第2話 邂逅

 都の東門ちかくの裏通りに、穴蜘蛛が根城とする屋敷があった。外見そとみは手入れが行きとどき、どこぞの商家かと疑うほど造りも大きい。ならず者たちは務めを終えたあと、もしくは位が上の者に用のあるとき、昼と夜とを問わず盛んに足を運ぶ。

 カーリも殺しのほとぼりが冷めるのを見やり、他の仲間と同じく根城へ舞いもどっていた。外は薄雲が空を覆うなか、二階の窓からいつもの景色が見おろせる。身重の女が薬屋の軒先で取りすがるも、主が頑なに拒み外へ追いやるのだ。

 この手のやりとりは今に始まったのでなく、都ではいつどこででも起きていた。法ではもの売り買いまで身分の差を設けていなかったが、実のところは貴族や役人が目を光らせている。臣民は町衆まちしゅうへ薬を売るのを嫌い、従わぬ者や気にいらぬ者を私刑にかけるのだ。声ははっきりと聞き取れないまでも、店は罰を恐れるあまり薬を売らないのであろう。おそらくあの腹にいる赤子は助からず、もしやするとじきに女みずからも病に倒れるかも知れぬ。宴ではあれほど親しく杯を交わしたのに、近くに五、六人の町衆がいても知らぬ顔で足早に立ち去ってしまう。あの日は賑わいも大きかっただけに、貧民たちのありさまがいっそう虚しく感じられる。

「カーリ。さっきから呼んでいるのが聞こえんのか。呼ばれたら早くこっちへ来い」

 声をかけられ我に返れば、いつしか屋敷の主が椅子に座していた。名をグレフといい、歳は五十の峠を越えた頃、顔や首筋には数多の傷痕が刻まれている。穴蜘蛛に与するならず者を束ねる頭目であり、都に住まう誰も面と向かっては逆らえない。だがこの日は具合が優れないらしく、眉に険しく皺を寄せては背もたれに深く身を預けている。

「今朝からご気分が悪いようですが、どうされました。お身体は痛みませんか」

「もうじき嵐が来る。ここでなくとも近くを通るのだろう。いつものように古傷が障る」

「これではお話をされるだけでも差しつかえますでしょう。使いをやって、また別の日に改めた方が」

「他の奴ならまだしも、今日の相手に弱みを覚られてはならん。悪いが薬を呑ませてくれ」

 カーリは桶から椀で水を掬い、棚から出した薬を卓の上で開ける。傷に苦しむグレフからは、これまで数えきれぬほどの恩を受けた。実の親から捨てられたところを拾われただけでなく、穴蜘蛛としての心得をもって育てられた。いつぞや兵と刃を交えたときなどは身を挺して庇われ、その傷が年月としつきを経てなお疼いている。もはや直には争いごとに立ちあえない代わり、右腕として仕えるのが積年の恩に対するせめてもの報いであった。ぼんやりと窓の外に目をやるうち、グレフは薬を呑みこみ大きく息をつく。

「薬はもう残っていないな。後で誰かに買いにいかせよう」

「切れましたか。まだ金はここあるはずです」

 財布を確かめてみるも、あまり多くは残されていない。芸人から体よく巻きあげた金は、諸々の用に役だててしまった。恥じる行いではなかったが、大盤振る舞いに過ぎたかも知れず、ばつの悪さに頭を掻く。

「申し訳ありませんが、持ち合わせが少ないようです。この間は派手にやりすぎました。ずた袋から大金だけは抜きとりましたが、小銭も全て持ちかえるべきでした」

「他の奴に頼むから気にするな。お前も無駄づかいはしなかろうし、ああいう騒ぎも悪くはない。町衆にも知られれば色々とやり易いから、これからも名を売ってくれ。〝正義のカーリ〟ここにありとな」

 カーリは肩に優しく手を添えられ、やはり親方の懐に根を下ろすべきと思う。殺しも喧嘩も誇れはせず、ましてや自ら義を謳った覚えもない。しかし穴蜘蛛は貧民たちと違い、賊と蔑まれても仲間どうしで助けあっている。ましてや互いの背を預けた相手を見捨てるなど、掟に照らしあわせただけでもとても考えられない。

