第三章「手招くもの」-side大野-
一
元々空いていた電車から簡素なホームへと降りる。
クーラーの効いていた電車の外に出た途端、むっとするような熱気に包まれて、俺は無意識に眉を顰めていた。
この駅で降りるのは他の車両を合わせても十数人程度。俺と同じ制服姿の学生が大半で、普通の利用客がごく僅かに混ざる。降りる人数よりも乗り込む人数の方が多いだろう。
朝だろうとラッシュに巻き込まれないのは田舎の最大の利点だ。
ここは郊外の小さな町だ。ビジネス街がある訳でもなく、商業施設も少なく娯楽もない。主な産業を強いて上げるなら農業で、人で賑わう理由もない。
俺の通う神代高校は地元に根付いた学校で、俺のように町の外から電車を使って通学している生徒の方が少数派だ。
町の外へ出るには山を超えねばならないので、鉄道トンネルを超える電車より、バス利用者はもっと少ない。
町の外からといっても、俺も家の最寄りの駅からたった二駅だ。
近さと学力のバランスで選んだ高校だが、想像以上に近隣の中学からの持ち上がりの学生が多く、入学した当初は生徒たちの仲が出来上がっていたので入り込むのに苦労した。
元より交友関係を築くのは得意だったので、寂しい生活を送る程ではなかったが、それでも度々疎外感は感じていたが。
ただ、二年の夏休みを明日に控えた今ではそれもすっかり馴染んだ。
ホームから直接抜けられる地上改札を通り、定期入れを学生鞄の外ポケットに収めながら歩き出す。まだ七月だというのに、じりじりとアスファルトを照らす太陽の日差しが強くて鬱陶しい。
川沿いの通学路を歩く生徒の数もまばらだ。それも、皆自宅から徒歩や自転車で学校に通うので、駅利用者が少ないのが理由なんだろう。
歩いているとじわりと汗が吹き出してくるのが自分で分かって、学校指定の半袖シャツの胸元を摘んでぱたぱたと空気を送り込む。
日本の夏は嫌いだ。何をするにしてもこの粘つくような暑さにやる気を削がれるような気がする。
俺は小学四年から三年間、親の仕事の都合でアメリカに住んでいた。あそこも日差しは強かったが、日本とは湿度が違う。こんなにも辛い夏は日本特有なものだと思う。
駅前の交差点を通り過ぎ、細い道路の連なる辺りに差し掛かった時。視界の端に動くものを捉えて、俺はそちらへ視線を向けた。
歩道も設置されていない細い脇道。上り坂になっているその途中に、一人の女性が立っていた。
彼女はこの気候だというのに長袖の、足元まで隠れる黒いワンピースを着ている。さらにワンレンのこれまた長い黒髪を垂らしていて、その佇まいは三十歳くらいだろうか。
遠くて顔立ちは良く分からないが、美人な気配がする。
黒い長袖から伸びる白い手先が太陽の光を受けて、ゆらゆらと波打つ。
彼女が、明らかに俺の方を見て手招いていた。
思わず、足を止める。
勘違いではないかと辺りを見回すが、周囲には今俺以外に人影はなかった。
一体何の用だろう。もちろんあんな女性の知り合いはいないし、何か困っていることでもあるのだろうか。こめかみに垂れた汗を手の甲で拭い、しばらくの逡巡の後、俺は足先の向きを変える。
呼ばれているのに、放っておく訳にもいかない。そう思って一歩踏み出した。
その瞬間。
「大野ー、おはよー」
少し遠くからかけられた声に視線を向ける。普段まっつんと呼んでいる、友人の謙介がこちらへ向かって歩いてくるところだった。
はじめの頃は謙介と呼んでいたのだが、何故か本人が急に渾名呼びがいいとか言い出して、俺がまっつんと呼び始めた。すっかり定着して、最近ではノリの良い先生もそう呼び出している程だ。
謙介は俺と同じくらいの背丈だが、俺よりもさらに体格が良い。今では帰宅部だが、中学の頃は野球部に所属していたらしい。なんとなく頷ける雰囲気がある。
俺とは二年から主に交流が始まったのだが、育ちの良さを感じさせる性格の良い奴で、今ではすっかり一番仲の良い友だちだ。
「おう、おはよ」
「何、どこ行くんだ」
隣に来た謙介に問われ、俺は女性の方を指し示そうと、坂の方へ視線を戻す。
「いや、あそこに……あれ」
しかし、先程までそこにいた女性は姿を消していた。
「さっきまであそこに、俺のこと呼んでる女の人がいたんだ」
「女の人?」
「全身黒いワンピース着た……」
そう説明をしようとして、何故だか急に胸騒ぎがする。
どうして彼女は、この時期にあんな暑苦しそうな格好をしていたのだろう。一体何の用事だったのかも分からないし、目を離した一瞬でいなくなってしまったのも奇妙だ。
考え込んだ俺の様子を、謙介も不思議と真面目な表情で見ていた。もし立場が逆だったら、俺は「何だ逆ナンかー?」とか言って茶化していた気がする。
「どんな顔してたとか見たか?」
「いや、遠くて顔は分からなかった」
「そうか……ま、学校行こう、遅刻するぞ」
「そうだな」
謙介にぽんと肩を叩かれ、促されるまま、俺もまた学校への道を並んで歩き出す。
「しっかし暑いな……」
そう声をかけながら視線を向けると、謙介は手を添えながらも大きな欠伸をしているところだった。
「何だ、また寝不足なのかよ?」
「まあな」
「あの白とかいう奴に付き合わされてんだろ。いい加減やめたらどうなんだ」
「仕方ないんだよ」
何をしているのか良く分からないのだが、謙介は下級生の白という奴に度々呼び出されては何か手伝いをさせられているらしい。遊びに出ていても、急に呼び出されたとかで帰ることもある。
