいるが、二人は客を気づかうため拳で騒ぎを鎮めたのだ。ただし喧嘩に勝った二人のうち、より人目を引くのはシナンであった。頬や首筋に残る痣も剛毅の証であり、腕っぷしに任せる戦いぶりは派手でもある。カーリはひっそりと主の傍へ足を運び、壁を背に寄りかかるところへ手を差しのべた。

「親爺。一人だけで立てるか。やられたところが傷になってないか」

「痛みは大してひどくねえ。少し間を置いときゃ治る。しかしあんたが見まわりのときに、わざわざ手間かけさせちまって済まねえな」

「無事なら良かった。連中の後始末はできるか」

「まだ頭ははたらくから、もう大丈夫だ。おいお前たち、何してる。怪我人にでかい声ださせるんじゃねえ。あの糞どもを縛りあげて吊せ。起きあがる前に手分けして踏んじばれ」

 主が呼びたてるのを耳にし、隠れていた下男や壺振などが慌てて出てきた。各々が目の粗い縄を握り、慣れた手つきで博徒たちの手足を縛る。終わると数人がかりで持ちあげ、天井から逆さに吊るし晒し者とした。

「親爺の店だから後は任せるが、殺すまではやらない方がいい」

「そこまでさせるつもりはねえよ。具合が悪けりゃ手当くらいしてやるし、喉が渇けば水だけは飲ませてやらあ。ただ二度と下手な真似はしねえように、お客さまに楽しんでもらわなきゃな」

「外に漏れて死なれたら面倒だ。うまく手加減しといてくれ」

 捕らわれた博徒はこれに加え、客や穴蜘蛛たちから嬲られるのが慣わしであった。命までは奪われないにせよ、目や耳のひとつは利かなくなるやも知れず、カーリは賭場の奥にある小部屋へと向かう。殺しの頼みを受けるのも珍しくないくせに、酷たらしい罰は傍で見るのも嫌なのだ。一人で塞ぎこんでいると、シナンも続いて入ってくる。

「せっかく喧嘩に勝ったのに、いきなり出ていっちまって。どうした」

「明日も務めなのに、どうも身体が重い」

「たしかに疲れちゃいけねえな。ここなら静かだから、しばらく休んどいた方がいい」

 部屋は粗末な物置のように荷が積まれ、水桶も藁屑のうえに無造作に置かれている。二人は桶から手で水を掬い、喉の渇きを潤し椅子に腰かけた。

「しかしさすがに務めの肝を任されるだけあるぜ。もっとも顔を見られていいなら、俺も今日みたいに使われるだろうが」

「忍びこむなら話は別だが、ああしていきなり来られると一人だけじゃかなりきつい」

「こないだはお前が的を仕留めて、さっきのはお前と俺の手柄。だが次に頼まれてる取り立ては、お前に譲ってやらねえぜ。一昨日も三人で押し入って、一気に片を付けてやった。これだけは力にものを言わせた方が早え」

「手に余る厄介者じゃないだろうな。駄々を捏ねられると後々まで尾を引くぞ」

「お前がやり込めたみたいなのとは別さ。何せ奴らは金を借りてるんだからな。俺たちに弱味を握られて強がる馬鹿がどこにいる。ちょっと無理しても文句つける奴なんかいやしねえだろ。何人かは踏み倒そうと足掻いてきたが、光りもんちらつかせりゃすぐに大人しく渡してきたぜ」

「おい。あまりやりすぎて評判を落とすなよ」

「黙ってても怖じ気づくから、ほんどの奴はそこまでで済む。強いて粘ってきたのといえば、腰が曲がった婆ひとりくらいか。病持ちだの金がねえだの娘は死んだが孫はいるだの、下らねえ泣き言ぬかして得物を抜いても退きやがらねえ。最後は金目のもの全部引っさらって、一応は許して帰ってやった」

 シナンが自慢げにひけらかす手柄に、カーリは固く口を結んだ。何も今にはじまったことではなく、ひと仕事を終えたあとの半ば決まり事であるのにやけに耳に障る。その理由わけが何であるのかは、いちいち頭をはたらかせずとも分かっていた。

