三 -1-

「おはよ、謙介」

 背後からかけられた言葉に、無意識にビクッと肩が震えた。

 振り向けば、そこには大野が立っている。

「おはよう」

 大野の後ろ、河川敷に沿う通学路を登校する生徒たちの中に紛れてあれがいる。ぼうっとした姿が見えてはまた人影に隠れる、佇む存在を意識して視界に入れないようにしながら、笑みを向ける。恐らくその笑みはあまり自然ではなかっただろう。

 俯き、長い髪を垂らしながらじっとこちらのことを見つめている存在を、目線と同じ高さで見るのは、教室の窓から見下ろすのとはまた違う怖さがある。

 だが俺が今、大野の声に思わず反応してしまったのは別の理由だ。

「何だよビクついて」

 爽やかな朝日が降り注ぐ通学路。

 俺の家は学校から近く、いつも徒歩で三十分ばかりかけて通学している。その話をすると自転車通学を勧められることが多いが、人ならざる速度で追いかけてくるあれの存在を意識したくなくて、徒歩を貫き通していた。

 大野はここ神代町の外からの電車通学組だから、最寄りの駅を通り過ぎた辺りで合流することが多いのだ。

「いや、さ……あの、お願いなんだけど」

 怪訝そうな顔をする大野へ、俺はたどたどしく言葉を選ぶ。

「俺のこと、下の名前で呼ぶのやめてくれないか? あ、マジで変な意味じゃなくて。ニックネームで呼んでもらえると嬉しいかなって。松前とか、松でもいい」

 どうかな、と伺う俺の眼差しに、大野は一度目を瞬いて、一拍置いてから吹き出した。

「何だそのお願い。ニックネームで呼んでほしいとか、付き合いたての彼女かよ」

 しかし、ひとしきりけらけらと笑ってから、彼は特に理由を聞いたりもせずに、了解と頷いてくれた。俺の必死な様子から何かを察してくれたのかもしれない。

 大野は高校生になってから出来た友達だ。同じクラスでも一年の時はそこまで親しくなかったが、二年に上って再度同じクラスになり、さらに隣の席になったことで最近急速に仲良くなった。

 さばさばとした性格をしていて、明るくて、ムードメーカーという言葉がぴったりとくる存在。

 俺は背ばかりでかいだけであまり目立つ方でもないが、俺は大野を前から知っていた。華やかな見た目も相まって、クラスの中心的人物、という奴だろうか。

「じゃあ、まっつんな。ケンって名前の奴多すぎんだよなー」

 そう軽く続いた言葉に、ありがとうと笑いながら頷く。心底ホッとしていた。

 このやり取りを、あと何度繰り返せば良いのだろう。そしてその全てで、皆が大野のように、この変な要請を快く受け入れてくれるかどうかを考えると、どうしても気が重くなるが。

 やるしかないのだ。

 改めて気を引き締め、肩にかけた学生鞄を持ち直しながら、俺は昨日の白とのやりとりを思い出していた。


 あの教室での会話の後、俺は白に指示された通りにいつものように家に帰り、家族との時間を過ごした。食事、入浴等全ての準備を済まして、テレビを見る時間をスキップしていつもよりも早めに自室に入ると、約束通りそこに白がいた。

 もちろん玄関から招いた記憶はない。彼はそこに忽然と現れていた。

 彼も彼の家に帰ったはずだが、部屋のベッドに悠然と座る彼は学ラン姿だ。

 招いてもいないのに自室に人がいるのは不思議な感覚だったが、正確には白の作り出した次元というものに俺が招かれたのだ。

 扉の横の壁を探り、暗く闇に沈んでいた部屋の電気をつけると、白は笑顔を浮かべていた。

「どうぞ、お座りになってけっこうですよ」

 まるで彼が部屋の主かのように勧めるその言葉に違和感は覚えるが、特に何も言わずに、逡巡してから学習机の椅子を引いて腰掛ける。

 小学生の時から使い続けている学習机は妙に幼稚で、白に見せるのは気恥ずかしい気持ちがするが、そんなことを今言っている場合ではない。

「この部屋を、あの教室の時のようにおれの次元にしておきました。あまり注意点というものはありませんが、貴方がこの部屋にいる間に他の者が部屋に入ると、その者だけ本来の次元の部屋に入るので、貴方が部屋に居ないように見えます」

