第43話『日常の尊さ』

 5月9日、日曜日。

 今日は日中ずっとゾソールのバイトに勤しんだ。

 また、今日は母の日。だからなのか、普段の日曜日に比べて親子連れだったり、お持ち帰りでコーヒー豆やインスタントコーヒー、スイーツを買われたりするお客様が多かった。それもあって、店内の雰囲気がいつもと少し違った。

 俺もバイトから帰るときに、母さんが好きなブレンドのドリップコーヒーをプレゼントとして購入した。家に帰ってプレゼントすると、母さんは大喜び。父さんと一緒にコーヒーをさっそく楽しんでいた。

 また、氷織は俺がバイトなのは知っていたけど、ゾソールに来ることはなかった。母の日のプレゼントとして、陽子さんの好きなスイーツと夕食を作るために。午前中に材料を買い、午後はずっとキッチンでスイーツと夕食作りに励んだそうだ。ちなみに、スイーツはタルトとクッキー。夕食はハンバーグとのこと。

 氷織の作った夕食とスイーツは、陽子さんはもちろんのこと、亮さんと七海ちゃんも満足したそうだ。LIMEで送ってくれた写真を見たら凄く美味しそうで。だから、夕食後だったにも関わらずお腹が鳴ってしまった。

 午後はずっと夕食とスイーツ作りを頑張ったそうだ。だから、体調は大丈夫なのかとメッセージを送ったら、


『疲れがちょっとあります。でも、心地いい疲れです。今日は早めに寝ますね』


 と、氷織から返信をもらった。午後はずっとキッチンでスイーツと夕食作りをしていたら、そりゃ疲れも感じるか。


『スイーツ作りと夕食作りお疲れ様。疲れているなら早く寝た方がいいね。早いけどおやすみ』


 という返信を送った。

 すると、すぐに『既読』マークが付き、『おやすみなさい』というメッセージと、ふとんに入って眠る茶色と白のハチ割れ猫のスタンプが送られた。

 明日はいつもの高架下で元気な氷織と会って、一緒に学校生活を送れるといいな。




 5月10日、月曜日。

 氷織に恋心を抱いてから、月曜日が憂鬱ではなくなった。好きな人の姿を学校で見られるから。2年生になり、氷織と同じクラスになってからは特に。


『いつもの高架下で待っていますね』


 家を出発する直前に氷織からそんなメッセージが届いた。この文面を見てほっとする。氷織からメッセージが来ていると通知を見たときはヒヤッとしたよ。氷織と一緒に学校生活を送れることが確定したので、気持ちが高揚してくる。

 今日は朝からよく晴れている。雨が降る心配もないので、今日も自転車で登校することに。

 あの高架下で氷織と会えると思うと嬉しい気持ちになる。ペダルを漕ぐスピードが自然と上がってくる。顔に受ける風が爽やかで気持ちいい。

 待ち合わせ場所の高架下が見えてきた。腕時計を見ると、時刻は……8時過ぎか。こんなにも早いと、氷織はまだいないかもしれないな。そう思いながら、高架下へと向かっていく。


「明斗さーん」


 氷織のそんな声が聞こえたので、高架下の方を見てみる。すると、そこにはカーディガン姿の氷織が、こちらに向かって右手を大きく振っていた。そんな氷織の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。俺も走りながら、右手で小さく手を振った。

 高架下に到着し、俺は自転車から降りる。


「おはようございます、明斗さん」

「おはよう、氷織。俺もかなり早く来たのに、先にいるのはさすが氷織というか」

「ふふっ。先週の木曜以来ですからね。それに、会いたい人を待つのは好きなので」


 そう言うと、氷織の笑顔が明るいものに変わる。今の言葉もあって、とても可愛く思える。


「そうか。俺もここで氷織に会いたかったよ。元気な氷織に会えて幸せだ」

「ふふっ。小説や漫画でもありますが、いつもとは違う時間を過ごしたからこそ、いつも通りに過ごせることが尊いと思えるんですね」

「氷織の言う通りだな」


 登校するとき、この場所で氷織と待ち合わせするのが当たり前になってきていた。ただ、氷織が風邪を引いたことで、こうして氷織と会えるのがとても幸せなことであると再認識できた。


