第四章「潜むもの」-side白-

一 -1-

 重い瞼を開く。霞んだ視界に捉えたのは、見慣れた板張りの天井。

 数回瞬きをして顔を横に傾ければ、白く薄ぼんやりとした光が外側から障子を照らしていた。昼の太陽の光ではないことは確かだが、今は早朝だろうか、それとも夕暮れ。

 土壁に視線を移し、薄暗い室内の中、壁にかけてある振り子時計を見ると、二本の針が重なり合いちょうど十二時を指し示している。おかしい、この様子は昼の十二時でもなければ真夜中でもないはずだ。

 呼吸をする度、喉が熱を持ったようにひりつくのを感じる。

 薄紫、と呼ばおうとして、ひゅうと息が漏れるばかりで声が出ないことに気づく。そして、声を発しようと力を入れたためか、喉に激痛が走る。思わず眉を顰めて自分で喉元に手をやった。

 気を失うまでのことは憶えている。

 蛟を見つけた洞窟の中で術を使った。

 最後の方は朦朧としていたが術は完成したはずだ。蛟ほどに力の強いものをあれしきのことで消滅させることは出来ないし、あの山から水神がいなくなるのも困るので、とりあえずおれの作った次元の中に封印しておいた。

 あの井戸が清められ、蛟から穢が抜ければ元の奴に戻るだろうから、その時にまた封印を解けば良い。

 実は蛟とは長い付き合いだ。人のような言い方をすれば、同期と呼んでも良いだろう。あれがいるからこそこの土地は水に恵まれ、大きな水害も起こっていない。

 この世ならざるものが全ていなくなれば良いというものでもないのだ。

 なんとも頼りなくはあるが、おれが気を失った時用に剣を伴っていたので、その後のことはやってくれたはずだ。

 あれからどのくらい日数が経っているのかは分からないが、事実、おれがこの部屋で目が覚めているのだから役目は果たしたのだろう。

 謙介がどうなったかだけが気がかりだが、謙介の式は完成していなかったのだから何事もないはずだ。

 そもそも、式が完成していないにも関わらずに蛟があれを食おうとしていたのも、奴が暴走していたが故の掟破りの事態だ。

 この世の全ては式で成り立っている。

 この世ならざるものがこの世から何かを奪う時、もしくは入り込む時には、必ずそのものが持つ手順を踏まねばならない。それが式だ。

 近づくものは真名を把握し距離を詰めねば松前の長子を奪っていくことは出来ないし、覗くものはその対象の生活の全てを知らねば成り代わることは出来なかった。

 生命を力に変換するにも、そういった式に乗っ取らねば己が力にはならないものなのだ。蛟の場合は己の招きに乗った者の魂を抜き取った後に水に触れさせるのが式のはず。

 その式に乗っ取らねば、例えあそこで謙介を食べていたとしても謙介の生命力が蛟のものになることはない。にも関わらず、蛟はそれをしようとした。理を外れた行いだ。

 まったく、暴走した神ほど面倒なことはない。だが、だからこそ謙介の体に今は何の異変もないはずだ。

 ただあの時、謙介の体にかけた、真名を隠す術を外し、尚且近づくものを急速に近づけてしまったので、また何かしら対応をしてやらねばならないが。

 色々と考えているうちに頭が覚醒してきて、おれは軽く上体を起こすと枕元を見た。

 やはりそこには、いつもの香炉の横に真鍮のハンドベルが置かれている。おれの声が出ないことを想定して、薄紫なら呼び出し用のベルを置いているだろうと思った。

 おれは手を伸ばし、ハンドベルを手に取る。

 手を伸ばした時に左腕に点滴の針が刺さっていることにも気づく。おそらく栄養を入れているのだろう。

 シンプルな棒状の取手を持ち、横に揺らす。ベルの内側の金属の玉が揺れ、高く澄み渡った音が襖を抜けて廊下へと響いていく。

 だが、響いていった音が消え、しばらくたっても薄紫は姿を現さない。

 同時におれは、先程から感じていた違和感を改めて自覚する。

 辺りには、自分が立てる衣擦れの音以外の一切の物音がしていなかった。この屋敷が静まり返っているのは今にはじまった話ではないが、庭から木の葉が風に揺れる音すら聞こえてこないのは不自然だ。

 外からの光は何の揺らぎもなく障子全体を照らしていて、時計の針は一向に進む気配がない。まるで時が止まっているかのようだ。

 おれは血が出るのも構わずに腕から点滴の針を抜き、体を起こして布団から出ようとする。だが、萎えた足は言うことをきかず、立ち上がることもままならない。

 体を起こせば強烈な倦怠感が全身を襲い、気を抜けばそのまま畳の上につっ伏してしまいそうだ。

 それでも腕を、足を動かし、這いずるようにして障子のもとへと辿り着くと、その木枠に手をかけ、力を入れる。

 障子はびくともしなかった。

 おれの力が弱っているのはあるが、開くどころか、まるで障子の形を模して金属で作ったものを、ガッチリと打ち付けているかのように揺れもしない。最早この空間が尋常ならざる状態にある証だろう。

 障子に込めていた力を抜き、しばしその場でただただ横になる。ほんの少し動いただけで息が荒くなっていた。さらにその荒い呼吸をする度に喉が痛いのだから世話もない。

 無力感に苛まれていた時、不意に、遠く何かの足音が耳に届いた。板目を踏み、みし、みし、と軋む床の音は、たしかに一歩ずつこちらへと向かってくる。

 薄紫でないことはすぐに分かる。あれは歩くときに足音など立てない。他のものも多くこの屋敷を出入りしているが、彼らは呼ばねば屋敷に来ないし、許可なくおれの部屋に近寄ることなどない。

 だがそういったことを抜きにしても、おれにはその足音が、この世のものでないことが分かった。

 足音より先行するように、冷えた空気が漂ってくる。体感的には室温が二度ほどは下がっているだろう。床を這うように漂ってくるその空気にはどこか埃っぽい湿った匂いに、様々な物が焦げた匂いが混ざっているようだ。

 おれは体を起こすと、そのまま障子に寄りかかった。

 この声が出せない状況で、敵意を持ったこの世ならざるものと対峙出来るのか。自問しながらも、その正体を見定めるように部屋の襖へ視線を向ける。

 ゆっくりと近寄ってきていた足音が、ちょうど襖のあたりで立ち止まった。

 音もなく、襖が横に滑り開いていく。

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