三 -2-
大野と共に登校した俺は、それからしばらく出会った友人達に自らの呼び方を変えてもらうことをお願いし続けた。自分の名前を呼ばないように注意しながら、さらに呼ばれないようにしながらのその作業は、なかなか骨が折れる。
さらに自らニックネームを提唱する痛い奴のようで大変不服だが、俺にとっては生命がかかっていることだ。仕方がない。
幸いなことに、大野が面白がってではあるが、一緒になって「まっつん」と呼ぶことを広めてくれたので、当初思っていた程の大変さはなかった。
ただ今まで松前と名字で呼ばれていた距離感の相手からも愛称呼びになったりして、そこそこ違和感はあったが。
新しいクラスになってからまだ日も浅いので、仲を深めるきっかけになったのなら良いかと無理やり自分を納得させた。
こうして、周囲に俺の呼び方を変えさせるミッションは無事成功を収め、昼休みがやってきた。
「まっつん、まっつんさー、なんか今日いつもより顔色良くね?」
適当に机を合わせながら弁当を広げている最中。
さっそく面白がって新しい渾名をあえて何度も呼びながら、小学校、中学校と持ち上がりで仲の続いている、友人の隼人が顔を覗き込んできた。
こいつは昔からそのまま、今でも俺のことを「謙」と呼んでいたのだから、別に呼び方を変えさせる必要もなかったのだが。
「そうか? というか、普段から顔色悪いなって思ってたのか?」
「え、うん」
あっさりと肯定されて、軽くショックを受ける。確かに高校入学を機にハードだった野球部もやめてしまったので、以前に比べて運動不足にもなっているとは思っていたが。わりと体力には自信がある方なのだ。
そんな俺の様子に気づいたからかどうかは分からないが、隼人はさらに言葉を続ける。
「去年の冬ぐらいからかな。なんか寝不足っぽい感じのこと多いだろ。目の下のクマもどんどん深くなってくし、これでもわりと心配してたんだぜ」
その口調に混ざる真剣な様子に、俺は少しばかり面食らった。
隼人は出会った頃から他の子供よりも一回り小柄な少年で、毎食せっせと牛乳を飲む努力も虚しく、今でも爆発的な成長期の兆しはない。
頭一つ分以上周囲から小さい隼人は、しかしそれを補うように活動量が多く、いつも動いているし喋っているので存在感がある。
恐らくクラスの中でも最も煩い生徒だと思うし、だいたい常にふざけている男なのだが。
広げた弁当をつつく箸を止めて、真っ直ぐにこちらへ向ける眼差しは、まるで逃さないとでも言うように俺を捉えていた。
「確かに、なんか今日はすっきりしてるな。いいことでもあったか?」
大野も横から隼人に同意する。
改めて友人二人から問いかけられて、俺はそこで初めて、昨晩久しぶりに深く眠ったことを自覚した。
自分では気づいていなかったが、もしかしたら常に視線を感じながら寝ていたことに、俺の体は無意識に負担を感じていたのかもしれない。
無論、いつも寝る時はカーテンを閉めている。それでも俺は、外から自分を見ているあの存在を感じていたのだ。
まるで白にあやされたような感じがして、認めるのは気恥ずかしいような気持ちがするが。俺の部屋に白が用意してくれた別次元はひどく居心地が良くて、安心できたことは紛れもない真実だ。
「あーたぶん……大きめの悩み事が、解決はしてないけど、ちょっと光明が見えたって感じかな」
大野の机と机を合わせるためにという理由をつけて、あえて窓に背を向けている俺は、後頭部にあれの視線を感じながらもそう笑う。
「悩み事? そんなこと今まで一回も言ってなかったじゃん。つれねぇな。何に悩んでた訳?」
卵焼きを口の中に放り込みながら、隼人が子供っぽく唇を尖らせる。
「それは……」
問われて、言い淀む。あの存在のことを説明する気はない。
隼人も大野もいい奴らだということは分かっている。真面目に打ち明ければ信じてくれるかもしれないし、精神的に心配されることはあっても、嘘つき呼ばわりされたり、馬鹿にされたりはしないだろう。
それでも、あれが見えない者にあれの存在の禍々しさが理解出来るとは思えないし、理解して欲しいとも思っていない。
俺はあの存在を、出来る限り無視していたいのだ。
白以外の誰かとあの存在を共有してしまったら、この世界にあれがいることを、明確に認めてしまうことになる気がする。
項に粘りつくような視線が絡んだ気がして、俺はぶるっと軽く身を震わせてから、ようやくどう言うかを思いついて口を開いた。
「ストーカー……みたいな」
「ストーカー!?」
「おい隼人、声でかいって」
俺が苦し紛れに告げた言葉を復唱した隼人の声は教室中に響き渡り、大野がすかさずその口を抑える。
その様子に思わず笑っていると、しかし大野も隼人も真剣な眼差しに、どこか好奇心を混ぜて見つめてくる。
「お前ストーカーなんかされてたのか。お前が? お前が?」
度重なる確認は、なぜお前なのだ、なんの魅力もないのに、と言外に言われているようで不服だが、俺は渋々、大野の問いかけに頷く。
「ずっと付き纏われてて……それの対策が昨日見つかったんだよ」
一度は叫んだ隼人は、どこか呆気にとられたように深い息を漏らしていた。
「その相手誰なんだよ?」
「分から、ない……」
「知らない奴なのか?」
ただ頷く。
「え、歳はどんくらいの奴? 女? 男ってことないよな」
それからしばらく、隼人と大野から交互に質問攻めにされた。だが俺は事実と嘘を交えながらのらりくらりと躱し、昼休みの時間は終わりへ向かっていく。
話に夢中になりながらもしっかり食は進み、弁当も空になったその時。
開きっぱなしの教室の戸をくぐり、廊下からこちらへ歩いてやってくる白の姿を目にして俺は立ち上がった。
普通、下級生はずかずか上級生の教室に入って来ないものだという感覚は白にはないらしい。
「白……廊下に」
なにか話があるなら一目のない所へ、というつもりで俺は言いかけたが、白はなぜだと不思議そうに一度首を傾げてから。
「放課後、校門のところで待っていなさい」
という一言を残し、また踵を返して去っていった。その言葉に、俺はただ「そうか」と納得しただけだったが。
「おい、何様のつもりだ一年!」
呆気にとられたあと、後を追いかけて行ってしまいそうなほど憤慨する大野を押し留めるのに苦心した。
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