二 -1-

 俺が通う神代かみしろ高校は、神代町唯一の町立高校だ。百年以上の歴史を持ち、幾度か建て替えられている今の校舎もだいぶ古い。

 神代町は四方を山に囲まれた盆地で、人口一万人にも満たない程の小さな町。不思議と大人になっても町を出ていかない者が多くて、町民の大半が町生まれの町育ち。どこか閉鎖的なところのある地域だ。

 町の中央を門前川という大きな川が流れており、神代高校もその川沿いにある。豊かな水源と良い水質を持ち、日本の名水百選とかいうのに選ばれているらしい。

 生まれた時からずっとここの水を飲んでいるので、俺には他と比べてこの町の水が美味いのかどうかは分からない。ただ、普段からミネラルウォーターを買う必要性は感じない。

 三階の校舎の窓から見下ろせば、校庭を挟んだ校門の向こう側に、大きな車道と、その先に窪んだ河川敷までが視界に入る。

 なお、俺にはその前に、校庭の真ん中に立っているあれの存在が目に入る訳だが。

 不思議な下級生が来たその放課後、俺は教科書を鞄に詰めると、おもむろに自分の席から立ち上がった。

「おい、本当に行く気かよ」

 その瞬間かけられた大野からの言葉に、俺は苦笑いで返す。

「気になることがあるんだ」

「ぜってぇ舐められてるって」

 結果的に無視された大野は、あの授業始まりの時からずっと憤慨していた。

 確かに高校という確固たる上下関係が出来上がっている場において、下級生が上級生を自分の教室に呼び立てるということが、非常に舐めた振る舞いであることは理解している。

 だが俺は大野に手を振り教室を出ると、古びた階段を降りて一年B組の教室の前へと向かった。

 俺にはあの意味深な呼び出しを無視することは、到底出来ない。

 十七年近く生きてきて、今まであの存在を認識する素振りをした人は、彼以外に誰一人としていないのだ。

 そして俺は今あの存在に、底の知れない恐怖を感じている。

 高校二年生の先輩としての矜持など、身に迫る危機感の前ではあまりにも脆い。

 たどり着いた二階の、その教室の前。小さく息を漏らしてから、閉め切られていた教室の引き戸をからからと開ける。

 西日の強い光が差し込む教室は、想像以上にがらんとしていた。

 自分の教室を出てきた時は、大野をはじめ、まだそこにわりと多くの生徒が残っていたが。

「いらっしゃいましたね」

 ここには、そう言って迎え入れる彼だけしかいなかった。まるでこの空間だけが学校の中から取り外されたかのような静寂。

 教室の中央の席に腰掛けたままの彼が、こちらを向いて昼間の時のように目を細める。

「戸は閉めてください」

 一瞬呆けた俺だったが、間髪入れずにそう指示を受けて、教室の中に入ると後ろ手に戸を閉める。そうすると、静寂がいっそうその深みを増したようだ。校庭から聞こえてくるはずの、運動部の声も不思議と届かない。

「お座りになってけっこうですよ」

 まるで彼の屋敷に訪ねてきたかのような物言いだ。一言、呟くように余計なことを言いそうになって、ぐっと飲み込む。そのまま、促されるままに彼の前の席の椅子を引き、向かい合うように腰掛けた。

 そんな俺の様子を、彼は興味深そうに眺めて、ゆったりと頷いた。

「賢明です。堪える、ということを知っている点は貴方の美点の一つでしょう」

「お前、何者なんだ」

 褒められているのか、小馬鹿にされているのか分からない言葉を半ば遮るようにして問いかける。

 彼が不意に姿を表してからこの放課後まで、色々と問いただしたいことがあった。なぜあの存在が見えるのか、なぜ俺に声をかけたのか。なぜ俺を呼び出したのか。愚かと言った意味は……。

 しかし、まずはこの問いをしなければ話にならない。あれの存在が見えていることもあるが、彼の振る舞いはとても一般人の風格ではない。

 その所作から一言一言に至るまですべてが異様だ。

「ハク、とお呼び頂いてけっこうです」

「ハク?」

「字にすると、白と書いてハクと読みます。一般には七瀬白ななせはくと名乗っておりますが、名字に深い意味はございません。白様と呼んでいただくのが障り無いかとは思いますが」

「どうして俺が下級生のお前を様付けにしないといけないんだ」

「ですから、白とお呼び頂いてけっこうですと申し上げました」

 白の目は先程から愉快そうに細められているが、言葉を交わす度に俺の感情は不機嫌に傾いていく。なんというか、人を喰ったような物言いだ。

 全てを見通していて、俺の発する言葉、行動の全てを把握し、その上で先んじられているような。掌の上で転がされているような不快感がある。

「名前を聞いたところで、何の解答にもなっていない。お前は何者なんだ。とても普通の高一だとは思えない」

 苛立つ感情を抑え込みながら再度問いかける。すると、白は机の上に両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。随分悠然としている。