「行きましょうか、明斗さん」

「うん。今日も体操着入れ、自転車のカゴに入れるよ」

「ありがとうございます」


 氷織から受け取った体操着入れを自転車のカゴに入れ、俺達は笠ヶ谷高校に向かって歩き始める。


「昨日はお母さんに喜んでもらえて良かったです」

「陽子さんの好きなスイーツと夕食を作ったんだよね。偉いなぁ、氷織は。俺なんてゾソールで買ったドリップコーヒーだよ」

「明斗さんも偉いと思いますけどね。美佳さんは喜んでいたのでしょう?」

「ああ。父親と一緒に美味しそうに飲んでいたよ」

「それなら良かったと思いますよ。大切なのは母親への感謝の気持ちだと思います。プレゼントを喜んでもらえたらよりいいかと」

「……そうかもね」


 父さんと一緒にドリップコーヒーを飲んでいるとき、母親はとても幸せそうだった。それを思い出すと、これで良かったんだと思える。

 笠ヶ谷駅近くの交差点を渡り、高校近くの道を歩く。今日も周りにはうちの高校の生徒がたくさん歩いていて、そのうちの多くがこちらを見て歩いている。


「おっ、今日は絶対零嬢と一緒に歩いているぞ」

「金曜日は1人だったから、てっきり別れたかと思ったんだけど」

「お試し関係が解消したってな」


「あの男子のおかげか、絶対零嬢の表情が前よりも柔らかくなったよね」

「彼女も人の子だったんだよ」


 などといった話し声が聞こえてくる。みんな好き勝手なことを言っているな。それにも慣れてきたので、今のような言葉を聞いても何も思わなくなってきた。


「……もしかして、金曜日に登校したときは、私と別れたって噂されましたか?」


 氷織からそう問いかけられた瞬間、ドキッとした。まあ、今の話を耳にしたら、金曜日に俺と別れたと噂されたかもしれないと考えるのは自然なことか。


「……ああ。俺を嘲笑う生徒が何人もいたよ。でも、お見舞いに何を持っていくか……って呟いたら、その笑い声も止んでいった」


 話そうか迷ったけど、包み隠さず正直に言った。


「そうですか。それなら良かったです」


 笑みを浮かべながらそう言うけど、氷織の笑顔は切なそうに見えた。もしかしたら、罪悪感を抱いているのかもしれない。


「誰にだって体調を崩すことはある。だから、氷織は気にしなくていいんだよ。それに、今はこうして一緒に歩けているんだからさ」


 氷織のことを見ながら、そんな言葉をかける。

 氷織の笑みが落ち着いたものになる。俺の目を見つめ、しっかりと頷いた。この様子なら、罪悪感に苛まれてしまうことはないだろう。

 学校に到着し、俺は一人で駐輪場へと向かう。

 自転車を停めたとき、遠くの方から「ひおりーん!」という葉月さんの声が聞こえた。声がした方に顔を向けると、駐輪場の入り口近くで葉月さんが氷織のことを抱きしめているのが見える。

 自分のスクールバッグと、氷織の体操着入れを持って2人のところへと向かう。


「お待たせ。あと、葉月さんおはよう」

「おはようッス。メッセージでひおりんが元気になったのは知っていたッス。でも、ひおりんの姿を実際に見ると、感激して抱きしめてしまったッス」

「その気持ち分かるかもしれない。実際に元気な姿を見ると嬉しくなるよな」

「さすがは紙透君ッス」

「ふふっ。さあ、教室へ行きましょう。沙綾さんも一緒に2組の教室へ来てくれますか?」

「分かったッス」


 俺達は3人で教室B棟の中に入り、2年2組への教室へと向かう。

 黒板近くの扉から2組の中に入る。氷織が登校したからか、「おおっ」と声を上げる生徒や「おはよう!」と声を掛ける生徒が何人もいた。ただ、


「氷織! おはよう!」


 と、和男の席の近くから挨拶する火村さんの声の大きさには誰にも敵わなかった。火村さん、とっても嬉しそうだ。火村さんは和男と清水さんと一緒にこちらに手を振ってくる。ちなみに、火村さんが氷織を大好きなのは、今やクラスメイトの大半に知られていることだ。