 薬が効いたのか、グレフの顔に血の気が戻る。痛みも和らいだと見え、水で喉を潤してから口を開く。

「それにしてもこのところ、危ない橋ばかり渡らせて悪いな」

「あの商人あきうどを殺らなければ、じきに町衆は干あがるところでした。我々も苦められたかも知れません」

「分かっていても、お前にばかり殺しを任せるのが済まなくてな。獲物しだいでは出来る奴もいるが、あれでは仕留められるのは他にいない」

「存じております。あまり外へと出ない相手だからこそ、私を選ばれたのでしょう。力ずくで息の根を止めるなら、別に相応しい者もおりますから」

「シナンか。俺の前ではひとつも嫌な顔はしなかったが」

「事を打ちあわせたときに、同じ能力ちからの持ち主なのになぜ私が選ばれたのか、他の者は合点がいかなかったようです。もっともシナンはあの務めが不得手なのを弁えていましたから、私に的を外さないよう念を押してきました」

「あいつが分かっているのならいい。俺たちの中でお前とまったく同じ闇の力を備え、短剣も左右の二刀を使えるのはあいつしかいない。ただ人を使うのがうまい代わり、みずから気配を消して侵入るのは下手だ。何にせよ俺たちに逆らうとは、あの商人も愚かだったな。おかげでこの都のまことの主が誰だか、他の奴らも思い知っただろう」

 商人の殺しは貴族たちの間でも噂されたと聞くが、自ら手を下した身からすれば疑いが残る。殺しを頼んだのは貧民を纏める長老の一人イドワルであり、この日も客として根城を訪れるのだという。親方のもとへ赴いたのは顔を見せるだけでなく、そのイドワルを迎えるように呼びつけられたためでもあった。カーリは当人が顔を見せる前に、まずはグレフへ話を切りだす。

「ところでイドワルたちはなぜ、油売りの商人を消せと頼んだのでしょうか。たしかに油の値は上げられましたが、それを言うなら麻や皮、鉄など他にもあるはず。どれも前に高値をつけられたのに、ずっと放っておいたままです」

「気まぐれではないだろう。油がなければ困るようになったか」

「私には思いあたる節がありません。使い道も急に増えるものではないのでは」

「俺が考えるには、おそらくお上のやり方のせいだ。元から都に居つく奴らは、火の神を崇めるとおり多くが炎の魔法を使えた。だが副王や貴族が牛耳ってからは、面倒な奴はひとり残らず消している。怪しいのも目星を付けて拷問にかけ、噂までほじくり返して根絶やしにした。今まで火を起こすくらいは生き残りでも出来たが、いよいよ使い手をなくして油が要るようになった」

「ならば油を買うようになるでしょうが、改めて聞くと酷い話です」

「治める側にしてみれば厄介の種だから、牙を抜くにはうまいやり方ではある。だからといって真似しようとは思わん。俺が言ったのも当てずっぽうだし、奴らの魔力にお目にかったこともない。機があれば探りでも入れてみるか。イドワルも、ただの礼をするためにここへ来るのではなさそうだ」

 グレフは銀の煙管を手に取り、葉を火皿に詰め燭台の炎に翳す。煙が低い天井に立ちのぼり、まどろむような香りが部屋に広がった。カーリは薬を棚にしまいながら、これから来る客に考えを巡らせる。虐げられるセルクの民の一人といえど、氏族を束ねるからにはそれなりの蓄えはあろう。貧しさに喘ぐ身内を見かね、苦しい懐を痛め商人を消したのは分かる。しかし仲間の面倒を見るゆとりがあっても、こうも続けざまに頼みを持ちこんでは金が底を尽きてしまうのではないか。何をするまでもなく部屋を歩きまわると、しばらくして使い走りが恐るおそる扉を叩いた。

