第一章「近づくもの」−side謙介-

 この世ならざるものは、ぼうっと佇む。

 それが近づいて来ていることに、俺は昔から気づいていた。

 物心ついた時には、すでにその存在は意識の片隅にあった。いつ何時も遠巻きに自分を見つめている、人の姿をしたような何か。

 友人にも、家族に対しても、はっきりとあの存在のことを問うたことはない。それを口にしてはならないことを、本能で察していたのかもしれない。

 歳を重ねるにつれ、そのような存在が一般的ではないことを俺は理解した。

 あれは、俺だけに付き纏い、俺だけを見ている。

 先日二年に進級したことで新しいクラス編成になり、不運にも俺は窓際の席になった。

 窓際の、一番後ろの席。

 この席順は、黒板を皆が見やすいようにと背の順に並べて決められたものだ。今年の担任は席替えを行わないタイプのようで、一年間この席で過ごすらしい。

 教師の目が届きにくく、何ならぼんやりと外を眺められる位置だ。友人たちは皆羨んでいたが、俺は窓際の席が一番嫌いだった。

 小学生の頃は、あれは校庭を挟んで、さらに学校の敷地の外側に見えていた原っぱに突っ立っていた。目を凝らしても、それがどうやら人の形をしているようだと分かるかどうかという距離感。

 しかし、今は――。

 板書をノートに書き写していた手が震えて、止まった。気を緩めると、窓の向こうを視界の隅に捉えてしまっている気がする。

 あれは、今や校庭のど真ん中に立っていた。

 否、真ん中よりもさらにこちらに近いかもしれない。このところ、近づいてくる速度がさらに早くなってきているように感じるのは、単なる気のせいなのだろうか。

 大まかには人の姿をしていることは分かる。だが、そのぼさぼさの髪に顔を遮られ、体も全てが渾然一体としているそれは、明らかに人ではないものだ。

 嫌でも見えてしまうのでその程度のことは理解しているが、はっきりと直視したことはなかった。なぜならあれは、常に自分を見ているのだ。こちらから見たら、目が合ってしまう。

 向こうの顔すら見えないのに目が合うというのもおかしな話であるような気がするが、俺は常にあれからの視線を感じていた。

 左手で、顳顬こめかみの辺りを覆うようにして頬杖をつく。視界を物理的に遮ると僅かばかり落ち着いて、浅く吐息を漏らす。

 誰に対して誤魔化しているのかは良く分からない。

 もしかしたら俺自身を騙しているのかも知れない。あの存在のことをはっきり認めてしまったら、なんとなく精神が保たない。

 あれが自分の直ぐ側にまで来てしまったら、どうなるのだろう。漠然とした不安の根源は、そこだ。

 昔はその接近速度が遅すぎて、近づいてきているかどうかも分からなかったのに。

 この一年間で、あれはあっという間に校庭の端から今の位置にまで来てしまった。このままいったら、一年も経たないうちに今度は校舎の中にまで入り込んでくるのではないだろうか。

 自分のすぐ後ろにあれが立っているところを想像すれば、背筋に冷たいものが伝った。

 思わず身震いをした時、チャイムが鳴った。

 一斉に空気がざわめき出す。

 授業をしていた現国の教師は板書を消しはじめ、クラスメイト達はめいめいに伸びをしたり話し始めたりしている。

 しかし、俺は頬杖をついたポーズを崩すことが出来なかった。

 あの存在が見えるのは、何も学校にいる時だけではない。俺が歩けば一定の距離感であれも歩くし、なにかの乗り物に乗れば同じ速度でついてくる。

 どうしてあれは俺についてくるのだろう。どうして俺だけにしか見えないのだろう。どうして、近づいてくるのだろう。

 考えれば考えるほど脳の奥の辺りから頭痛がするような気がして、きつく目を瞑る。

 そのまま頭を数回振り、再び瞼を開いた時。目の前に一人の男子学生が立っていた。

「えっ」

 思わず口から素の声が漏れてしまった。

 ここは学校の教室だ。生徒がいること自体は何も可笑しくはないが、足音も、ましてや近づいてくる気配もなかった。

 ついでに、俺にはその男子学生に見覚えがない。

 彼は俺の机の目の前に立ったまま、真っ直ぐに窓の外を見つめていた。

 細く癖のない黒髪が、短く清潔に切りそろえられている。鼻筋の通った、凹凸のはっきりとした横顔のラインの美しさが妙に目を引いた。

「随分と、近づきましたね」

 同級生たちが立てる喧騒の中、彼の囁くように呟いた声が耳に残る。そしてその言葉の内容に、俺は目を見開く。

 窓を眺め、何かが近づいたという。俺にとっては、あの存在を示唆しているようにしか思えなかった。しかし、あれは他の人には見えていないはずだ。

 それは俺が今までの人生で、親や友人、教師の反応を元に確証を得るに至った事実。

「気づいてはいるのでしょう?」

 目の前の男子学生が、明らかに俺にそう問いかけながら、こちらを向く。派手な所のない、一見見過ごしてしまいそうな、しかし端正な顔立ち。

 何の変哲もない黒の瞳が真っ直ぐに俺を見つめる。その白目がどこか青白く感じて、視線に射竦められたような感覚がした。

「……見えるのか?」

 喉の奥から絞り出した問いかけに、男子学生の目が細められる。

 彼は口元に手をやり、その影でくすりと小さく笑ったようだ。雅やか、と、そう形容してもおかしくない所作だった。

「おれのことを知らないのですね。松前まつまえの歴史もついに途絶えましたか」

「松前は……俺の名前だが」

「存じております。松前……」

謙介けんすけ

 男子学生が名字を呼んでから声を途切れさせたため、名乗るべきタイミングだろうかと、そう俺は自分の名を口にした。瞬間、人好きのするように細められていた彼の瞳が、一瞬にして冷える。

「なるほど。あれがこんなにも急接近した理由が分かりました。愚かな」

「愚か?」

 何の気負いもなく一定のトーンで告げられた言葉に、確認のように思わず復唱したが、彼は一切気にした様子がなかった。

 始業のチャイムが鳴り響き、教室に次の授業の科目である数学の教師が入ってくる。

「一年、もう授業はじまるぞ」

 隣の席の大野おおのが、男子学生に声をかける。その時俺ははじめて、彼が一年生だということに気づいた。確かに詰め襟についた学年章がⅠを表している。

 だから見覚えがなかったのか。

「時間が足りませんね。では……」

 大野おおのの存在を完全に無視するように、彼は俺から目線を外さない。

「スケ、放課後におれのクラスに来てください。一年B組です」

「スケ?」

 妙な呼びかけだ。だが気圧された俺は再度、ただ復唱するだけになってしまう。先程からまったく間が抜けている。

 彼はそのまま踵を返すと、教室の中を横切って悠然と廊下へと出ていく。

「貴方のことですよ」

 残されたのは、去り際に告げられたその言葉だけ。

「おい謙介、なんだあの一年。すげえ生意気」

 大野が俺にも声をかけてきたが、曖昧に頷くだけに留めてしまう。

 始業の挨拶の後、教師はいつものように、教科書の開くべきページ数を指定した。俺は慌てて机の中に入れっぱなしだった教科書とノートを引っ張り出す。

 あれは、今また校庭を一歩進んだのだろうか。

 教科書のページを捲りながら、何の根拠もなく、俺はそう思った。窓に向いた側頭部に感じる視線が、いっそう強くなった気がして。

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