 もうあれから四十日が経ってなお、長屋での姿が頭に焼きついている。たとえ一文の得にならずとも、子供を構い年寄りに力を貸す。幾つか顔馴染みはあるにせよ、多くはどこの馬とも知れぬ者であった。とりわけ忌病いみやまいに苛まれた者を見舞うのは口先だけで出来ようはずがなく、そのファラハが労るのと同じ病者びょうじゃから金を毟りとるのは元が仲間のものでも気が咎める。

「どうした。喧嘩でどこか打ったか」

「身体は痛まないがお前のやり方が心配だ。たかが年寄りひとりを相手に、力ずくじゃなくければ出来なかったか」

「なに言ってんだ。金を貸してやったんだぜ。日と時を決めた証文だってちゃんと残ってるんだ。いちいちお慈悲をかけてたら、いつまでも取りかえせねえぞ。お前だったら手間をかけねえで済ませられんのか」

「孫がいるなら都から逃げようもない。腰を患ってるなら尚更だ。急いで取り立てに行かなくても、穏やかに事が収まったのに」

「おい、じゃあ見逃せってのか。放っといたら苦しむのは親方だぞ。どうした。あんまり表にいい顔してきたんで、頭ん中まで染まっちまったか。俺からすりゃあ、お前の方がよっぽど心配で仕方がねえよ」

 言い分は筋が通っており、少し前ならカーリも同じように割りきれていた。だがものを取りかえすのにも作法はあるに違いなく、自らが任された務めではないのに他の策を案じてしまう。いっぽう眉を顰めるのを不機嫌と取ったのか、シナンは肩に手をかけて話を変えてくる。

「そう言や明日はお前の番だが、例の務めをどう思う」

「親方はどういうお考えで、こんなに長いあいだ用心棒を続けさせるのか。それに四日か五日に一度の休みを入れて、あの長屋に通わせてるイドワルも何のつもりだ」

「まあまあ難しい顔するなよ。中の様子は俺もお前も確かめて、親方に報せたじゃねえか。それよりファラハ(あの娘)をどう思う。何だかんだ二人で外を歩くのは悪い気がしねえだろ。他に用事があるのか昨日も出足は遅れたが、俺もいつの間にか待ちどおしくてな」

「少し変わってるけど、うん、いい娘だな」

「イドワルの養女だけになるだけあって、そこらの女なんか比べもんにならねえ。形は地味でも俺たちを馬鹿にしねえし、道端の怪我人なんかも手当したりして気だてもいい。おまけに見たとこ、ありゃ処女きむすめだ。ちょっと触れただけでびくついてたぜ」

 たしかに賭場に出入りなどする、これまで閨を共にした女とはまったく違っていた。生まれも育ちも堅気や市井のそれではなく、滅多にいない類の娘だけにシナンも色めきたっているのであろう。だがカーリの胸を打ったのは別のものであり、身体を手に入れようなどとの欲とはかけ離れたところにある。嫌らしい目で見るのはもちろん、それを口に出すなど黙って捨ておけなかった。

「シナン。言っておくが取り立てよろしく、間違っても力ずくには出るな」

「そりゃあ聞けねえ。女ひとりをものにするのに、遠慮したら他の奴に盗られちまう」

「金で頼みを受けながら、不実をはたらくなど親方が許すと思うか」

「許されるとも。頼み主が奴らの顔役で、その養女なら人質を貰ったのと同じだ。俺たちの誰かのものになりゃあ、色々とやりやすくなるだろうよ。親方からはよくぞ手柄を立てたと褒められこそすれ、間違っても責められなんかしねえよ」