「親方、ただいま客が参りました。かねてから話のあったイドワルです」

「人をつけてすぐここまで通せ。上等な茶も淹れてこい。少しでも待たせないように、暇のある奴も手伝わせろ」

 グレフは低い声で指図を下し、休めていた身体を背もたれから起こす。痛みは消えないにしても、見くびられぬよう形を整えようとしている。緩めていた襟元を閉めたところで、客ふたりが手下に連れられ姿を現した。

 一人は髪と髭が白い齢も八十に近いイドワル。幾人かいる氏長の中でもとりわけ大きな力をもち、多くの町衆から長老と頼られている。もう一人は袖つきの婦人筒衣カートルを纏った、金色こんじきの髪が鮮やかな二十歳そこそこの娘。イドワルとは何度か顔を合わせているが、娘の方には一向に見おぼえがない。

「このたびはお世話になりました。おかげで皆も落ち着いております」

「何よりのよい報せです。私たちも骨を折った甲斐がありました。話はお掛けになってから聞くとしましょう」

 グレフは腰を下ろしたまま、穏やかな物言いで客ふたりにも椅子を勧めた。手下が茶と菓子を銀製の盆に載せて運び、覆いの掛けられた円卓の上へ静かに置く。イドワルは少しだけ茶に手をつけ、軽い挨拶話を済ませたあと口を開いた。

「頼みは他でもありません。ここにいる私の養女を、お守りいただきたく伺いました」

「こちらお嬢さまが貴方の養女とは。初めて耳にしました。前からいらっしゃったのですか。それとも近ごろ引きとられたのですか」

「半年ほど前に病で亡くなった、知り合いの忘れ形見でして。あいにく身寄りがどこにもなく、私の家に迎えました」

「そのお知り合いとはどのような仲ですか。遠くのご親戚か何かとか」

「いいえ。血の繋がりはありませんが、長い付きあいがありました」

「いわゆる良き友であったわけですな。しかし用心棒とは、誰かから襲われたのですか」

「お恥ずかしいことに、ついこのあいだ何人かの兵につけ回されました。そのときは腕の立つ者が退けましたが、いつも傍にはいられないものですから、お願いに上がった次第です」

 他の若い娘が不埒な兵から襲われないように、仲間が何件か用心棒を引きうけたのは知っている。法を犯せば罪に問われるはずが、相手が窮民では見ぬふりをされるのだ。だがいくら臣民から賤しまれる身の上とはいえ、名のある家に迎えられても敬われぬのは憐れでもあった。街を歩くのにも金がかかり、底を尽けばじきに慰みものにされてしまう。ならばわざわざ外へ出さなくとも、家に匿っておけば済む話なのではないか。カーリが娘を見やるのに合わせ、グレフが卓の上に肘を突いた。

「しかし貴方の養女ともなれば、わざわざ家を出なくとも用は足りそうなもの。家の中でじっとしているのが我慢できなければ、先ほどお話に出た腕利きの方がいるときに外を歩けばよいではありませんか」

「ただの娘でしたら私も家に置いているところです。しかし血は繋がらないとはいえ、これ(・・)は今や氏長である私の家の者でもあります。ただ家事手伝いをさせ、嫁に出すだけでは許されません。氏長の娘を名乗るに恥じないよう、病に苦しむ方を助けさせようとしているのです。そのために医者の手伝い程度ではありますが、簡単な医術も学ばせました」