 深みのある黒目は揺るがぬまま俺を見据え、その通った鼻筋から息を吸って、肉感の薄い唇を開く。

「その質問にお答えする前に、まずは貴方にとって関心があるところからお話しして差し上げましょう」

 白は同じ姿勢のまま、じっと俺を見つめる。正しくは、彼は俺がこの教室に入ってきてから一度たりとも俺から目を離していない。

 ただ、そう、改めて瞳に力を入れ直したような、そんな感覚がした。

「貴方に付き纏っている存在のことを、おれは『近づくもの』と呼んでおります」

 切り出された言葉に、思わず息を飲む。

 間違いない。白はあの存在が見えているのだ。それどころか、その存在を前から認識していたような口ぶりだ。

「あれは代々あなたの家、松前の長子に憑いてきた存在です。ああいった、本来この世ならざるものは多くの人の目には見えません。しかし、あそこまで近づけば、さすがのあなたでも気づいているでしょう」

 本当に、最も関心のある話を淡々とした口調で述べられて、俺は呼吸すら忘れる。何となくその口ぶりにバカにされたような気配を感じるが、そんなことを気にする余裕もない。

「近づくものの存在は、いつごろから気づいていましたか?」

 白からそう改めて問いかけられて、ようやく俺は言葉と共に息を吐く。

「物心ついた頃からずっと。遠くに、俺を見て、近づいてきていることは知っていた。誰にも話したことはないが」

「ほう……悪くないですね」

 俺の返答が意外だったのか、白は僅かばかり瞳を大きく開く。続いた言葉は褒められているのか、続けて馬鹿にされたか微妙なラインだが。

「幼少期は感覚が鋭いので、察知できるものも多いのですが、それが途切れることなく続いているのは珍しい」

 白の続けた説明は、分かるようで分からない。

「あれが近づいてきたら、どうなるんだ?」

「近づくだけでは特に害はありませんが、あれの手が貴方に届いたら、違う次元へ連れて行かれます」

「どこに連れて行かれるって?」

「最もわかり易い言い方をすれば、貴方は死にます」

 唐突に突きつけられた宣告に、思わず軽く咳き込んだ。

 問答の先に得た答えはあまりにもわかり易すぎる。

 貴方には変なものが憑いています、しばらくしたら死にます、だなんてあまりにも話が陳腐過ぎやしないか。

 だが、俺にはそれを馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことは出来なかった。俺を悩ませ続けたあの存在の気配はそれだけ、あまりに禍々しいのだ。

 その存在を感じるだけで、背骨を錆びた鋸で引かれ続けているようなおぞましい感覚がする。守護霊などとはとても思えない。

 だからこそ俺は、あれを恐れ続けている。

 あれの手が届いたら死ぬ、という告知を、俺は「やはり」という感触を持って受け入れていた。

「どうしたらいい……」

 唇から漏れた問いかけは、自分で思って発したものよりも弱々しい。

「先程も言いましたが、近づくものは松前家の長子に代々憑いてきた存在です。最も簡単な解決策としては、子を成すことです。

 そうすれば、あれは貴方の子に憑きます。憑く存在が変わればあれとの距離はリセットされ、きちんと対策をしてやれば、貴方の子が大人になるまで近づききることはありません。そしてその子がさらに子を成せば、また距離はリセットされる。松前家はそうして、近づくものとの関係を保ってきたのです」

 白が発した衝撃的な解決策に、俺は口を挟むことが出来なかった。一瞬言葉を失っていたのだ。否、一瞬ではなかったかもしれない。少なくとも言葉を理解するまでに、十秒は口を開けたまま固まっていた。

「待ってくれ、子を成すって、子供を産めってことか?」

「貴方が男であることは無論理解しております。女を孕ませ、産ませれば良いのです」

「無理だ!」

「童貞ですか」

 改めて返された言葉に顔が赤くなるのを感じる。だが、十六で童貞でない者の方が少ないのではないか、お前はどうなんだという文句は飲み込んだ。

 白の口ぶりに、僅かでも面白がるような様子が見えたら言っていたかもしれないが、彼の様子は真剣そのものだったから。

 それはきっと、事実に違いないのだ。

「勿論、俺だって、いつかは結婚して子供が出来るかもしれないが。あれは……」

「そうですね、あの近さ。このまま放置しておけば、来年の今頃には手が届くでしょう」

 明言された期限の短さに、息苦しさを感じる。

 子供が生まれるには十月十日と言うではないか。来年にまで間に合わせるとなると二ヶ月も猶予はない。

 彼女どころか好きな相手さえ居ない俺が、二ヶ月以内にそういうことに至るなど。そもそも高校生だ。

 黙りこくったまま考え込んだ俺をしばらく静かに見守ってから、頃合いを見計らったように白が動いた。

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