 説明される言葉を頭の中で噛み砕き、理解する。

 つまり、今は俺の部屋が二つあるような状態になっていて、同じ扉を開けて入っても、俺が入るのと、他の人が入るのとではそれぞれ別の部屋に行かされてしまうような形か。

「俺が元の次元の部屋に入りたいときにはどうすれば良い?」

「生命以外、そこにある物体などは全て共通ですので、元の次元の部屋に入る必要はないと思いますが、どうしても必要のあるときはおれに言いなさい。対処して差し上げます」

「分かった」

 俺が素直に返事をすると、白は満足げに微笑んだ。この男、全く変化しない声のトーンや態度に比べると、案外表情はよく動くようだ。

 白の顔立ちははっきり言ってしまえば凡庸の一言だが、華やかさはないものの、パーツ一つ一つの完成度が高いような印象があり、そこに表情が付与されると途端に魅力的に輝き出す。

「宜しい。そして、ここからがスケが講じなければならない、別の手段の話になりますが。まず基本的なことをお話しいたしましょう」

 白がベッドの上で足を組み替えるのを眺めながら、俺はただ頷く。そこから、白の長い講義がはじまった。

「世の全てのものには、名前があります。名があるからその者はある次元に固定されている。例えるならば、膨大な地図のある一点を示す座標のようなものと考えていただいてよろしいでしょう。

 名には無数に階位があります。人に限って代表的なものを上げますと、愛称、通称、戸籍名などが一般的です。他に芸名や、筆名等を持っている者もありますね。どれも全てその者のことを指し示していますが、位の高さが違います。

 この感覚は恐らく貴方にも分かりやすいでしょうが、愛称よりも戸籍名の方が厳密に貴方を指し示している。この場合、戸籍名の方が階位は上になります」

 俺はまた頷く。と、白が自分の側に招くように、彼が座っているベッドの横辺りをぽんぽんと叩いた。

 近くに寄れということかと理解して、大人しくそちらへ移動する。

 最早俺の中からは、白に対する反発心のようなものは消え失せていた。

 これが『契約』の効果なのかどうかは分からない。しかし、白に従うことに屈辱は覚えなかったし、むしろ心地よかった。

 距離が近づいたからか、その語る内容に依るものか、白の声が抑えられる。

 この部屋には……否、この次元には他に誰もいないのに、一体何に気を使っているのだろう。

「名の中で、最も高位に位置する名を、真名と言います。例外はありますが、真名は基本的にはその者が世に生まれた時に付けられた名のことを指し、すなわち次元に硬く結びついた名。貴方の真名は」

 そこで不意に白の唇が俺の耳元に近寄り、「謙介です」とごくごく小さな吐息だけで囁く。

「うわっ!」

 その囁き声と耳に感じた吐息に背筋をゾワリとしたものが走って、思わず声を上げながら弾かれるように立ち上がってしまった。

「俺の名前だろう、分かってるよ」

「いいえ、分かっていません。真名とは貴方そのものなのです。真名を知られることは、魂を握られるに等しい状態。

 近づくものが、あんなにもスケに急接近した理由は、貴方の真名が日常的に軽々しく呼ばれ、そして貴方の口から発されているからですよ」

 元に戻った声のトーンで告げられた事実に、俺はベッドの前に立ったまま目を見開く。

 正直、身に覚えがありすぎた。小学校から持ち上がった生徒が多かった中学校までは、基本的に俺は周囲の人間に「謙」や「謙ちゃん」、「謙くん」と愛称で呼ばれてきた。もちろん謙介と呼ばれる事もあったが、その回数で言えば少なかっただろうと思う。

 しかし、高校に入ってから人間関係も大幅に変わり、周囲に「ケン」という音の名を持つ者が増えてから、「謙介」と呼ばれることも激増したのだ。

 あの存在の接近に危機感を覚え始めたのも、ちょうど同じ時期。

「白が俺のことをスケって呼ぶのは」

「左様、真名を避けているのですよ。当然ながら白もおれの真名ではありません」

「それなら別に謙とか松前で良いんじゃないのか。スケって響き大分……不思議だぞ」

 思わず視線を泳がせながら、ずっと思っていたことをようやく口に出す。スケって確か、隠語的に女とかいう意味があったはずだが。スケバンとか。

 ネーミングセンスを疑ったが、白は首を振った。

「松前家の本性は犬です。ケンの音の響きは、より貴方の本性に近い。おれが日常的に呼ぶのは避けたほうが良いでしょう。松前は貴方ではなく家の名です」

「本性が何だって?」

「とにかく」

 話が横道に逸れる気配を感じたのか、白が俺の問いかけを遮る。

「明日から、徹底的に貴方の真名を呼ばれるのを避け、そして自ら名乗るのもやめることです」

 それが、白が昨夜語った、俺の講じる手段その一の内容だった。

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