「どのように病の方を助けるのですか。もしかすると街はずれにある長屋へ行くのですか」

「はい。そこに着くまでの間、兵に襲われないようにしていただきたいのです。もしお頼みいただけるのでしたら、一日につきこれだけをお支払いいたします」

 グレフは置かれた包みを覗き、脇からしきりに目配せを送ってくる。いつも務めを任されるときの合図であり、カーリも黙って首を縦に振った。

「分かりました。お引きうけいたします。貴方のご友人の忘れ形見ならばお断りできません。始めるのはいつ頃から、日にちは月にどれくらいですか」

「出来るだけ早く、しばらくはほぼ毎日お願いしたい。長引くと思われますので、後は暦に記してお渡しします」

「一日にどれくらいのあいだ、お守りすればよろしいですか」

「行き帰りとお待ちいただくあいだ全てを入れて、およそ四半日ほどかかります」

「行かれるのはどこの長屋になりますか。また道筋はお決まりですか」

「今のところ西の長屋です。道筋は決めておりませんが、出来るだけ多く私たちの仲間に触れさせたく考えております」

「でしたら三日後から一日ずつ、ここにいるカーリと、もう一人のシナンを入れちがいに傍につけましょう。どちらも腕は確かですから、落ち着いて外を歩かれて結構」

「ありがたいお話です。ではご紹介しましょう。早くご挨拶をしなさい」

「ファラハと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 それまでは黙っていた娘が、折り目ただしく頭を下げた。腰を上げる仕草といい控えめな喋り方といい、躾が隅々まで行きとどいている。グレフは頭から足下をじっと眺め、口元にだけ笑みを浮かべた。

「こちらこそ。響きのいいお名前です。これからは外で男が傍に寄り添いますが、危ないときを除いて出しゃばる真似はしません。どこにでも勝手について回る影法師と思ってくださればよろしい」

「重ねがさねお礼を申しあげます。貴方がたがお守りくだされば、ファラハも外を歩けるというもの。では長居をしては申し訳ありませんから、私たちはこれで失礼いたします」

 客ふたりは席を立ち、振りかえりもせず部屋から出ていく。若い娘を連れるだけに無理はないにしても、用が済むなり立ち去るとはやけに忙しい。むろんグレフも姿が消えてから顔つきを変え、再び眉を顰め煙管を手に取った。

「イドワルめ。用心棒など取るに足らないが、俺たちに隠しだてするのは気に入らんな」

「油商人を消させたのと、繋がりはあるのでしょうか」

「分からん。ただどうも病持ちのところへ行って、見舞いや手当をさせるだけとも思えん」

忌病いみやまいに罹った者が長屋にいるという話は、私も何度か聞いております。医者を呼ぶ金がないのであれば、氏長が手近な者に医術の真似事をさせるのもおかしくはありません」

「そこまでは嘘はなかろう。だが俺は手当てのほかに、身売りをさせているかも知れんと疑っている」

「養女にそこまでさせるでしょうか。身動きもとれない病持ちが相手です」

「俺たちはあの長屋へは滅多に近づかん。中にいるのが病持ちだけとは限るまい。近ごろは氏長の家でも、碌に食べていけぬところがあると聞くぞ。身売りの相手が並の小金持ちなら割に合うまいが、大貴族や富豪であれば話は別だ。人目につかぬのをいいことに、金を稼いでいたらどうする。立て続けに俺たちへものを頼むのは向こうの勝手として、その金はどこから出てくるのか。蓄えを切りくずしていればよいが、妙な力を持たれると厄介だ」

 穴蜘蛛は副王と町衆の間を立ちまわり、うまい汁を啜っている。万が一に王侯や商人たちが都から姿を消せば、穴蜘蛛もお払い箱として町衆に追いだされてしまう。今と変わらずに飯を食うためには、窮民を生かさず殺さず飼っておかねばならない。

「いいか。あとでシナンにも命じておく。まずは長屋で奴らが何をしているか掴め。何か妙な動きがあればすぐ俺に報せろ。事と次第によっては副王と掛けあうかも知れん」

「では私もこれで失礼いたします。ぬかりがないよう、これから道筋でも確かめに外へ出てまいります」

 カーリはグレフに一礼をし、固い樫の扉を潜った。必ずしも血が流れるわけではないにせよ、任されたのはただの用心棒ではない。慌ただしく出入りする仲間とすれ違いながら、探りを入れる手筈を練った。


 三日後の昼、カーリは待ち合わせの屋敷まえに着いた。周りは入りくんだ細い道に囲まれ、潰れかけた小さな家ばかりが並ぶ。ファラハはすでに軒先で立っており、門の近くに差しかかったところで通りまで出てきた。