「掟を忘れたか」

 分を弁えぬ物言いに我慢ならず、カーリは水樽を蹴り椅子から腰を上げた。驚いたシナンは息を呑んでおきながら、薄ら笑いを浮かべたまま減らず口を利く。

「あの娘が『弱き者』だって。今さら戯れ言をぬかしやがる。払えるだけの金は持ってんだ。義理を通してやるほどの相手じゃねえ」

「ファラハは都に来てそれほど経っていない。ましてやまだ世慣れしてないんだぞ」

「俺の手に入れば掟破りにはならない。余所から狙われれば狙われるほど、無理を押しとおしてみたくなる」

「仮にものに出来ればいいが。まさかその手の傷に疾しいところはないだろうな」

 カーリは向かいに置かれた右手の、掻き傷を見逃さなかった。黒い眼を尖らせ、鋭く差し貫く。

「何だよ。そこまで怒らなくていいだろ。色男のカーリさまがご執心なら、俺も妙な真似は止めてやらあ」

「ふざけるな」

 掴みかからんばかり勢いに押され、シナンはたまらず小部屋から飛びだした。差しむけられた憤りがよほど堪えたか、足音は珍しいまでに速く遠のいていく。

 カーリは急いで追わんとするも、賭場から馴染みのある声が聞こえ、入れ違いにグレフが入ってくる。根城から近いこともあり、報せを受けて直々に駆けつけてきたのであろう。話のかなりを耳にしており、眉や頬、口元に幾筋もの深い皺を走らせている。

「事の大方はたったいま掴んだ。お前が案ずるまでもなく、奴の思うとおりにはならん」

「親方。いつからご存知でしたか」

「つい先ほど奴らの使いが来てな。シナンがあの娘に迫ったというから、ただそうとした矢先にこの店での喧嘩ときた。聞けばあの馬鹿め、娘が強く出ないのをいいことに、無理やり裏道へ連れこもうとしたらしい。運よく屋敷へ逃げたからいいものの、下手をすれば取りかえしがつかないところだった。はじめは信じられなかったが、お前との話から察するに間違いなさそうだ」

「ならば急いで追わなければ。いまここから逃げだしたばかりです」

「焦らずともよい。八日のあいだ屋敷で落ち着かせたあと、元のように頼むと申し出てきおった。シナンがいくら阿呆でも、あそこへ押しいる度胸はあるまい。どちらにせよ奴は人手を割いてでも捕まえて、逆さ吊りの罰を与えてくれる。それからカーリ、どうやらお前はあの娘、ファラハにいたく気があるな。いつもの遊びと違って珍しく、いやおそらく初めてむきになった」

 傍にいるのは務めであると自らに言い聞かせても、傍からは顔や物腰が変わったと見られているらしい。柄にもなく両の頬に熱い火が差した。たしかに責を全うするだけであれば、こうも取りみださずに済んでいる。穴蜘蛛に身を置く者としては、望ましいものではない。

「仰せつかりましたお務めに、情を移らせて申し訳ありません」

 掟に照らせば叱りが飛ぶものと、カーリは深くこうべを垂れた。だが思惑とは裏腹に、グレフの面からは穏やかな笑みが溢れている。

「なぜ謝る。ファラハがいい娘なのは、歳のいった俺にも分かる。むしろお前が入れこんでいるのを知って、久方ぶりに我がことのように嬉しくなった。今までのお前は女と何度か寝ても、なかなか本気になろうとはせんかった。あの娘が受けた恐れから立ちなおるには、お前が離れず傍について優しく癒さねばならん。今すぐ解きほぐしてやれば、すぐにでも心を開くはずだ。これから用心棒の務めは、全てお前ひとりに任せる」


 カーリは八日が経った昼過ぎ、イドワルの屋敷まえに立っていた。約定の刻より早く着いたくせに背を門に向け、時おり扉へ目をやって深い溜め息をつく。そうして誰も出てこないのを確かめては、脇へ目を逸らしたあと遠くを眺めるのだ。

 この日に至るまでの間、どれだけ刻が過ぎるのを待ちこがれたか。これまでは戒めに触れぬよう想いを隠してきたが、親方の後押しを受けたからには堂々と表に示せる。にも関わらず落ち着かないのは、未だ直には姿を見ぬため。様子は聞かされても果たして嫌われていないかどうか、この日から外に出るといっても気が変わり中に籠もりはしまいか。

 すると気を揉む間に、ちょうど午を告げる街の鐘が鳴る。小さな物音がして屋敷へ振りかえれば、入口の扉が開きファラハが現れた。少しずつ歩を進ませるも、顔色は優れず身体を覆うような深い陰が落ちている。庇から陽の下に出てもどこか怯えたまま、儚く憐れを誘う姿に胸を掻きたてられた。

