第29話『聖地巡礼』

 5月4日、火曜日。

 連休4日目の今日は朝9時から夕方5時までバイトだ。昨日は氷織との萩窪デートをたっぷりと楽しんだし、明日は氷織達と遊園地で遊ぶ予定もある。それらを楽しみに頑張ろう。火村さんと葉月さんもバイトがあるそうだし。

 ちなみに、今日は筑紫先輩がシフトに入っていない。今日から1泊2日で大学のご友人と一緒に、大好きなアニメの聖地巡礼旅行に行くのだそうだ。お土産も買ってきてくれるらしい。以前は先輩がいないと不安だったけど、今はもう大丈夫だ。

 バイトを始めたときはお客様の数はまばら。ただ、祝日なので、時間が進む度にどんどん増えていく。そのことで、休む暇もなく接客することに。それは大変だけど、あっという間に時間が過ぎていいなと思える。

 午前11時頃。

 シフトに入った先輩店員がカウンターにやってきた。なので、俺は休憩室に行き、本日最初の休憩を取る。アイスコーヒーを淹れ、椅子に座ってスマホの電源を入れた。


「おっ」


 電源を入れると、LIMEで氷織と七海ちゃんからメッセージや写真が届いていると通知が。

 まずは氷織から見てみよう。トーク画面を見ると、9時10分頃にメッセージが届いていた。


『おはようございます。これからバイトでしょうか。それとも、既にバイトを始めているのでしょうか。長い時間ですが頑張ってくださいね』


『ちなみに、今は親戚の家に向かっているところです。法事なので、私も七海も制服を着ています』


 という2件のメッセージと一緒に、笠ヶ谷高校の制服姿の氷織と中学の制服姿の七海ちゃんの自撮り写真が届いていた。氷織は微笑み、七海ちゃんは明るい笑顔で2人ともピースサインしている。


「2人とも凄く可愛いなぁ……」


 自然と声に出てしまっていた。その声が聞こえたのか、休憩中の料理担当の女性店員にクスッと笑われてしまった。ちょっと恥ずかしい。

 氷織と七海ちゃん……この世で一番、美人で可愛い姉妹じゃないだろうか。この自撮り写真を見て今一度思う。あと、七海ちゃんも制服姿が可愛らしい。そんな2人が写った写真をスマホに保存した。

 七海ちゃんからは、


『お姉ちゃんから聞きました。バイト頑張ってくださいね!』


 というメッセージが。

 氷織と七海ちゃんのメッセージと写真を見ただけで、2時間近くのバイトの疲れが吹っ飛んだ。好きな人と妹さんのパワーってすげえ。


『返信遅れてごめんね。9時からバイトがあって、今、最初の休憩に入ったんだ。メッセージと写真ありがとう。おかげで疲れが取れた。むしろ始めるとき以上に元気出てる。バイト頑張るよ』


 という返信を氷織に送った。同様の返信を七海ちゃんにも送る。

 氷織とのトーク画面を見るけど……俺の返信に『既読』がつかないな。今は11時過ぎなので、もしかしたら法事の最中かもしれない。


「頑張ろう」


 コップに入っていたアイスコーヒーを全て飲み、俺は再びカウンターに向かった。

 それからも、時々休憩を挟みながらバイトをしていく。

 うちのお店では、店員に悪態をつくお客様はたまにいる。ただ、お客様同士のトラブルは滅多にない。

 ただ、今日は昼下がりにこんなことがあった。


「あっ!」

 ――ジャラジャラ!


 隣のカウンターで注文した高校生くらいの女性のお客様が、床に小銭を落としてしまったのだ。今の音からして、結構な枚数の小銭が落としたと思われる。女性は慌てた様子で小銭を拾い始める。


「お客様、大丈夫ですか?」


 隣のカウンターを担当する女性の先輩店員がそう問いかける。すると、女性のお客様は苦笑いを浮かべて「だ、大丈夫です。拾います」と答える。

 しかし、そんな女性を見て、後ろに並んでいたスーツ姿の30代くらいの男性が、


「何やってるんだよ……」


 不機嫌そうに呟くと「ちっ」と舌打ちした。

 きっと、それが聞こえたのだろう。女性は申し訳なさそうな様子になり、両目には涙が浮かび始めた。

 幸いにも、俺の担当しているカウンターは空いている。あのスーツ姿の男性をこちらに呼ぼう。


「そちらでお並びの……スーツ姿の男性のお客様。こちらのカウンターで承ります」

「……どうも」


 スーツ姿の男性がこちらのカウンターへやってくる。

 また、小銭を落とした女性がこちらを見てくる。


「大切なお金です。ゆっくりでいいので拾ってください」

「慌てなくていいですからね」


 俺と先輩店員がそう語りかけると、女性は口角を少し上げ、俺に向かって小さく頷いた。これでとりあえずは大丈夫かな。

 さあ、不機嫌なスーツ姿の男性の接客をするか。


「いらっしゃいませ」

「……今日は不運だなぁ。急に呼び出しを喰らって休日出勤。一段落付いてコーヒーを買いに来たら、目の前の客が小銭を落とす……」


 大きめの声でスーツ姿の男性は言う。女性が小銭をばらまいたのをいいことに、自分の抱く鬱憤を全てこの女性にぶつけたがっているんだな。まったく。見苦しい。


「休日出勤ですか。お疲れ様です。ついていない日……ありますよね。私も『今日はついていないなぁ』と思う日がありますので。そんな中、当店のコーヒーを飲もうと足を運んでくださったことを嬉しく思います」


