一 -2-

 開いた襖の隙間から徐々に廊下の様子が伺えるが、そこにいるはずの異形の姿が見えなかった。

 しかし、その異形がいなくなった訳ではない。襖が完全に開け放たれると、人の足が踏んだように入り口付近の畳が沈む。ただ見えないだけで、それは確かにこの部屋に入ってきた。見えない、ということが、そのものの特定を促す。

 このおれが視認できないこの世ならざるものは、即ちそういった特性を持つ異形だということだ。見えざるもの、とでも呼ぼうか。

 おれは静かに息を吐き出すと、瞼を閉じた。

 当然、そこには闇が広がる。だが、瞼の裏に映し出されるかのように、こちらへと近寄ってくる影が白くぼんやりと浮かび上がった。目を閉じているのに何かが見えている感覚というのは、何度経験しても慣れないものだ。

 そのシルエットは人そのものだ。体格的に男であろう。

 奴は先程廊下を歩いていた速度のまま、こちらへと向かってくる。一歩、二歩、三歩。布団を踏み越えた辺りで、ガシャンと音がする。おそらく布団の横に立っていた点滴を倒した音だろう。

 白い影は気にする様子もなく歩みを進め、その長い腕を伸ばしてきた。

 瞬間、俺は渾身の力を振り絞って横へと飛び退く。

「……っ」

 急激な動きに、傷んだ全身が悲鳴を上げているのを感じるが、そんなこと今はかまっていられない。目を開き、改めて襖の位置を確認すると這いながら部屋の外へ向かう。

 目指すべきは台所だ。声が出ず、術を使って何とか出来ない以上、少しでも抵抗するには祓いの効果がある塩を使う他ない。

 塩には海の力が宿っている。そして海は次元の境と似た力を持つ。塩は穢を清めると言われることがあるが、正しくは清めているだけではなく、あちらとこちらの区切りを引いているのだ。

 部屋を出たところで背後から音が聞こえ、おれはまた目を閉じると音の方を向く。白い影はのっそりと振り返って後を追ってきていた。

 動きが鈍いだけ助かるが、同じようにおれの動きも遅いのでお互いの距離は開かない。

 屋敷の様子を把握するために目を開けて前へ進んでは、目を閉じて奴の居場所を確認し、必要があれば力を振り絞って逃げるのを繰り返す。

 この世ならざるものに命を狙われることには慣れている。だが、目を閉じていれば周囲が、目を開けていると奴が見えないこの状況に、じりじりとした恐怖感が胸の奥に燻りだす。

 冷えた廊下に体を触れさせ続けていると、よりいっそう体力を奪われるようで、ようやく台所に辿り着いた頃には限界を感じてきた。

 流し台を支えに立ち上がり、塩の容器に指がかかったその瞬間。

 大きな手に足首を掴まれた。そのまま強い力で足を引かれ、体のバランスを崩す。同時に、指をかけていた塩が容器ごと落ちて床へと散らばった。

「……っ!」

 激しく上体を床に叩きつけられながら、そのまま台所から今来た廊下の方へと見えない何かに引きずられていく。

「みろ……みろ……おれを」

 聞こえてきた低く嗄れた声に、俺は意を決して瞼をきつく閉じた。

 途中手にあたったものにしがみつき、なんとか動きが止まる。これは、台所の入り口にある棚だろうか。足を引かれる力は強く、持っていかれるのも時間の問題だ。

 それでも最後まで抵抗しきるつもりで腕の力を強めた時、瞼の裏に浮かび上がる白い影は俺の上に跨るように覆いかぶさってきた。

 そして顔に、びちゃりと濡れたような不快な感覚が触れた。触れられているところがひどく熱い。

 見えざるものがおれの顔に手をかけ、頬を撫で上げる。と、そのまま固く閉じた瞼を無理やり開けさせようとする。

 頭を振って抵抗するが、顔を掴まれたまま床に後頭部を打ち付けられた。痛みよりも先に来たのは脳が揺れた衝撃。

 意識がふらつく中、その隙きを狙ったように瞼をこじ開けられる。

 薄く開かれた視界に、まるで地獄の業火に炙られたように、真っ赤に爛れた異形の顔が映る。醜い皮膚に埋め込まれたかのように、左右ずれたところに存在する双眸が感情なくおれを見ていた。

 ああ、これが、こいつの式か。

 己の姿を見たものを、喰らうという式。

 最早おれはその式に絡められたのだと理解した瞬間、体から力が抜けた。おれがいなくなっても、また次の神代が生まれるだけだ。この命も、なんと儚いものだったか。

 見えざるものの口が開いていく。顔の端まで裂けていくかのような大口がおれを飲み……込む、と覚悟を決めた瞬間。

 絶叫が響いた。

 おれの上に跨っていた見えざるものが身悶え、白い煙を上げてその姿が逃げるように消えていく。

 何が起こったか分からずに床に倒れたまま呆然とする。

「白っ、大丈夫か」

 聞き慣れた声がおれの名を呼び、力強い腕が、おれの体を抱き起こす。

「……」

 謙介の真摯な眼差しがおれを覗き込んでいた。包まれるように触れている腕から染み込んでくる馴染み深い熱が、体温を失った体にただ暖かくて、吐息が漏れる。

「そこに塩が落ちてたからもしかして効くのかと思って、あいつに撒いてみたんだ。効果あってよかった」

 気が緩んで、自然と笑みが浮かんだ。そんなおれの様子を見て、謙介は目を瞬き少し驚いたような表情をしている。おれとて笑顔はよく浮かべている気がするが、そのように驚くほど珍しいものだろうか。

 何か言ってやらねばと思うが声が出ないので、指で喉のあたりを示す。そしてそのまま手を伸ばして、労うように謙介の頭を撫でた。

 掌に触れる短い毛の感触が、懐かしい。

 謙介は、嫌そうな、そうでもないような。実に複雑な表情を浮かべたまま、しばらく大人しく、おれに撫でられていた。

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