 氷織はバッグを自分の机に置くと、バッグからラッピングされた水色の袋を取り出す。


「氷織、その袋って何なんだ?」

「……後でのお楽しみです」


 微笑みながら言う氷織。お楽しみなら、深くは訊かないでおくか。

 氷織と葉月さんと一緒に、火村さん達のところへ行く。その際、自分の机にスクールバッグを置いた。


「みなさん、おはようございます。週末までに元気になりました」

「教室で元気な氷織と会えて嬉しいわ!」


 興奮した様子でそう言うと、火村さんは氷織のことをぎゅっと抱きしめる。「ひおりぃ……」と甘い声を漏らしながら、胸のあたりに顔をスリスリさせているし。きっと柔らかくて気持ちいいんだろうね。まったく、うらやまけしからん。

 ちなみに、氷織は幸せそうな火村さんの頭を撫でている。


「元気になって良かったよ、氷織ちゃん!」

「そうだな! それに、青山がいればアキも元気になるからな!」


 和男のその言葉に、清水さんと火村さんは頷く。氷織が欠席した金曜日は、そんなに元気がなさそうに見えたのかな。寂しいなぁって思うことは何度もあったけど。


「教室に氷織がいると嬉しいよ」

「明斗さんがそう言ってくれて私も嬉しいです」

「……ところで、氷織。その水色の袋は何なのかしら?」


 火村さんはそう問いかけ、ラッピングされた水色の袋に指さす。


「みなさんがいるのでお話ししますね。昨日、家で母の日のプレゼントにクッキーを作ったんです。ただ、たくさん作ったので、みなさんと一緒に食べようと思って持ってきたんです。1枚ずつですが。明斗さんと恭子さんと沙綾さんはお見舞い、美羽さんと倉木さんは私の体調を心配してくれたお礼に」

「嬉しいわっ!」


 火村さんは大喜び。葉月さん達も火村さんほどじゃないけど喜んでいる。

 水色の袋に入っていたのは手作りのクッキーだったのか。俺達へのお礼のためだから、さっきは「後でのお楽しみ」と言ったんだな。

 氷織は袋を開けて、俺達にクッキーを1枚ずつ渡していく。プレーンの丸いクッキーだ。甘い匂いがほんのりと香ってきて美味しそう。

 5人全員に渡すと、氷織もクッキーを1枚持つ。


「どうぞ召し上がってください」

「ええ! いただきます!」

『いただきまーす』


 火村さんの号令で氷織以外の5人は、氷織の手作りクッキーを食べる。

 甘さが程良く、香ばしさも感じられて美味しい。氷織のご家族が満足そうに食べたのも納得だ。

 教室にいる生徒の多くがこちらを見ている。中には「いいなぁ」とか「羨ましい」と呟く生徒も。


「美味しいわ! これだけで今週の授業を乗り切れそう!」

「大げさッスね、ヒム子は。でも、とても美味しいクッキーッス」

「美味しいよね、沙綾ちゃん」

「美味えな! 朝練の疲れが吹っ飛んだぜ!」


 火村さん達も氷織のクッキーを美味しそうに食べている。火村さんは幸せそうにもしていて。


「とても美味しいよ。ありがとう、氷織」

「いえいえ。みなさんに喜んでもらえて嬉しいです。私もいただきます」


 そう言って、氷織もクッキーを食べる。美味しいからか、笑顔でモグモグと食べていて。それがとても可愛らしくて、愛おしく思えた。



 そして、今週も学校生活が始まる。

 教室で授業を受けているときは、今まで通りたまに氷織の姿を見る。何度か氷織もこちらをチラッと見て、微笑んでくれることがあって。教室に氷織がいるのっていいなぁ。俺の日常はとても幸せなものだと改めて思うのであった。

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