「お越しをお待ちしておりました。今日こんにちから重ねてお願いいたします」

 根城で遭ったときと物腰は変わらないものの、いちど挨拶を済ませたきり口ごもってしまう。長いあいだ家の中で匿われていたせいか、辺りを見わたすだけでなかなか前に進もうとしない。

「ええと、私が前を歩いてもよろしいのでしょうか。貴方の後ろについていた方が、よいのではありませんか」

「このあいだ言っておいたように、俺はただの影法師だ。前にいては目立って仕方がないだろう。だいたい、俺が前を歩いては用心棒にならない。行き先は確かめておいたから、変に遠まわりをしそうなときだけ後ろから道案内をしてやる。あとは適当なところから睨みを利かせるだけだ。お前は気が向くように前を歩いていればいい」

 促されるまま足を踏みだし、ゆっくりと石畳の上を歩いていく。はじめ辿々しかった足取りは、それほど経たぬうちに速さを増していった。カーリは人の混み具合に従い、適当に間を取りつつファラハの後ろにつける。

 しばらくして慣れてくると、固かった身振りも軽さを帯びてくるのが分かる。顔を合わせたときには、穴蜘蛛が何たるかを知っている様子であった。不織布フェルト胴衣ベストを前にすればどの男も黙って従い、年寄りや女子供などには震えあがる者もいるほど。何かにつけ近づいてくる取り巻きの女も、無頼に惚れるとはいえ多かれ少なかれ恐れは抱く。そもそもならず者の身にして雇われたのも、兵はもちろん不逞の輩が下手には近づかぬためである。

 賊に背をとられているというのに、ファラハは一度も振りかえらずにいた。腰に差す短剣の鍔鳴りに耳をそばだてる気配もなく、狭い路地裏も平気で通りぬけ、先を急ぐどころか自ら脇道へ逸れていくではないか。

「こんにちは。お加減はいかがですか」

「随分と暖かくなってきましたね。風があってちょうどいいみたい」

 止めに入る間もなく、誰かれを選ばず声をかける。相手もそれなりに働く者、わずかな駄賃を稼ぐ者や道に居すわる乞食など様々ありながら、決まってにこやかに笑みを返すのだ。

「今日は身体はそこそこですね。商いはからっきしですけど」

「俺にはちとばかり暑すぎる。大工仕事でやけに汗が蒸れるんでね」

 どうやら氏長の養女の顔は、窮民たちの間ではかなり広いらしい。みな決まって腰は低く、中には姿が消えるまで見おくる者までいる。

 さらに裏通りを進むうちに、どこからか子供たちが走りよってきた。十人ほどが居ならび、そのうちの一人が裾を掴みしきりにせがんでくる。物乞いほどではないせよ手足は垢にまみれ、黒くくすんだ襤褸を纏うのがほとんど。垂れる洟を嫌がるでもなく、ファラハはわざわざ足まで止める。

「お姉ちゃん。また遊んでよ。友達も集まってきてるし」

「いいわ。ほんの少しだけれど、ここで一緒に遊びましょう」

 それぞれの小さな頭を順に撫で、輪に混じり鞠つきに興じる。泥だらけの球を拾うたび掌が汚れるが、気にする素振りはおくびも出さずに投げかえす。歳は離れているうえ、互いの名は知らないにも関わらず、実に楽しそうに子供たちと戯れている。ファラハはきりのよいところで、思いだしたように立ちあがった。

「ごめんね。私はもう行くね」

 そのやりとりを眺めていたカーリは、固く敷きつめられた石畳を苛だたしげに蹴る。たとえ歳や背は小さくとも、悪巧みがないとどうして言えよう。ただの掏摸すりで済めばまだしも、何者かに使われていたら大事に至る恐れもある。

 ところが諫めようとしたとき、今度は追いこそうとした年寄りが目の前で脇によろめいた。背には山のように荷を負っており、転びそうになるのをファラハが駆けより、咄嗟に細い腕を差しだす。カーリは見過ごすつもりでいたが、共倒れを見かね急いで両手を貸した。