「ファラハ。今日もいつものところか」

 頷くだけで唇を固く結び、すぐには声を聞かせてくれない。怒りは発せられない代わり、明らかに恐れるさまが肌に突きささる。

「仲間がひどい真似をして済まない。奴は罰を受けて務めを外されたから、傍につくのは今日から俺だけだ」

 真正面から謝るなり、ファラハから掌を掴んできた。冷たくもか細い指が直に触れ、薄い布地を通し腕の柔らかさも朧に伝わる。

「どうして貴方が謝るのですか。私を襲ったのは別の人です。でも今日はいつものところではなく、二人で街を一まわりしませんか」

 すれ違う者から覗かれても、カーリは憚らず足を前へ踏みだす。長い髪からは香りが芳しく漂い、澄んだ瞳を向けられては逆らう力も失せてしまう。むしろ守る側が促されるようにして、人のまばらな大通りを歩いていった。

 他の娘と街を出歩くときは多少の愛想をかけてやれるところが、ファラハには気安く声をかけられない。暗く淀んだ顔を前に、苦しさを覚えるまで胸を締めつけられていた。せっかく逢えたのに手ばなしでは喜べず、どうにか慰められまいかと懸命に知恵を探るうち、程なくして広場に突きあたる。このときカーリはいつぞやの話を思い出した。

「そういえば初めて会った日に、俺が金を撒いたのを見たと言ったな。あのあと街の連中が、宴を開いたのは知ってるか」

「はい。でも皆が噂をするたけで、私は混ぜてもらえませんでした」

「ではこれは聞いていないな。そう遠くまでは届かないから」

 ファラハの答えを受け、柵に腰かけ懐ふかくに手を入れる。取りだしたのは指先から手首ほどまでの長さの、黒く細い木の横笛であった。口元に当てれば息がに変わり、辺りのくうを滑らかに揺らし広がっていく。指が動き唇が傾くたびに音は高さを変え、調べは明けたばかりの朝のように清く、穏やかながらどこか憂うようでもある。耳に届くあまちの心地よさに近くの町衆も足を止め、終わるとファラハが膝の上へ手を置き隣に腰かけてくる。

「とても綺麗。はじめて聞かせてもいました」

「屋敷では、吹く奴もいないだろ」

「たまにお義父さまが竪琴を弾いてくださいますけれど、こんなに上手くはありません。他にも色んな曲を吹けるのでしょう」

「幾つもある。今のは皆にも受けがよくて、宴では大体せがまれる」

「よければ私にも教えてくれませんか。家では誰も吹けませんから」

「構わないがすぐには無理だ。まだお前のを持ってないだろう」

「私のは後で別に買います。今日は貴方のを貸してください」

「いや、笛ひとつとっても合ったものでなければ」

 うまくいかないと言いきる前に、笛を素早く取りあげられてしまった。だが素人だけに息を流しても音はひとつも出ず、筋を掴むまでは至らないために幾ど試しても変わらない。苦笑いを浮かべていたカーリも見かね、吹きならすのに横から助けを入れる。

「そうでなく俺と同じように、ほんの少しだけ右手を下げて。左を向いて腹の底から深く出して。あと息を出すときは腰を曲げないで、背筋をちゃんと伸ばして」

 どうにか教えに従いながら、四苦八苦する姿は何とも可愛らしい。用心棒をはじめた日から察しがつくように、芸を習うゆとりも暇も与えられなかった。ならば喜ばれぬ日陰者の身の上ながら、少しでも慰めるべく手を差し伸べようとした。

 しばらくして小さな音を出した後、ファラハはようやく笛を離す。空に向けた陽の当たる面には、少なくともカーリが初めて目にしたあどけない笑みが溢れていた。

「せっかく教えてくださったのに、やっと短く鳴っただけです」

「当たり前だ。音を出すまで俺も手こずった。いくら器用で芸が達者だって、すぐ思うように吹ける奴はいない」

「このうえ指を動かすのでしょう。どれくらいお稽古をしたのですか」

「今みたいになるまでおよそ四年。易しい曲から始めて、ひたすら数をこなして腕を磨いた」

 横から眺めるだけでも目を覆わんばかりに眩しいのに、笛を返したあと潤む瞳を真っ直ぐに向けてくる。

「私が思っていたとおりです。こうしていても、無理に迫ってきません」

 薄い頬が朱に染まるのを前に、グレフが口にした言葉を改めて噛みしめた。やはりファラハは金で任せた務めの外に、己を心細さの頼りとしている。未だ恐れを拭い去るには至らず、腕を組み指もきつく絡めてきた。