どういう仲なのかは知らないが、謙介は不思議と、その白のことを最優先に考えているようだ。
謙介と一緒にいるおかげで俺もよく白のことは見かけるが、敬語のわりに妙に態度がでかくて、人を食ったような言動が気に食わない。
だが、謙介が白に対して文句を言っているのは聞いたことがなかった。俺が白に対して怒ると、何故か謙介が庇うというのがいつもの流れだ。
白とどういう関係なのか、何を手伝わされているのか、別の友人である隼人と一緒になってしつこく聞いてみたこともあるが、結局教えてくれなかった。
妙に秘密主義なところがあるんだよな。それ以外では本当に良い奴なんだが。
「そういや、明日の門前祭一緒に行かないか?」
謙介に問われて、俺は意識を戻す。
「門前祭?」
「ああ、そうか大野は知らないのか。毎年八月に入った始めの土曜日に、この門前川を中心にしてけっこう大きめのお祭りがあるんだよ。屋台もたくさん出るし」
「それでか。この河川敷につけられたコード何かと思ってた」
数日前から川べりに何かの準備がされていることは気がついていた。しかし、駅にポスターが貼り出されていた訳でもないし、幟の類もなかったと思う。
町の人間でなければ知らないことなのだろう。
普通、町の祭りがあると言ったらもっと大々的に宣伝してやるような気がするのだが。
「うん、当日はそこに提灯がつくんだ」
「祭りに男二人で行くのか?」
「隼人も誘おう」
「結局男三人じゃねぇか」
二人で声をたてて笑う。冗談は言っているが、俺も謙介も、いつも男同士でつるんでいることに不満はない。正直その方が気軽で楽しい。
隼人の口癖は「背が欲しい、彼女が欲しい」だが、実際本当にその気があるのかは謎だ。身長に関しては本気だと思うが。
謙介も見れない容姿はしていないし、俺も客観的に見てそこそこ良い方だと思っている。女子に告白されたこともないではないが、今の所、恋愛を積極的にするつもりはない。
誰にも言ったことはないが、アメリカから帰ってきて、中学に上がり急に色づき出した女子が、半ば怖かったのだと思う。
中学の頃には押されるままに何度か付き合ったこともあるが、全くもって楽しくはなかった。女に興味がないと言えば嘘になるが、高校生のうちは別にこのままで良いのではないか、なんて。
そうこう話しているうちに学校に着き、教室へ向かう。戸をくぐって中に入ると、数人から声をかけられて挨拶を返す。
「あ、隼人」
席へと向かいながら、先程話しに上がった友人の、隼人の席に通りかかった。隼人の席は黒板に一番近い前の席だ。
「さっきまっつんから聞いたんだけどさ、明日の門前祭一緒に……隼人?」
そこまで声をかけて、俺ははじめて異変に気づいた。
いつも元気な隼人が、どこかぼうっとしている。
そもそも、もうすぐ朝礼が始まる時刻だといっても、先生が来る前に自分の席に着席していること自体異例だ。いつも教室に入ってきた先生に窘められて、やっと着席するような奴なのに。
「隼人、どうしたんだ?」
顔の前で手を往復させ、声をかけ続ける。と、ようやくぼうっとした表情のまま、俺を見返してきた。
「何」
「いや、なんか元気なくね? どうかしたか」
「別に」
心配になって問いかけるが、返事はそっけない。
「そっか……? あ、さっき、まっつんが明日、門前祭一緒に行くかって」
「行かない」
返事は早かった。早いというか、俺の言葉に重ねるように否定されたような感じだ。
俺は目を瞬きさらに声をかけようとしたが、隼人はすでに話は終わったとばかりに、顔を前へ向けてしまう。
瞬間的に、腹立たしさを覚えた。だが、ここで怒っても仕方がない。この様子では、本当になにかあったのかもしれないし。
後できちんと話を聞こうと思いながら、俺は肩をすくめて、自分の席へ向かうと腰を下ろした。
「隼人何だって?」
先に隣に座っていた謙介が問いかけてくる。
「行かねぇってよ。なんか様子おかしかった。心ここにあらずって感じで」
「へぇ……」
謙介も心配そうに、前の方へ座っている隼人へ視線を向ける。と、小さくバイブ音がして、謙介が自分のズボンのポケットからスマホを取り出した。
数回画面をスライドする操作をして、俺の顔を見る。どこか困惑しているような微妙な表情だ。
「明日の門前祭、後輩の女の子も一緒に行って良いか?」
「女の子二人でダブルデートになるなら良いよ」
「聞いてみる」
「何、後輩にアタックされてんの」
「いや全然そんなんじゃないんだけどな。一緒に行かないかって誘われて……あ、もうひとり友達誘うって」
それがアタックされてるっていうことなんじゃないかとは思ったが、担任が教室に入ってきたことで会話はそこで途切れた。
前へ向き、ふっと息を漏らす。
明日から夏休みか。嬉しいことのはずなのに、朝から隼人に妙な反応をされたせいで気持ちが晴れない。
結局、その日一日隼人の様子はおかしくて、まともな会話は出来なかった。一度声を荒げて怒りもしたが、一切意に介さないといった様子で俺たちの側を去っていった。
そうしている間に、俺は朝の通学路で見かけた奇妙な女性のことも、すっかり忘れ去っていった。
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