「爺さん、気をつけろ。危なかったぞ」

「お二人さんともありがとうよ。だがここで下ろしてくださればもう大丈夫」

 年寄りはちょうど家に着いたところであり、荷をすぐ近くの庇まで引きずる。扉が閉められるのを確かめ、ファラハは緩く息を吐いた。

「あのお爺さん危なそうだったもの。お手伝いできて良かったわ」

 カーリは碌な答えも返さず、少しは急ぐように靴音でけしかける。いくら久方ぶりに街へ出たからといって、世慣れがないのにも程がある。いちいち子供を相手にするのみならず、素性の怪しい者にまで声をかけて回り、つい今しがたなど年寄りの荷を支えようとした。

 しかし怒る気は湧いてこず、咄嗟に助けまで入れたのはなぜか。カーリが隣に並ぶと、装いは先日とさして変わらないのにその容貌すがたが自ずと目に止まる。面立ちはさして派手ではないものの、離れていても瞳が澄んでいるのが分かる。物言いや振る舞いひとつにも落ち着きが備わっており、年寄りや子供に向ける眼差しは柔らかい。町衆もどこか嬉しそうであり、たとえ一時ひとときだけでも惨めさが拭われているようでもある。そのまま歩いているうちに、ファラハの方から口を開いてきた。

「あの、先ほどはありがとうございました」

「あれを女が運ぶのは厳しい。身の程を知らないと痛い目を見る。だいたい行き先があるのに、道草を食って困らないのか」

「皆が困っていたら助けるようにと、お義父さまから申しつけられております。実の父からも同じように教えられましたし、私もそれが正しいと思っております」

「都に住んで日が浅いか。ここは女が勝手に歩いて無事で済むところじゃない。田舎町ならまだしも、ぼんやりしてると襲われる。この間も兵に追われたから、俺が頼まれて傍についてるのを忘れたか」

「私が前にいたところもそれなりの街でした。先日までは家から出されませんでしたが、お義父さまから娘として恥ずかしくないように、街の人と会うよう申しつけられました」

「どちらにしろ、誰もお人好しと思われては困る。たとえば俺もいわゆるならず者なんだ。気が変わった親方の命を受けて、お前に刃を向けるかも知れない」

「それは例え話でしょう。貴方は私が危ないと見て、手を貸してくださいました」

「お前の身に何かあれば、罰を受けるのは俺だ。金を貰って頼みを反故にはできない。それが腕を伸ばすだけで防げる怪我や、少し気を利かせるだけで守れるなら尚更だ」

 気を配るようにと諭すつもりが、逆に押しかえされてしまう。長老の養女に迎えられるだけあり、箱入りに育てられたばかりでなく頭も舌もよく回る。ややあって持ちなおそうと呼びとめる間に、またもファラハに先を打たれてしまう。

「少しお話をしていいでしょうか」

「親方からもあったとおり、俺は付かず離れずの影法師なんだ」

「お喋りは止められているのですか。それともお嫌ですか」

 娘や婦人からの誘いを断るのは、仲間から粋でないと馬鹿にされる。これまでも言い寄ってくる女は、気に入るか否かを問わず形だけは口説いてきた。礼を失したとからかわれたように思われ、カーリは柄にもなくむきになって足を早める。

「嫌だとは言ってない。話があるなら喜んで乗ろう」

「ならよかった。貴方は乱暴などしないと、私は前から存じておりました」

「なぜだ。お前と会ったのは、三日前が初めてだったはず」

「このあいだ見世物に混じって、お金を撒いていたでしょう」

「あの人だかりに混じってたのか。よく出ていく気になったな」

「いいえ。家の中でも騒ぎは聞こえてきましたから。お話は後で伺いました」

「だからといって、俺が大人しいのとは別だ。巻きあげ方も随分と乱暴だったろ」

「でも貴方はお金が入った袋を、わざと遠くへ投げたのではありませんか。遠くからしか見世物を見られなかった、貧しい人に行きわたるように」

「穴蜘蛛は貧民の味方だと名が売れるからな。だがほとんどの金貨は財布の中だ。くれてやったのは見た目ほどじゃない。ほとんどが小銭ばかり、額を数えればなけなしのはした金さ」