「俺は掟破りなどはたらかない。頼みにつけこんで襲うなど恥じるべきだ」

「私も慎みが足りませんでした。あれだけ仰ってくださいましたのに」

「人通りも少ないのに大丈夫だったか。助けを呼んでも誰も来なかっただろうし」

「連れこまれたときは震えましたけれど、家に帰ってからは収まりました」

「だからもう軽はずみな真似はするな。そこらにどんな奴がいるか分からない」

「でも貴方なら安心できます。優しいのも表だけではありませんし、危ないときは身を守ってくださるのでしょう」

「不届者を必ず退けられる訳じゃない。前にも言ったように、俺が妙な気でも起こしたらどうするつもりだ」

「私がまったく望まないと、本当にお思いですか」

 はぐらかしたつもりが話を戻され、間近で見つめられては答えに詰まる。思わずいちど顔を背けたあと、意を決してようやく喉から声が出た。

「違うんだ。同じ真似をして嫌な思いをさせたくない」

「でしたらその方が恐いのです。私がこれだけ申し上げても、何もしてくれない方がよほど。ですからせめて名前だけでも、直に呼んでくださいませんか。お務めの間でも〝ファラハ〟と。代わりに私も貴方を〝カーリ〟と、お呼びしてもよろしいでしょうか」

「ああ」

 乾いた唇を開き、ぎこちなくも深い頷きを返す。

「ファラハ。俺もカーリと呼んでくれ」

 多くは語らない代わり、掴まれた手をカーリからも握る。指もされるままでなく互いに絡め、触れていただけの腕も固く組む。もの言わずともたしかに通じたのか、季節外れの暖かさが辺りを包んだ。睦まじく街中を歩きだす二人の間には、あたかも何ひとつ仲を隔てるものがないかのようであった。

 カーリは務めや生い立ちなど忘れ、いつまでもこの刻よ続けと願う。いつも厳しいはずの面は緩み、繋ぐ手にも柔らかな熱を帯びた。吹き抜ける風は程よく湿り心地よく、どこまでも続く石畳は陽の光に白く輝く。道ゆく人の声は穏やかに聞こえ、家々や店への出入りはもちろん、道端に座る物乞いたちさえどこか長閑に思われた。ほんの少し前まで人々が愚かしく町並みも汚らしく見えたのに、ファラハと共にいるだけで全てが微笑ましい。もし頼みが元からないか断りが入れば、かくも甘く快い思いは味わえずにいた。さらに傍にいるだけで舞いあがるのに、もし邪魔が入らず仲が深まれば、触れあえればと胸が高鳴る。

 だが喜びを伝えようとしたとき、ふとシナンの顔が頭に浮かんだ。運よくファラハと仲を深められたが、口火は他ならぬ友の過ちである。慰めるためとはいえ弱みに付けいるなど、親方の後押しがあれど果たして掟に則るものか。もしシナンの手落ちがなければどうであったか、ファラハと通わせる想いにも疑いが生まれる。

 さらに街中を歩くうち、カーリはどこかから向けられる気配を嗅ぎとった。道を行き来する人の数は大きく減り、後ろを覗けば胴鎧を纏う四人の兵が追けている。いずれもどこかに紛れるのではなく、長剣で人を払いながら足早に近づいてくる。

「ついてこい」

 はじめ手を引きそれとなく行き先を変えるが、追手もやがて人目も憚らずに駆けだした。カーリはファラハと歩を合わせて走り、相手との間を保つ傍らで策を巡らせる。無事に守り逃がすためには、蜘蛛の巣のように張る地下の道へ隠れるのがよい。入り口を探すとすぐに覚えのある路地が見え、立ちどまり指をさし奥へと促す。

「左の空き家に降りの階段があるから、食いとめる間に地下で隠れてろ」

 ファラハだけを先に行かせ、わざと足を緩め両の短剣を抜いた。兵といえば目論見どおり、手分けして囲いこむなどの知恵ははたらかず、手柄を焦るばかりに息も揃わず四人がめいめいに走りよってくる。