 俺がそう言うと、スーツ姿の男性の顔から不機嫌そうな表情が消えていく。それを見て一安心。


「嬉しいことを言ってくれるね。こういうお店ではいつもSサイズかMサイズしか買わないけど、今日はLサイズのアイスコーヒーを頼むよ。持ち帰りで」

「ありがとうございます。シロップとミルクはお付けしますか?」

「シロップ2つくれるか? 仕事で疲れているから」

「シロップ2つですね。かしこまりました」


 男性から代金を受け取り、俺は注文を受けたLサイズのアイスコーヒーを用意する。


「アイスコーヒーのLサイズとガムシロップ2つになります。お仕事、頑張ってください」

「ありがとう。君も頑張りなよ」

「ありがとうございます」


 女性に舌打ちしたり、不機嫌そうしたりしていたけど、頑張れと言われると好感度がちょっと上がるな。

 アイスコーヒーを渡すと、スーツ姿の男性は上機嫌な様子でお店を後にした。これで一件落着かな。カウンターにお客さんもいなかったので、「ふーっ」と長めに息を吐いた。


「上手く収められたね、紙透君」

「筑紫先輩が以前していた対応を思い出しました。今みたいに、お客様がお店を後にしてから、『こうするといい』って話しかけてくれて」

「なるほどね。紙透君、頼もしくなったね」

「ありがとうございます」

「あ、あのっ」


 気づけば、俺の目の前に、さっき小銭を落とした女性のお客様が立っていた。女性はアイスティーの入ったカップを持っている。こうして間近で見てみると、明るい雰囲気の方だ。パッチリとした目つきが可愛らしい。ウェーブがかかったミディアムヘアの黒髪が似合っている。

 俺と目が合うと、女性はニッコリと笑う。


「さっきはありがとうございました。店員さんがあの男の人を案内したり、声を掛けてくれたりしたので気持ちを保てたといいますか。正直、気が滅入りそうでした。友達も待たせていたので」

「そうでしたか。お客様のためになって何よりです。ご友人と楽しい時間をお過ごしください」

「はいっ! 失礼します」


 俺に深く頭を下げると、女性は駆け足でお店を後にした。彼女を笑顔にできたから、さっきの俺の対応はきっと正解だったのだろう。

 それからも俺はカウンター中心に仕事をしていく。来店するお客様の数もそこまで多くないので、お昼過ぎまでに比べるとゆったりとした時間が流れる。特に問題やトラブルも起きないから本当にゆったりと。平和なのは素晴らしい。

 バイトが終わるまであと30分ほどになったとき、


「お疲れ、紙透」

「おっ!」


 火村さんが1人でやってきたのだ。膝丈のスカートに半袖のブラウス姿と涼しそうな格好。火村さんもバイトがあるから、来るとは思っていなかった。だから、甲高い声が出てしまった。そのことに火村さんはクスッと笑っている。


「あたしが来て驚いた?」

「ああ。今日はバイトあるって言っていたし」

「今日のシフトは朝から昼過ぎまでだったの。だから、バイトが終わった後に昨日の氷織と紙透の萩窪デートで行ったお店にいくつか行ってみたの。聖地巡礼ってやつかしらね?」


 ふふっ、と火村さんは楽しそうに笑っている。

 昨日の夜、火村さんに昨日のデートについて色々と訊かれたからなぁ。そのことで、氷織が行ったお店に自分も行ってみたくなったのだろう。ある意味で聖地巡礼なのかも。氷織への好意の深さが窺える。


「それに、氷織は法事でここに来られないから、紙透が寂しがっているかもしれないと思って。あたしが激励しに来てあげたの。あと、昨日のデートでここに来たって言っていたし」

「なるほどね。今日来た高校の友達は火村さんが初めてだ。嬉しいよ。元気出た」

「そう。なら良かったわ」


 ちょっとドヤ顔になる火村さん。感謝しておりますよ。


「それで、聖地巡礼してみてどうだった?」

「猫カフェに行ったわ。最高だった! 今まで犬派で猫も好きだったけど、今日からは猫派だわ」

「それを氷織が聞いたら喜ぶんじゃないかな」

「そうだと嬉しいわ。……ちなみに、あなたは?」

「俺? 俺も嬉しいよ。猫派だから」

「……そっか」


 火村さんは俺の目を見て、嬉しそうな笑顔を見せてくれる。こんな可愛い笑顔を俺に向けてくれたのはこれが初めてかもしれない。それだけ、話すようになった頃と比べて距離が縮まった証拠かな。


「あとはワンピースを買ったアパレルショップにも行ったわ」

「そうなのか。今日はシフトに入っていないけど、姉貴がバイトしているんだ」

「へえ、そうなの。今回もいい服が揃っていたわ。さすがはG and L。明日、氷織がどんなワンピースを着てくるのか楽しみだわっ!」

「感想を聞きたいって言われたから試着した氷織を見たけど、とても素敵だったよ」

「昨日もそう言っていたわね」


 火村さんはワンピースについてはこれ以上言及しなかった。火村さんの性格からして、氷織がどんなワンピースを買ったのか教えてほしいって言いそうなのに。明日をより楽しみにしたいのかも。

 火村さんはテイクアウトでタピオカ苺ラテのSサイズを注文。本当にタピオカドリンクが好きなんだなぁ。タピオカドリンク店スタッフの鏡だ。


「お待たせしました。タピオカ苺ラテのSサイズでございます」

「ありがとう。残りのバイトも頑張りなさいね」

「ありがとう。また明日」

「ええ。また明日」


 火村さんは微笑みながら俺に手を振り、お店を後にした。

 まさか、火村さんが1人でこのお店に来て、俺に笑顔や微笑みをたくさん見せてくれるなんて。夢かと思ったけど、これは現実なんだよな。……現実だな。舌を軽く噛んだらちゃんと痛かった。

 火村さんが来店してくれたおかげもあり、残りのバイトの時間があっという間に過ぎていった。

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