「それでも貴方は取り分を減らしてしまいました。何か困りませんでしたか」

 はじめは前だけを向いていたはずが、いつの間にか顔を突きあわせていた。気の悪くなるような煽りはいくらでもあしらえるのに、このときはいつものようにはうまく誤魔化せない。グレフの病を覚られてはいまいが、図星を突かれては舌先が嫌でも鈍る。

「金は少しでも手元に残ればいいが、手放してもそれほど惜しくはない」

「では持っていれば良かったものを、わざわざ手放したのはなぜです」

「俺たちが守る掟のひとつに『弱き者に手を出してはならぬ』とある。元はお大尽の蓄えてた金を、これ見よがしに分けてやっただけだ。ただしあくまで謳い文句さ。でなければ用心棒だって、びた一文も貰わずに引きうけてる」

「私が受けた教えと変わりません。私も力の弱い方、迷える方に尽くすようにと育てられました。たとえ謳い文句でも貴方はそれを守られた」

 カーリは固く唇を結び、道に敷きつめられている石畳へ目を向けた。同じ人助けの形を取っても、互いの腹の底は大きく違う。穴蜘蛛は時と場を選んで貴族と貧者のどちらにもつき、利を追うために弱きを助ければ逆に虐げもする。通りすがりに愛想を振るぐらいは無頼の輩でもできようが、誰にも分けへだてなく慈しむなどは絵空事であろう。そもそもあの年寄りが貴族などであれば、ああまで情けをかけたかは疑わしい。

 それを裏づけるかのように、ちょうどファラハが歩みを緩め遠くを眺める。その先には火神かしんを祀る紅玉石ルビーの神殿があり、二階建て分ほどの高さの台座に堂々と据えられていた。幅は約十八ヤード、長さ三十四ヤード、棟高は十一ヤードを誇り、階段、柱、屋根まで赤御影で造られている。至るところに細かな彫刻が施され、床に鏤められた柘榴石ガーネットの原石とともに陽に照らされるだけで朱く輝く。長らく向かいに建てられた塔から見張られるうえ、四方を兵に囲まれるために貧民たちは近づけないものの、かつて都を治めた王は夜の帳が下りたあと、燃えさかる幾つもの篝火に囲まれながらあの中で冠を戴いたのだ。

 やはり取りもどしたいと思うのか、他の者に奪われたのが悲しいのか、晴れやかであったファラハの顔に暗い影が落ちる。さすがに流れる血は争えないと見え、カーリは雇われの身であるはずなのに気まずく、黙りこくるファラハの機嫌を取るように呟く。

「朝が麺麭パンひとつだけのせいか、少し腹が減った。どうせなら一緒に食べないか」

 道端には幾つかの屋台が止まっており、そのうちの一つに指をさした。木で張られた屋根からは小さな煙突が伸び、白い煙が細々と上がっている。

「開いているようですけれど、持ち合わせがほとんどありません」

「いくらお前が氏長の娘でも、金を払わせては俺が恥をかく」

 答えも聞かず店へ近づき、懐から財布を取りだした。奥では炭火に炙られた羊肉が吊され、店の者もえびす顔で揉み手をはじめる。

「親父、串焼きを二つくれ。あまり大きいのでなくていい」

「あいよ。ただし金は他と同じだぜ」

 さっそく刃渡りの長い包丁を抜き、肉を薄く細く削いでいく。表は香ばしい焼け目が十分についており、蛇腹のように串に刺して塩を振るだけで出来あがった。カーリは金を払うのと引きかえに二本とも右手で掴み、店の外で待つファラハのところへ持っていく。