 カーリは綻びを狙って機を計り、誘きだした先頭のひとりの前で振りかえる。膝から爪先を思いきり蹴り懐へ飛びこみ、剣を振りあげられるより早く右手の刃で喉を裂く。ただの一合いで仕留めたおかげで追う側に影も踏ませず、残りの三人が徒党を組むのを見やり路地裏へ後ろ向きに退く。

 両脇が壁に遮られる細い道が足場であれば、間合いの短い短剣の利が強くはたらく。相手は嫌でも一人ずつの攻めを強いられ、剣の刃渡りが長いせいで突くか打ち下ろししか許されない。次いで襲ってきた二人はまたも喉を薙ぎ、最後の一人は抜きうちを避けざま横から首筋を斬った。

 しかしいつの間にか、もう一人の男が通りの裏側を塞いでいる。鎧ではなく胸当てだけを身につけ、身の丈ほどの大剣を担いでいた。装いは先ほどの四人と異なるも、目つきは鋭く声音は荒い。

「さっき娘を連れてたな。まだ近くに隠れているだろう」

「だとしたらどうする。ここで向かってくるか」

「大人しく渡さないなら、そのとおりにするしかない」

 男は剣を抜き柄を両手で握り、左肩を前に出し突きの構えに入る。相変わらず左右に壁が続く足場であるからには、まず他の攻め手は考えられない。

 カーリは得物を鞘にしまわず、二本とも手に提げ少しずつ間を狭めた。穴蜘蛛は街中での立ちまわりのほか、剣や槍をあしらう術を代々に伝えている。剣も槍も重さのため取りまわしが鈍く、手元に潜ればこちらが止めを刺したに等しい。ましてや目の前にあるのは大剣であり、並の使い手なら造作もなく初太刀を外せると踏んだ。

 どちらも呼吸いきを掴まんと出方を窺うが、ややあってカーリが石畳を蹴り間合いを詰めにかかる。案の定、はじめ相手は剣の陣を張り、あと二、三歩まで迫ったところで突きを繰りだしてきた。鋭い剣身は左肩の上を走るも、カーリは容易くかわし一足とびで懐まで入りこんだ。

 ところががら空きの腹に刃を見舞いかけたとき、突如として宙に激しい炎が燃えさかる。前へ跳ねあがろうと縮めた膝を、咄嗟に向きを変え後へ飛びさがった。直に喰らわずに済ませたとはいえ、両の掌には鋭い痛みが走る。

 男は剣だけではなく、炎の魔法の使い手でもあった。堂々と長物で迎え撃ったのは、わざと間近まで誘いこむ罠に他ならない。曲者をいかに退けようか、互いに睨みあう間に横から声が響いた。

「二人とも止めて。お願いですから、どちらも剣を引いてください」

 見やればファラハが空き家から顔を出し、割って入らんばかりに叫んでいた。男は大剣を壁に立てかけ、構えを解きただちに畏まる。

「失礼いたしました。お嬢さまが賊に襲われたと、つい先ほど伺ったものですから」

「心配をかけてしまいましたが、この方はまったく違います。カーリにもお詫びしなければなりません。こちらは私の幼馴染みでもあります、お義父さまに仕えているヨガイラ」

 慌てて仲立ちをされたカーリは、得物をしまいながら黙りこんだ。やりとりを耳にするからに剣を向けたのは勘違いであり、ひとまずはファラハの信の置ける者だという。だとしても傷を負わされては軽々と頭を下げられず、まじまじとその姿を眺める間に、ヨガイラの方はふと脇を見やり倒れた兵に歩みよる。

「お嬢さま。お気持ちは解りますが、ひとまずお屋敷に戻りましょう」

 カーリが目を離した間に、ファラハは兵に掌を当てていた。いずれも急所を突いたからにはとうに冷たい骸と化し、どんなに手を尽くしても決して息を吹きかえすことはない。しかし施しが無駄に終わるとは口にはできず、かつて長屋で病者を見舞う姿を目の当たりにしたときと同じく、しばし立ちつくしてファラハを見守った。

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