「こうして外で食べるのは、おそらく初めてなんだろう」

「ええ。でもどう食べればいいのですか。これは串でひとつに纏まっているのでしょう」

 渡してもファラハは串を手に取ったまま、口に運ぼうともしない。教えられた作法を破りかね、どうすればよいか戸惑っている。

「串の先からかぶりついて、後は横から前歯でこそぎ取ればいい」

 言われるとおりにはじめは小さく、段々と大きく囓っていく。その間に一言も漏らさず、ほどなく食べ終えてしまう。

「おいしい。簡単に見えるけれど、家ではなかなか食べられないわ」

「あの親父も真似されたら困る。暇があれば屋敷で作ってみたらどうだ」

「実の父のもとでは私がくりやに立っていましたが、今のところに来てからは許してもらえません。出されるのも小さく切られたものばかりですし、間を置くので冷えたものがほとんどです」

 カーリは脇から顔を覗き、屋敷での扱いを頭に浮かべる。おそらく実の父から幼い頃より、様々に厳しく躾けられたに違いない。イドワルに引き取られてから氏長の娘として教えを受け、万が一のないようにと食べるものも決められるのだ。そのため血筋に相応しい礼儀は備わる代わり、年相応の娘らしい華やかさや楽しみを奪われている。このとき浮かんだあどけない笑みも、久しく潜められていたのではないか。

 やがて言葉少なに歩くうち、二人は荒れはてた長屋に着いた。表道からはほど近いのに、人の姿はまったく近くにないと言ってよい。たまに脇を通りぬける者はあっても、誰も長くは留まるまいと足早に去っていく。ファラハは錆びた鉄拵えの扉を前に足を止め、顔を下に俯けながらカーリに向きなおる。

「いつも家からここへ通います。日暮れまでかかりますから、外で暇を潰されるか別のお務めをなさってください」

「俺が一緒に入ってはまずいのか」

「どうしてもと仰るなら結構ですが、出来ることならお止めください。先日もお話にありましたように、ここにはたくさんの方が病に伏せられています。病と一口に申しましても、色々な方がいらっしゃいますから」

 呼びとめる間もなく、ファラハは扉の奥へと消えてしまった。つい今し方までは口を利くのも親しげであったのに、まるで人が変わったようによそよそしい。ただの頼みとあらば義理堅く従うところではあるが、親方から任された務めとそのとき耳にした噂が蘇る。

 もし中にいるのが病持ちだけではなく、ファラハが身を売っているとしたら放ってはおけない。すぐに止めさせる、いや直ちに仲間へ報せなければならぬ。カーリは足下に落ちた屋根瓦で足場を組み、息を潜めては長屋の窓を静かに開けた。

 するとそこにはわずかな陽と燭台に照らされた、数えきれぬほどの手負いと病者びょうじゃが転がっている。しかも多くが手足の欠けた不具か、重い皮膚の病で肌に黄色い膿を滲ませていた。なるほど町衆が近づかないのも仕方がなく、窓から漏れる臭いにカーリは眉を顰めたうえ顔も脇に背ける。

 だが彼らはみな死んでいるのでなく、苦しみながらも息だけはあった。おそらく兵から拷問を受けたか、貧しいためにうち捨てられた者が集められている。はじめは氏長の娘から見舞いを受け、ありがたがるだけかのように思われた。

 ところがしばらくして医者らしき幾人かが包帯を外し、薬を塗るなど手当てをはじめる。病者や手負いの方も傷の残る肘や膝を曲げ、或いは未だに続く煩いなどを次々と口にした。長屋に横たわる者たちは皆が死を待つばかりでなく、少なからぬ数が医術を施され治りかけている。

 ファラハもわずかも狼狽えず、変わり果てた者に触れしきりに労った。病者たちもそのときに、とりわけ祈るように次々と身を起こす。

「ファラハさまがお出でになった」

「また、私たちの傷を癒してくださるのですか」

 カーリは窓から離れたが、その姿が強く焼きついて瞼から離れない。ファラハは互いに争う貧民とは違い、病が染るのを恐れるどころか進んで中へ入っていった。もっともそれをさせるのは果たして表向きだけか、養父から厳しい教えを授けられたためか、慈しむのも身内のみか。帰り路は再びファラハと街を歩いたが、そのあいだ長屋の出来事にひたすら思いを馳せていた。

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